弟が死んだ日
弟が交通事故に遭って危ない状態だという連絡が入った。すぐに来いとのことで、どこの病院かということと病室の番号、持ってきて欲しいものなど最小限の会話だけで切られた。
私は頭が真っ白になっていた。バスタオルを持ってこいと言っていたな。バスタオルってなんだっけ? 頭が真っ白なせいでバスタオルがなんなのかも一瞬分からなくなる。分かったところで、「バスタオル、何に使うんだろ?」とまた分からないことが増える。
妻にも連絡せねば。妻の携帯番号⋯⋯分かってるはずなのに思い出せない! なんでこういう時に限ってすぐに出てこないんだ! くそ! 連絡は後だ! とにかく自動車で東病院に向かわねば!
私は車に飛び乗り、エンジンをかけ、すぐに家を飛び出した。法定速度をちゃんと守っていたかの記憶もない。
あれ? 東病院ってどこだっけ⋯⋯
東病院は私の家から少し離れたところにあるが、何度か行ったこともあって道は知っているはずだ。なのに出てこない。人間テンパるとこうもダメになるものなのか、と自分が情けなくなった。いやいや、弟の一大事なんだ、気が動転しない方がおかしいだろう。
交差点の向こうにあるコンビニがふと目に入った。そうだ、車をここに置いてタクシーを捕まえよう。幸いここは駅の近くなのでタクシーが多い。
「東病院まで! 最速で、最短で、真っ直ぐに、一直線に!」
「お客さん、さてはパチンカスだねぇ」
「うるさい、アニオタだよ! はよ走れ!」
タクシーは180km/hで信号無視しながら東病院まで送ってくれた。途中で会ったパトカーと白バイがサイレンを鳴らし始めたので、そろそろ彼は捕まるだろう。私のために、すまない。
「ありがとうございました。このご恩はいつかお返しします」
「あいよ!」
あ! 財布がない! しまった、家に置いてきてしまったああああああ! パニックすぎて本当に何やってもダメな人間になってるよ今!
「すみません、財布を忘れました! 絶対に支払いますので、このスマホを人質に持っておいてください! では!」
「え! ちょっとお客さん!?」
私は病院に入ると、エレベーターまで力の限り走った。
「走んな!」
看護師らしき女性の怒号が響く。すまない、今は弟の一大事なんだ。後でしっかり怒られる覚悟は出来てるから!
エレベーターで6階へ上がる。技術の進歩によりエレベーターの速度はどんどん上がってきているが、今の私には一分一秒が惜しく、このエレベーター内でただ立っているだけの数秒が辛い。
611号室を探す。えー、601-609、610-615、こっちか! しばらく歩き、突き当たりに弟の病室を見つけた。もう手の施しようがないらしく、最後の別れのために我々家族を集めると電話で言っていた。
電話で言っていた。電話で⋯⋯誰がだ? そういえば誰が私に電話を掛けてきた? こんなことも思い出せないなんて、本当に気が動転してるんだな、私は。
611号室に入った瞬間、私は自分がひとりっ子だということを思い出した。病室のベッドには人工呼吸器が取り付けられた男性が寝ており、周りには彼の家族や親戚と思われる男女が数人立っていた。
こいつら、いったい誰なんだ。私は誰の病室に来たんだ。いったい誰からの電話を受けてここに来たというのだ。タクシーにバスタオル忘れたし。なんなんだ私は。
「あ、陽太さん!」
私の名前を呼ぶ中年の女性。ベッドの男性の手を握っている。彼の奥さんだろうか。
なぜ私の名前を知っているんだ。
「陽太! 遅かったじゃないの! 裕二はまだ生きてるわよ! きっとあんたに会うまでは死ねない! って頑張って生きてくれてたのよ!」
年配の女性。彼の母親だろうか。なぜ私の名前を知っている。なぜその男性が私を待っていたと言うんだ。誰なんだお前は。
「陽太さん!」
「陽太!」
「陽太さん!」
ベッドの周りの男女が皆私の方を見て、名前を呼んでくる。そいつは私の弟じゃない。お前たちのことも誰1人知らない。誰と間違えてるんだ、誰と、いったい誰と⋯⋯!
あまりの理不尽な出来事に耐えかねた私は、全員を思いっきりビンタして帰ってきた。後日私はベッドの男性を殺害したという容疑で捕まり、殺人罪で起訴され、懲役11年という判決が下った。確かにビンタしたけども、まさか死ぬとは⋯⋯
あのタクシー運転手は協力者ということで現在裁判にかけられているという。
なんだかんだ理由のない、理不尽なものがいちばん怖い。主人公かわいそう。タクシー運転手は知らない。