空の底で祈る
死期が近づいた風はほんのりと春の匂いがする。幼い頃に祖母から聞いたこの言葉が、『風の看取り人』として働く日々の中でふと頭をよぎることがある。
祖母は春の匂いと言っていたけれど、風たちの匂いはそんな単純なものじゃない。ずっと海を旅していた風は磯の匂いがするし、住宅街の隙間を吹き抜けるのが好きだった風は、雨に濡れた夏のコンクリートの匂いがする。田舎育ちの風は路肩に咲くシロツメグサの香りを含んでいて、山頂で長い時間を過ごしていた風は鼻を突き抜けるような乾いた匂いがする。考えれば当たり前なんだけど、人間と一緒で一つ一つの風に個性があって、みんな違った毎日を送っている。それでも、風たちは自分の死期が近づくと、私たちがいるこの谷底へと何かに導かれるようにやってくる。そして、長い長い一生からしたらほんの一瞬である最期の時間をこの場所で過ごし、それから空へと還っていく。地上で産まれた私たちが土へ還っていくのと同じように。
「きっとユーナさんはこの仕事が向いていると思うわ。言葉で説明するのは難しいんだけど……ずっとここで働いてきた私の直感がそう言ってるの」
人間関係を理由に会社を退職した私が、住み込みで働けて、なおかつ学歴経歴不問という理由で受けた『風の看取り人』の面接。その面接の中で、当時ここの施設長だったマドカさんが私にかけてくれた言葉。志望動機を聞かれてしどろもどろな受け答えしかできなかった私への慰めかなって思ったけど、後々人事の人に話を聞くと、採用の決め手になったのはマドカさんの強い推薦したからだったらしい。
私たちが風の看取り人として働く施設は、周りを高い山で囲まれた谷底にある。日中であっても、太陽の光が周囲の山に遮られ、日向よりも日陰が多い。私が施設を初めて訪れた時も、よく晴れた日の午後2時だったにもかかわらず、谷底はうっすらと暗く、ひんやりとした空気が周囲を包み込んでいた。昼間なのに暗くて不思議な感じでしょう? キョロキョロと周囲を見渡していた私に、面接会場まで私を案内してくれた人事のイワモトさんが話を振ってくれた。そうですね。私は相槌を打ち、施設の窓へと視線を向ける。窓から見える中庭では季節の草花が生い茂り、少し離れた場所に日向と日陰と境界線ができていた。都会から離れ、人の話し声も聞こえてこないこの場所では、耳を澄ませば風たちが樹の葉を揺らす音が絶えず聞こえてくる。
「でも、嫌な暗さじゃないです。心が不思議と落ち着いて、居心地が良くて。何ていうか……木漏れ日の下にいるような、そんな感じがします」
ぽつりと呟いたその言葉に私を案内してくれていたイワモトさんが不思議そうにこちらを振り返る。その瞬間、私は自分の口から溢れた言葉をハッと自覚し、恥ずかしさのあまり顔全体が火照っていくのを感じた。
「き……聞かなかったことにしてください……」
俯きながらそう言った私に、イワモトさんが顔を綻ばせて笑う。ずっと前にここに入った人も、あなたと同じようなことを言っていたんですよ。イワモトさんは懐かしそうな表情を浮かべながら教えてくれる。就職が決まり、その後改めてお話を伺った時、私と同じようなことを言った人というのは、マドカさんだということを知った。面接の時に私にこの仕事が向いていると言ってくれたのも、ひょっとしたら自分と同じような匂いを感じたからなのかもしれない。
だけど、マドカさんが言う通り、私がこの仕事に向いているのかなんて全くわからない。風の看取り人ではあるけれど、その他にも事務的なお仕事だったり、研究活動のお手伝いだったり色んなことをやらなくちゃいけなくて、決して要領がいいとはいえない私としては周りの人たちに助けられながら毎日を過ごしている。細かい気配りができるわけでもないし、一緒に働いている研究員さんたちみたいに頭がキレるわけでもない。一緒に働く人たちは良い人ばかりだし、みんなから可愛がってもらっているけれど、この仕事に向いているって一体どういうことだろうっていつも考え込んでしまう。
「ユーナがこの仕事に向いているところ? うーん……ごめん、ちょっとだけ考えさせて」
一年先輩で、私と同じく住み込みで働いているミスミちゃんが、タバコを吹かしながら考えてくれる。施設の外に置かれた二人がけのベンチで、私は谷底に広がる景色を眺めながらミスミちゃんの言葉を待つ。タバコの白い煙が昇っていき、少しだけ上空では風たちがその煙と戯れている。人間とは違って、タバコの煙と匂いが好きな風は多い。だから、こうして屋外でミスミちゃんがタバコを吸っていると、近くにいた風たちが近づいてきて、彼女の上空をぐるぐると回りだす。近くに生えている常緑樹の葉っぱが擦れあい、さざなみのような音を奏でている。仕事中にタバコを吸えるから。どうしてここで働こうと思ったのかと尋ねた時、ミスミちゃんは冗談混じりにそう教えてくれた。
「ユーナの長所だけど、一つあったよ。ユーナってさ、すごく風に懐かれやすいよね。それって良いことじゃない?」
「風になつかれやすいって言ってもさ、ミスミちゃんとか他の人たちもみんなそうじゃんか」
「いや、何というかさ、他の職員たちには全然懐かない風でも、なぜかユーナだけには心を開いてくれるってことが多い気がするんだよね。イワモトさんから聞いたことがあるんだけどさ、看取り人を選べずに、ずーっとこの谷底に住み続けてるって風も多かったらしいよ。ユーナがここで働き始めてからさ、そういう死ねずにいる風が少なくなったってイワモトさんも褒めてたよ」
働き出したら色んな仕事をしなくちゃいけないわけだけど、それでも私たちは風の看取り人としてこの谷の底にいる。だから、私たちが一番やらなければならないことは、風の死を見届けること。だけど、風が死を迎えるタイミングに規則性なんてものはない。それはよく晴れた日の正午だったり、遠くの景色が見えなくなるほどの土砂降りの日だってこともある。ただ、その時が来ると、私たちは風の看取り人として、風たちのもとへ行かなければならない。そして、その時というのは、風に看取り人として選ばれ、呼びかけられる時。
私は寮の部屋でパッと目を覚ます。そのまま起き上がり、時計を確認すると、時刻は午前2時の深夜。私は隣のベッドで寝ていたミスミちゃんに視線を向けた後で、彼女を起こさないようにそっとベッドから抜け出し、外へ出るために着替えを始める。
「呼ばれたの?」
私が振り返ると、ベッドの中でミスミちゃんが寝ぼけ眼で時計を確認していた。ミスミちゃんは?と私が尋ねると、私の方は呼ばれてないとあくびを噛み殺しながら答えてくれる。
「どの子?」
「多分、『カイト』くんだと思う。起こしちゃってごめんね」
「ううん、大丈夫。そもそも眠りが浅かったしさ。時間も時間だし、一緒に行こっか?」
「ううん。今日は特に冷え込んでるし、大丈夫。それに私だけが呼ばれたってことは、きっと私一人に来て欲しいんだと思うんだ」
助かるわー。ミスミちゃんがあくびをしながらそう言って、再び暖かいベッドの中へと潜り込む。だけどすぐに右腕だけベッドの中から出てきて、壁にかけられた防寒具を指差す。外は寒いから私のダウンを着て行っていいよ。ミスミちゃんがベッドの中からそう言ってくれる。私はお礼を言って、あまいタバコの匂いがしたそのガウンを着込む。その上からマフラーを巻き、外で下に敷くためのブルーシートとランタンを手にし、暖かい部屋から外へ出る。
谷の底の夜は深い。周りの山によって丸く切り取られた夜空には砂金がばら撒かれたように星々が輝いていて、氷を張ったような静寂に満ちている。星の光を影らすような街明かりはなく、遠くから車が走る音が聞こえてくることもない。真冬というわけでもないのに外は突き刺すような寒さで、手袋の中で私の指先にチリチリと焼け付くような痛みが走る。口からこぼれた吐息はタバコの煙のように真っ白で、吐息に含まれた水蒸気は月明かりを一瞬だけ反射して煌めき、それから溶けるように夜の中へと消えていった。
私は谷の底を歩き続ける。迷うということはない。ただ風が呼んでいる方角へ歩き続けるだけでいいから。時折夜更かしをしている風が私のそばを無邪気に通りぬけて、寒さで身体がぶるりと震える。
私は歩きながら、私を看取り人に選んだ『カイト』という名前の風のことを考えた。私たち看取り人は、この谷底にやってきた風たちに名前をつけている。もちろん仕事の都合上命名が必要だという理由もあるけれど、それ以上に、風一つ一つに私たちと同じような人格があるのだと信じているから。
『カイト』が死ぬためにこの谷底へやってきたのは、ちょうど三か月前だった。谷底に来てからというもの、私たち職員はおろか、他の風たちとも関わろうとせず、いつも谷底の隅っこに生えている梅の樹の近くに一人ぼっちでいた。他の職員が仲良くなろうと近づいても、私たちを避けるように空高く上がっていき、それから数時間は戻ってこない。そんな風。ミスミちゃんも他の看取り人も近づくことすらできない一方で、なぜか看取り人の中で私一人だけその子に近づくことができた。ただ、ベタベタと私に擦り寄ってくるというわけでは決してなくて、私が近づいても、まるでそこには私がいないかのように逃げないというだけ。私から声をかけたりしても、何らかのアクションが返ってくるわけではなくて、ただ気まぐれに樹の葉っぱを揺らしては、私に触れないぐらいの距離を保って周囲を吹き抜ける。それだけ。
風には個性があって、私たち看取り人との相性だってある。私たち看取り人も人間だから、人懐っこい風の方が好きになるし、そういう風たちと戯れることが楽しかったりする。だから『カイト』のように、いくらこちらか歩み寄っても決して打ち解けてくれない風は、他の風たちと比べて扱いが大変だって言う人もいる。だから、唯一近づける私だけは、できるだけそばにいてあげようと思って、仕事の合間に『カイト』がいる場所へと通うようにしていた。『カイト』がそんな私のことをどう思っていたのかはわからない。人間と同じように一人でいるのが好きな風もいるし、ひょっとしたら鬱陶しいと思ってるのかなと不安になったこともある。それでも、私はなぜか『カイト』を放って置けなくて、通い続けた。そして、今夜他の看取り人ではなく、私が看取り人として選んでくれたということが、私の行動に対しての彼なりの答えなのかもしれない。
考え事をしているうちに私は目的地へとたどり着く。そこは『カイト』がいつも一人ぼっちで時間を過ごしていた梅の樹の近くだった。私は部屋から持ってきたブルーシートを敷き、地面に腰掛ける。ブルーシート越しに土の柔らかい感触と冷たさが伝わってきて、私は反射的に自分の二の腕あたりをさすった。
風の看取り。なんて、大袈裟な言葉がついているけれど、お経のようなものを唱えたり、儀式めいたものをやるわけではない。私たち風の看取り人は、風に呼ばれた場所に向かい、それから風が空へと還っていくのを見届け、彼らが消えていった空へ向けてささやかな祈りを捧げる。それだけだった。
本当にただ黙ってみているだけでいいんですか? 私が初めて風の看取りを行った時、私は先輩の看取り人として同行してくれたマドカさんにそう聞いたことがある。その時も、今日みたいに凍えそうなほどに寒い深夜で、私とマドカさんは小さなブルーシートの上で、お互いに身を寄せ合って風の死を見届けた。
「儀式みたいなものを作ってもいずれ形式的なものになってしまうし、言葉だって、初めは立派な意味を持っていたとしても、時間と共に言葉の羅列へと変わってしまう。風が望んでいるってわけじゃないしさ、人間が勝手に不安がってそういうものをするのはちょっと違うかなって私は思うの」
「でも、やっぱり何もしないで見ているってだけっていうのも……」
「それは違うと思うな。私たちは何もしてないわけじゃない。風たちが空へ還っていく瞬間、その瞬間に私たちは寄り添って、ささやかな祈りと一緒に見届けてあげる。それは、立派な役目なんじゃないかな?」
マドカさんが穏やかな表情で呟く。目の前に置いたランタンの光で浮かび上がるマドカさんの綺麗な横顔は幻想的で、私は思わず見惚れてしまう。まあでも、私も最初の頃はユーナちゃんと同じ気持ちだったけどね。マドカさんがこっちを向いて、照れ臭そうにはにかんだ。
「そういえばですけど、どうして私がこの仕事に向いているって面接の時に言ってくれたんですか?」
その時、私は自分の照れを誤魔化すように、マドカさんにそんなことを聞いたことを思い出す。マドカさんは直感だよと笑ったけれど、それから風が消えていった方角を向いてから、ぽつりと語ってくれた。
「誰かから深く傷つけられた人の多くはね、意識的か無意識か関係なく、傷つけられたという事実を心の中でずっと恨み続けてしまうの。その恨みは忘れようとすればするほど、心の奥へ奥へと潜り込んでいってしまう。そして、傷つけられた誰かに手を差し出そうとした時、その潜り込んでしまった恨みがひょっこりと顔を出すの。自分の時は誰も助けてくれなかったのに、誰かから助けられるなんてずるいってね。そんな気持ちが、差し出そうとした手を引っ込めてしまう。引っ込めるだけだったらマシで、恨みがとても強ければ、さらにその人を傷つけようとしてしまうかもしれない」
マドカさんがそこで深く息を吸った。私は何も言わずに、マドカさんの言葉を待つ。私たちの呼吸の音が夜の静けさに溶けて、消えていく。
「でもね、ユーナちゃんは違うと思った。これは私の直感だけど、あなたは誰かから傷つけられてもなお、同じように傷ついた人たちに心から手を差し伸ばすことができる人。そんな感じがしたの。谷の底にやってくる風もね、みんながみんな幸せな毎日を過ごしてきたわけじゃないと思う。心に傷を負ったままの風もいるかもしれないし、誰も信じられなくなった風もいるかもしれない。そんな風たちに寄り添って、看取り人として看取ることができるのは、そんな人だと私は勝手に思ってるの。誰かから傷つけられる痛みを知っていて、そして、心の底から他の傷ついた人に手を差し伸べることができるような人」
目を閉じれば、その時のマドカさんの表情が浮かび上がってくる。私はマドカさんが考えてくれているようなできた人間だって胸を張って言えるわけでもないし、マドカさんの言葉を完全に理解できたとは言えない。だけど、ミスミちゃんが私の長所だと言ってくれたこととひょっとしたら関係があるのかもしれない。寒空の下、私はふとそんなことを考える。
そしてそんな考え事をしていたちょうどその時。私を看取り人として選んだ『カイト』がこの場所へと来たのがわかった。私が顔をあげると、それに応えるように『カイト』が私の頬を撫でる。上空で落ち葉がくるくると螺旋を描くように回り始める。風が頬を撫でる感覚は少しずつ短くなっていき、それから息が入れていくように少しずつ風が弱くなっていくのがわかる。足元へ視線をやると、下に敷いたブルーシートの端がパタパタと音を立てて捲れていた。
弱まっていた風が強くなっていく。その時が来た。私はぐっと身体全体に力を込めた。風が流れる方向が螺旋ではなく、真上へと変わった。身体全体が浮き上がるような感覚。私はぎゅっと手を握る力を強め、空を見上げた。風に舞い上げられた落ち葉が高く高く登っていき、澄んだ冬の夜空へと吸い込まれていく。ブルーシートの捲れる音と空中で落ち葉が擦れ合う音が響き渡る。風が弱くなり、そしてまた強くなる。目にかかった前髪を手で払い、私は両手を組んで祈った。永遠かと思われる時間。そんな時間はふっと息が切れるように終わりを迎える。空へと吹き上がる風が少しずつ弱くなっていき、風の音が少しずつ小さくなっていく。そして風が止んだ。あたりを静寂が包み込み、自分の呼吸の音だけが聞こえてくる。私は空を見上げた。空へと還っていった風の跡を、探すように。
風が死ぬ時、なぜ看取り人を必要としているのか。その理由はまだわかっていない。看取り人がいないと死ぬこと自体ができないのか、死ぬその一瞬を誰か他の存在に見届けて欲しいからなのか。それすらもわかっていない。私は空へ還っていった『カイト』のことを想う。谷底の端っこでずっと一人ぼっちでいた風。この子もまた、心に傷を負った風なのかもしれないと私はふと思った。風が何を考えているのかなんてわからないし、風たちが何を楽しいと感じ、何を悲しいと感じるのかすら私たち人間にはわからない。『カイト』が空で生まれ、長い長い一生を生きて行く中で、ずっと一人ぼっちで生きていたのか、それとも何かのきっかけで一人ぼっちで生きて行くことを決めたのか、それすら私たちにはわからなかった。
私はふとある偉人の言葉を思い出す。人生の99%が不幸であっても、最後の1%が幸せであれば、その人の人生は幸せなものに変わる。風にとっての幸せが何なのかなんて私にはわからない。それでも、空へと還っていくその最後の瞬間を、私が看取り人として見届けたことに何かしらの意味があると信じたかった。私はもう一度空を見つめた。私の気持ちに答えるように、夜空の星々が一瞬だけ瞬いたような気がした。
*****
「ほらほら! 早く早く! 他の人も待ってるよ!」
部屋の外から聞こえてきたミスミちゃんの声に、私は支度をしながら返事をした。深夜に『カイト』を看取った翌日の正午。いつもほんのりと暗い谷底に、空の真ん中に位置する太陽が日差しを降り注いでいる。私は粉末状の石鹸と少量の蜂蜜を水で溶いた液体をボウルいっぱいに入れる。そして、液体をこぼさないようにボウルを持ち上げて、私はみんなが待つ中庭へと急いだ。
中庭にはミスミちゃんの言う通り、この施設で働くみんなが集まっていた。そして、その中にマドカさんの姿を見つけた私は、驚きのあまりボウルを落っことしてしまいそうになる。ミスミちゃんが慌てて、私がもっていたボウルに手を伸ばし、こぼれないようにフォローしてくれる。珍しいですね。私が上ずった声で話しかけると、マドカさんが茶目っ気たっぷりに笑って答えてくれる。
「今日は元々事務手続きのためにちょっとだけ顔を出す予定だったの。そしたらさ、昨晩ちょうどユーナちゃんが風の看取りをやったって聞いたからさ、久しぶりにシャボン玉を飛ばそうかなって思ったの」
私はシャボン玉の原液が入ったボウルを草原の平な場所におく。ミスミちゃんや施設で働いている人たちが群がって、吹き具を原液に浸していく。よく晴れた空へ一番最初にシャボン玉を飛ばしたのはミスミちゃんだった。ストローで作った吹き具の先から透明な膜が膨らみ、太陽の光を反射して虹色に輝く。球体となったシャボン玉は吹き口から離れ、それからゆっくりと空へと昇っていく。いつもタバコを吸ってるから上手でしょ? ミスミちゃんが戯けて、周りの人たちも一緒に笑った。
それから私や他の人たちも彼女に続いてシャボン玉を飛ばし始めた。シャボン玉は谷底からゆっくりと空へと昇っていき、ここで死を待つ風たちに時折邪魔されながら、ゆっくりと空へ空へと昇っていく。
風を看取る時、お経を唱えたり、儀式をやったりといった特別なことはしない。それでも、風を看取ってから、次の晴れた日に、風が還っていった空へ向けてシャボン玉を飛ばすという慣習があった。風の看取り人として風の死を見届けた人間が準備をして、谷底に広がる草原からシャボン玉を飛ばす。それに何か意味があるわけではない。ただ、数十年前に一人の看取り人が個人的に始めたことが、数年経った今も続いている。それだけのことだった。
「昨日『カイト』くんっていう風を看取った時、マドカさんと風の看取りをやったときのことを思い出したんです」
隣でシャボン玉を楽しそうに吹かすマドカさんに、私はそう話しかけた。懐かしいね。マドカさんが笑って、私の方へと顔を向ける。
「私がこの仕事に向いている理由について聞いたんですよね。覚えてます?」
「もちろん。あの時のちょっと納得いってないような、ユーナちゃんの顔もね」
「それは忘れてくださいよ……」
「あれからたくさん看取り人をやったと思うけどさ、私の言ってたことって正しかった?」
まだわからないです。私はえへへと笑って、シャボン玉を飛ばす。ふわふわと空へ向かって飛んでいくシャボン玉を見上げながら、私は空へと還っていった風たちのことを想った。『カイト』だけではない。私がこの場所で働き出してから、看取り人として死を見届けたすべての風たちのことを。
彼らが、自分たちの一生が幸せなものと思えますように。空の底から私は祈る。ここでは穏やかに時間が流れ、それから空へ還っていく風たちの匂いが残っている。その匂いは、ちょっとだけ季節はずれの、春の匂いだった。