招かれざる者4
今でこそ慣れてきたが、初期の私にとって「体力づくり」は、筋肉痛づくりとあざづくりであった。
悪戦苦闘する私に、伯爵は特別扱いすることなく接してくれた。女だの王女だのと言われて周りから持ち上げられたり、手加減される方がよほど不愉快だったから、ありがたかった。
初めのうちは、走り込みの途中で脱落してしまったが、次第に男どもについて行けるようになった。
今でも大抵は最後尾を独占しているが、調子のよい時には何人か抜かせるようになった。
二人一組で行う百回連続馬飛びでは、私の固い尻が幾度か屈強な男たちの背中を直撃したが、彼らから黄色い歓声があがることは一切なかった。私に色気が皆無なことが功を奏したのだろう。
こんなことで、いちいち黄色い声をあげられていたら、収まりつつある妙齢の男性恐怖症が復活していたに違いない。
さすが伯爵に選ばれた特に見どころのある奴らは違う、と感心すると共に、彼らの良識の高さをありがたく思ったものだ。
だが、なんと言っても私はこの特異な見てくれだ。私の身分は表立って明らかにされていなかったが、「白髪の不吉な出戻り姫」 に気づいた人も少なからずいただろう。
それでも、私の素性を問い正す人がいなかったことには、心から感謝している。
このように、体力づくりで一緒の面々は、いい人ばかりで怖さを感じなかったが、日が経つにつれ、一部に私を敵視していると思われる者を見つけてしまった。
突如加入した、どこの馬の骨ともわからない女に、走りで抜かされたり、武芸で負かされたりすれば、悔しい思いをするのも無理はないだろう。
ある日、二人一組で剣技を磨く訓練のとき、私と組んだ者が怪我をした。
怪我をした者は、私に怪我をさせられたと伯爵に訴えたが、私にはまるで覚えがなかった。
訓練はまだ始まったばかりで、私はその者と剣先すら合わせていなかったからだ。
だが、自分のせいではないと言えなかった。
私が事実を言えば、訴えた者が伯爵に責められるだろう。
この体力づくりから外されるばかりか、伯爵の信頼も失ってしまうかもしれない。
彼とて、私がいなければ、こんなことにならなかったはずだ。
私がいつぞやの剣の試合で、彼を負かしたりしなければ。
それが、私のせいで。
一日だけ嫁いだ時の記憶が、暴風のように私の脳裏を襲い、口が開かなくなった。
私は黙ってその場を後にした。
どこに行けば、どこにいればよいかわからず、ひたすら丘を下り、海岸を歩いた。
砂と海と空だけが私を取り囲んでいた。
なぜ私は、あれほど体力づくりを頑張ってしまったのだろう。
適度に手を抜いて、目立たぬように振る舞っていたら、こんなことにはならなかったのに。
いや、それ以前に、なぜ体力づくりに参加してしまったのだろう。
こんなことになるのなら、伯爵に声をかけられたとき、断っておけばよかった。
私はいい気になっていたのだ、きっと。
新たな呼び名をつけてもらい、姫と呼ばれなくなったとしても、私が私であることに変わりはないのに。
何を変えれば、周囲の人々を不快にさせないのだろう。
私も周りの人々も、心穏やかに過ごせるのだろう。
白髪を剃っても、背中を縮こませて背丈を低くしても、なるべく高い女らしい声で話したとしても、そんなことで変われるものではないとはわかっていた。だから、これからも決してすることはない。
さりとて、知識や武芸を疎かにはできないことも自覚している。
私は伯爵の書生としてここに来た。その身分に見合うだけのものは身につけなくてはならない。たとえ、敵を作ることになったとしても。
だから、これからもこんなことは起きるだろう。私がここにいて、自らの本分を尽くす限りは。
「何をしている!?」
何をしているとは不可解なことを聞く。
私がいなければよいのだ。そうすれば、これ以上苦しまなくて済む。
幸いなことに泳ぎだけは苦手なのだ。すぐに終わる。
勢いよく近づく、水をかき分ける音が私の背中を逆撫でする。
追いつかれてはならない。もっと速く、前へ、沖へ……行かなくては。
「止まれ、聞こえないのか!」
聞こえている。
私は至って冷静だ。
ここで止まれば、私はまた今日のようなことを起こしてしまう。
そうしないためのことを、しているのだ。邪魔をするな。
「エリー! ばかなことをするな! 止まれ、戻ってこい、おい、聞いているのか!?」
海開きにはまだ早い季節のせいか、海の水は徐々に全身の熱を奪っていく。
声が止んだ。私の後を追っていた水音も。
最初から止める気もないのに、わざわざ呼ぶな、鬱陶しい。
「わかりました」
一瞬、新たに別の人間が来たのかと思ったのは、声色が別人のもののように聞こえたからだ。
しかし、この場に「わかりました」などと言う人間が他にいるはずない。
だから、この声はあの人の声なのだ。
「では、お望み通りになさればよろしい」
王宮では幾度も耳にしたことがある、他人を蔑む口調だった。
下品な物言いを久方ぶりに耳にして、胃の奥底から急激に負の感情がこみあげた。
これが、あの人から発せられたとは到底信じられないが、所詮人などそんなものだということなのだろう。ほんの僅かでも気を許した私が愚かだったのだ。
「あの程度のことで自害するようであれば、放っておいてもいずれ御自ら果てるでしょう。
私がここで永らえさせるほどの命でもない。書生にすべき者は他にもおります」
その通りだ、やっと気がついたのか。
ならば、さっさとこの場から立ち去ればいい。
重要なことに気がつけたことを、心の中でだが褒めてやるから。
だが、私の思いは次の台詞で一瞬にして消滅した。
「少し困ったことが起きただけですぐ悲劇の女主人公を気取り、命を投げ出す真似をするなど、まさに王女の典型。
助けてほしい、救ってほしいという醜悪な精神が透けて見えるわ」
幾度となく虐げられてきたが、このような侮蔑は生まれて初めてだった。
これほど激しく、純粋な怒りが湧いたことはなかった。
王族から浴びせられてきた罵詈雑言には、当然怒りもあったが、同時に悲しみ……というより、そんな下種なことを口にする彼らに、憐れみも感じていたからだ。
誰が、何を、気取っているだと?
助けてほしい、救ってほしいと、いつ言った!?
「もう一度言ってみろ」
気づいた時には、憤りに震えた無様な声が口を突いていた。
「ああ、何度でも言ってやる。
こういう甘ったれた振る舞いをするところが、温室で育ったお姫さま以外の何者でもないと言ったんだ!」
こいつは今、どんな顔をしてこんな無礼なことを吐いているのか。
背中越しに目にした奴に、今までの穏やかな雰囲気はなかった。
あるのは、私を嘲笑する酷薄な笑みと尊大な態度だけだった。
知らないくせに。
私のことなど、何も知らないくせに。
「何も知らない人間が私を語るな! 私が、どれほどの仕打ちを、受けてきたか知らないくせに!」
「だからどうした」
何も知らない者はたやすく使うのだ。その一言が、どれほど残酷か知りもしないくせに。
「きさまのような、全てに恵まれている者にはわかるまい、この……」
この、容姿のせいで、どれほど嫌な目に遭ってきたか。
そんなこと微塵も味わったことのない恵まれた人間に、私を語る資格はない。
「それこそ、勝手に決めつけないでいただきたい。あなたが、私の何を知っているというのだ」
「きさまのことなど知るか!」
「ならばこちらも同じこと、あなたのことなど忖度する必要はない」
そういえばこいつ、さきほど甘ったれといったな、私のことを。
私のどこが甘ったれているのだ。
普通の女には耐えられそうにない、体力づくりにも参加してやったではないか。
私とて、こいつのことなど思いやりたくない。
そちらがその気なら、こちらにも考えがある。
私は今まで背を向けていた方へ足を向けた。
沖を背にしたせいか、波が歩みを速めてくれるように感じた。
「どうした、私への恨みを背に、生きることにしたのか」
そんなわけがあるか。
連れて行ってやるのだ、きさまもあの世に。
波の力を借りて奴に駆け寄った私は、勢いよくその胸倉に掴みかかった。
しかし悲しいかな、歴然とした力の差で、すぐに両の手首を取り押さえられたが、これきしのことで怯む私ではない。ありったけの力を込めて奴のむこう脛を蹴りつけた。
僅かに傾いだ巨体に追い打ちをかけるように、更に蹴りを入れて転倒させようとしたが、いかんせん決定的に力が足りなかった。
私の目論見を見抜いた奴が、渾身の力で私を海中へ沈めにかかった。
私だけが沈められてたまるか、という一心だった。
宙に向いた両脚を奴の太い脚に絡め、掴まれたままの両腕に全身の力と重量を込めて海へいざなった。果たして、奴は哀れにも私と共に海中へ沈んだ。
ざまを見ろ。
歪んだ喜びに口元が緩んだところへ、海水が入り込んだ。情けない失態だがお笑い草でしかない。
咳込んだせいで、余計息が苦しくなったが、絶対にこいつだけは離すものかという執念で、奴に両脚で絡みつくという、見苦しい格好を耐え抜いた。
不意に息が楽になった。
奴が私に絡まれたまま、身体を起こしたのだ。
今にして思えば完全に誤った攻め方で、力の差を考えればこうなるのは当然の結末だった。
おもむろに奴が私の手首を離した。
脚だけでしがみつく格好になった私は、態勢を崩し、再び海中へ落ちてしまった。
だが、私たちがいた場所は、海底に正座しても顔が出せるほどの深さしかないところだった。これでは、何をしたところで命は落とせなかっただろう。
海水にむせる私を、奴は黙って見下ろしていた。
初対面のあの日、少しでも優しそうな人だと思った自分を、時を戻して殴りつけてやりたいと歯ぎしりした。
端正で穏やかな容貌に騙されていたのだ。これほど冷酷な顔ができる男だとは思いも寄らなかった。
本当に、男なんて、大嫌いだ。
「死に損なったな、無様なものだ。尻尾を巻いて王宮に戻るか? 安心しろ、いつでも本土行きの船を用意してやる」
よくもこんな台詞を女に吐けるものだ。これがこいつの本性なのだ。
「それとも、また死にに行くか? 次は止めない。安心してあの世に行くがいい」
ここまで強烈な嫌悪感を誰かに抱いたこともなかった。
王族に虐げられていた時でさえ感じなかった、黒く重い感情がふつふつとこみ上げて止まらなかった。
死ねない。
こいつに一矢報いるまでは。
「死ねない」
どうやってこいつに一矢報いるのかはわからない。
だが、このままではいられない。
「きさまに一矢報いるまで、私は死なない。何があっても、決して死ぬものか」
低く、地を這う毒蛇のような声だった。
これほど卑しく、汚らわしい音が、自分の口から発せられたことが信じられなかったが、これも私の本性ということだろう。
奴の表情が変わった。
冷酷な様子が驚くほどの速さでなりを潜めた。
そして、いつもの気のいい青年の顔に戻ったかと思うと、
「それでこそ男だ」
日焼けした顔にいつも通りの笑顔を浮かべたが、この笑顔はもう信用できない、してはいけないのだ。
というか、男とは何事だ。誰が男だ。
「失礼な、私は男ではない」
「いや、その執念たるや立派な男ではないか。つまり、褒めているのだ、わが書生よ」
全く嬉しくない褒められ方だ。
「今まであなたを女だと思い接してきたが、今後は男として接しよう。
これで手加減は不要! めでたしめでたしだな」
何もめでたくはない。
こいつを見返すためにはどうしたらいいのか。
確たる方策はまだわからないが、そもそも、なぜ私はこのような醜態を晒す羽目になったのか。
私が先刻のことから逃げ出したからだった。
自分には全く非のないことなのだから、はっきりと「私が傷つけたのではない」と主張すればよかったのだ。
それを逃げてしまったのでは、わざわざ自ら罪を被りにいったようなものだった。
あまりに目の前の領主に腹が立っていたせいで、私に冤罪を被せた者のことはどうでもよくなっていた。
彼にとっては不幸だが、元はと言えば嘘をついた者が悪い。嘘相応に裁かれればよいのだ。
いや待て、先刻のことはそれで解決したとしてもだ。
このずぶ濡れの男を見返す機会などあるのだろうか。
つまり、私はまだここに……カシルダ島に留まれるのか。
主たる伯爵に暴力を振るったのだ、牢に繋がれてもおかしくはなかった。
もしかすると、王宮に強制送還させられるかもしれない。
それならそれで好都合、再び大学生活を送れるきっかけになるかもしれないが……
そこまで考えたところで思考が途切れた。
突如、奴が水をかけられた犬のように、全身をぶるんぶるんと震わせたからだ。
水しぶきがこちらにまで飛んできたが、私もそれ以上に濡れていたから、これ以上濡れようと、どうということはなかった。
「しかし、このなりで屋敷に戻ったら、確実にじいから大目玉を食らうだろうな。
まあいい、どのみちこの姿では執務に取り掛かれん、行くぞ」
じいとは伯爵の屋敷の執事のことだ。
私も彼には随分お世話になっているから、いらぬ心配をかけたくはないのだが、それとこれとは話が別だ。
「どうしたのですか、そのお姿は!?」などと聞かれた時には、正直に自分の犯したことを話す決意して、伯爵の後を歩き出した。