招かれざる者3
翌日からカシルダ島での生活が始まった。
「とりあえず、一週間は光合成をするところから始めましょう。
どうにもこうにも、顔色がよろしくなさすぎる」
伯爵の仰せで、まず屋敷の雑用から手伝うことになった。
確かに不健康な顔色だったろう。一年以上も屋内で引きこもっていたのだから。
聖母マノンとは、このときからの仲だ。私の世話係として、初日からずっと屋敷では共に行動している。
マノンは初めて私の姿を見た時から、いやな顔一つしなかった。
私より二つ年下なのに、王宮の面々よりよほど人間ができている。このことだけでも聖母と呼んでいい。多くの時間を過ごす関係なだけに、本当にありがたいことだった。
伯爵は引きこもっていた私の精神状態を考慮してくれたのだろう。初日から一週間は、マノンと二人で庭の手入れや家畜の世話、森での木の実採取など、あまり他人と接しない環境を与えてくれた。
マノンの問いかけにも、初めは一言二言でしか応えられなかったが、むしった雑草から放たれる緑の香りや、牛たちの鳴き声、木々のざわめき、波の音、なによりマノンの優しさに背中を押され、少しずつ会話ができるようになった。
一週間経つ頃には、だいぶ口の回りがよくなったが、いまだに大学に通っていた時のようには話せない。これから先も、あの頃のようには話せないのかもしれない。
王宮で侍女たちに愛情をもって厳しく躾けられたとはいうものの、雑用なるものはしたことがなかった。
従って当然ながら、屋敷の使用人たちにはとても迷惑をかけた。
「なんじゃ姫さま、男前なのに意外とどんくさいですのう!」
男前とどんくさいのとは関係ないと思うが、家事全般をほぼ経験したことがなかったので、いざ教わって実践すると、鈍くて遅い動きになるのは仕方がなかった。
「お姫さまって、お裁縫くらいはできると思ってたんですが……」
普通の淑女なら刺繍くらい朝飯前なのだが、なにせ私には淑女の特性が全く備わっていなかった。驚かれる(呆れられる)のも無理はない。
よく考えれば……いや、そう深く考えなくても、彼らの台詞は一国の王女に対して無礼なものなのだろうが、まるで気にならなかった。
彼らが悪意なく言っているのは口調から聞いて取れたし、このような彼らの態度は、私の侍女たちに非常によく似ていたので、違和感なく接することができた。
伯爵とは会わない日もしばしばあった。
たまに屋敷の中で会ったときも、「おはよう、エステリーゼ姫!」程度にしか声をかけられなかった。
この当時、私の周りの使用人に同年代の異性は一人もいなかった。
たまたまかもしれないが、伯爵が私に配慮してくれていたのだと思っている。
ひと月が過ぎたとき、ようやく伯爵のお供をして外出するようになった。
伯爵とまともに話をするようになったのも、このあたりからだ。
伯爵はカシルダ島のあちこちを案内してくれた。
それも二人きりではなく、マノンが一緒だったり、女性や年配の兵士が付き添ってくれたおかげもあって、伯爵がいても平静を保っていられた。
一番栄えている東の港からは、本島から様々なものが運ばれてきた。
船から積み荷が降ろされるのを見ているだけでも面白く、この活気に溢れた場所が好きになった。
私が最初にカシルダ島の地を踏んだのも、この港だった。
島の北にある岬に立つと、カシルダ島よりもはるかに大きな島が見えた。
あの島の領主はデナリー侯爵という人だと聞いたが、伯爵とはそりが合わないらしく、何かにつけて因縁をつけてくるという。
「あの男、姫がうちにいると知ったら、さぞかし驚くだろうな。
こめかみに青筋立てて悔しがるのが目に見えるようだ!」
伯爵はそう言って高らかに笑った。
私なんかの来訪を羨ましがる貴族がいるとは思えなかったが、何も言わずにおいた。
岬の下に広がる海岸は、海水浴客で賑わっていた。
人混みは嫌いだが、多くの人たちが楽しそうにしているのを見るのは好きだった。
泳いでいくか? などと言われたらどうしようかと心配したが、「猛者どの」と呼ばれているご年配の兵士が同行していたせいだろう、そのような誘いをかけられる危機は回避された。
南の漁港には、たくさんの大漁旗をつけた漁船が停泊していた。
わが国の領海は世界でも三本の指に入る広さを誇り、多くの魚が生息する漁場としても知られている。
獲れたての魚を生で食べさせてもらったときの感動は、例えようもなかった。
内陸にある王宮では、国王でさえ生魚を食べることはできない。
食べ物にとって鮮度に勝る贅沢はないのだと、カシルダ島に来て体感した。
島の内陸に入ると、穀物畑や果樹園、牧草地が広がり、どこまでものどかな風景が続く。
作業中の農民たちは、伯爵の姿を見つけるとすぐに笑顔で手を振った。
王都では……いや、恐らくカシルダ島以外ではありえない光景だろう。
普通なら、平民が通りがかった貴族に手を振れば、その場で鞭打たれることになる。
平民と貴族が親しくなるなど、本来ありえないはずなのだ。
私にとっては普通ではない光景を目の当たりにして、驚きを隠せずにいると、伯爵はこう呟いた。
「カシルダの島民は、私も含めて誰もが懸命に自らの役割を果たしている。
真剣に働く互いの姿を見れば、身分の差など生まれるはずもない。
私たちの間にあるのは、互いを敬い、思いやる気持ちだけだ」
いつもの落ち着いた声色の中に、伯爵の領民に対する深い愛情を感じて、こちらが恥ずかしくなった。
王族や貴族からは一度も聞いたことがない台詞だった。
穏やかで心温まる島の姿も、西側の軍港に出ると一変した。
重厚な軍艦が幾隻も停まり、要塞には何十もの大砲が備えられていた。
ここが国境の最前線であることを思い知らされた。
しかし、普段の私に軍艦や大砲が関わってくることはなかった。
午前中はマノンと屋敷の仕事をし、昼からは伯爵の執務の補助(というより雑用)をする日々が続いた。
そんな日常を繰り返していくうち、いつしか伯爵と二人きりになっても耐えられるようになっていた。
更にしばらく経つと、耐えるという意識すらせずに伯爵と接していた。
カシルダ島の恵まれた自然や穏やかな生活、些細な会話の端々に感じた伯爵をはじめとする島の人々の温かさが、私の心を徐々に開いてくれたのだと思っている。
カシルダ島に来てから三か月ほど経ったときのことだった。
伯爵の買い出しに付き合って市街地に出向いたとき、たまたま通りがかった万引犯を、私が捕まえて投げ飛ばすという出来事が起こった。
王立女子学院で学んだ護身術が役に立ったのと、幾度か襲撃を受けたことがある実体験がものをいったわけだが、私の勇姿を目の当たりにした伯爵がいたく興奮して、
「まさかあなたが、あんな荒業を持っていたとは!
エステリーゼ姫、敬意をもって姫と呼ぶのをやめてよろしいか?
今日からあなたは、名実ともに私の書生だ!」
とのたまった。三か月の間に、伯爵の口調もやや打ち解けたものになっていた。
あれくらい、武人のあなたに比べれば大したことないとか、昨日まで私はあなたの書生ではなければ何だったのかとか、つっこみたいことはいくつかあったが、姫と呼ばれなくなるのは嬉しかったので、了承のお返事をすると、
「いやあ、ありがたい!
前々から考えていたんだが、いい機会だ。今後は何と呼べばいいだろうか、エステリーゼ姫?」
「姫や王女殿下以外なら、なんでも構いません」
生まれてこのかた、「姫さま」「王女殿下」などとしか呼ばれてこなかったので、いざとなると自分の呼ばれ方など思いつかなかった。
(言うまでもないが、『姐さん』と呼ばれていた過去は公開しないことにした。理由はわかってもらえるだろうか。このことを告白したら、『姐さん』が私の呼び名になりそうな嫌な予感がしたからだ)
「実は言うと、もともと堅苦しいのは苦手でな……ん、知ってた、という顔をしているな?」
「申し訳ありません」
図星を突かれたので素直に謝ったのだが、伯爵は思いも寄らないことを口にした。
「なに、お互いさまだ。私もあなたが姫と呼ばれたがっていないことはわかっていたが、なんというかあれだ、建前だの体面だのというものがあるだろう。
それで、一応姫と呼んでおいた方がいいと思ってな」
「はい」
伯爵はともかく、私は今まで彼に対して態度を軟化させたことはなかったから、自分の思いが見透かされていたことを知って、恥ずかしくもあり、少し嬉しくもあった。
そんな気持ちが私を後押ししたのかもしれない。
「お気遣いありがとうございます。
ですが、私は今まで、姫だの王女殿下だのとしか呼ばれたことがなくて、自分をどう呼んで貰えばよいのか、わからないのです。
ですから、閣下の呼びやすいようにお呼びください」
自分でも信じられなかった。
出戻って以来、これだけ長い台詞を口にしたことはなかった。
初めて私が長々と語ったのを聞いたせいだろう。伯爵も意外というような表情になった。そして、
「よほど姫と呼ばれるのが嫌だったのだな。ならば、もっと早く提案すればよかった」
私がぺらぺらしゃべった理由を、伯爵はこう考えたらしかった。
「いえ、そういう訳ではないのですが」
やんわり否定したものの、
「うーん、ではなんと呼ぼうか……
エステリーゼだろう? いい名前だが、どうせなら、なんというかこう、もっとあれだ、気楽な感じというか、親しみやすいというか、そんなよい呼び名はないものか……」
私の略称の選定に集中し始めた伯爵は、考え込みながら歩調を早めていったが、立ち寄るはずの商店を素通りしようとしたので、急いで引き留めると、
「お、あれは?」
ショーウインドウに飾られた商品の一つが、伯爵の目に留まったらしかった。
「なんだあの巨大な人形は……ひつじのエリー?」
そこには、丸々として大きな白い羊のぬいぐるみがいた。
白い羊は、両手で抱えなければ持てないような大きさで、真っ白な毛に覆われて見失いそうになるほど、小さな愛らしい瞳でこちらを見つめていた。
白い毛は私の髪のようにうねり、おさまり悪く四方八方を向いていた。
この商店で購入すべきものが一つ増えた瞬間であり、私の略称が決定した瞬間でもあった。
伯爵が買い物を済ませ店を出るとき、私の両腕にはひつじのエリーが収まっていた。
「今日一番の収穫はこれだな、エリー」
「……はい」
今でも鮮明に覚えている。
嬉しそうな伯爵の顔を見たら、自分の顔が妙な動きをした。
口や頬が変な感じに引きつってきたのだ。
とてつもなく不気味な顔になった気がして、慌てて俯いた。
王宮に戻ってからこの日までずっと、笑っていなかったことに初めて気がついた。
務めを終えて(この日も大したことはしていないが)自室に戻ってから、一人で笑顔の練習をした。
傍から見れば気味の悪い光景だが、ひきつれた笑顔では、多くの人を怖がらせるだろう。
伯爵はもちろん、屋敷の人々や今後出会うであろう人たちに、この怪しげな笑みで不快な思いをさせるわけにはいかなかった。
今日のように、笑いの感情は予想もつかない時に訪れる。
いつ笑ってしまってもいいようにしておかなくてはならなかった。
私の不審な行為を、ひつじのエリーは腕の中で見守っていてくれた。
そのおかげか、数十分後にはどうにか他人に見せられる(と自分では判断した)笑顔を取り戻すことができた。
この数日後、今朝も参加した体力づくりの一員に加えられた。
伯爵の提案を拒否するという選択肢は、私の頭に浮かばなかった。
その代わり、自然と顔に浮かんできたのは、頬が上がり口元が弧を描く感覚だった。