遺物の語ること1
翌日、領主会談一日目の朝。
朝食後、カイラさんと上屋敷の執事、そして私に見送られ、伯爵はいよいよ領主会談の舞台である王宮へ登城していった。
「あれほどお元気そうなご様子のお館さま、見たことあります?」
「いや、昨今の記憶にはないのう」
伯爵を乗せた馬車が見えなくなると、カイラさんと執事さんは感動のため息を漏らさんばかりの勢いで、熱く語らい始めた。もちろん私から少し離れたところでだ。
しかし、幼少期から王宮で虐げられていた私の耳は、かなりの地獄耳に鍛えらえている。多少の小声なら難なく聞こえてしまうのだ。
「お館さま、端正なお顔立ちなのですから、普段からあのくらいにこやかでいらしたらよろしいのに」
「そうじゃのう。しかし、色々とご苦労が多いのは察するに余りあるゆえ、ここでは気を遣わずいてもらえばよいのじゃが」
伯爵が今までいかに上屋敷で無愛想だったかが伺えた。酷い話だ。これほど私によくしてくれる人たちに対して、失礼にも程がある。
早朝の鍛錬の時、それとなく物申しておいて本当によかった。
「それでもせめて、王宮でだけでも社交的に振る舞っていただければ……」
「女性も放っておかないでしょうにねえ」
「左様、肝心なのはそこじゃ」
「そうですよねえ」
二人の声を耳にしながら、私は心の中でおのれを褒め称えていたのだが、
「ハンスもカシルダで苦心しておるからのう」
「そういえば、そろそろ縁談の季節ですね。お館さま、今年こそはいいご縁に巡り合えるでしょうか」
執事さんの声が心持ち小さくなった。カイラさんもそれに倣うことにしたようだ。
「どうかのう、ご縁を結んでくださりそうな妙齢の淑女が、なかなか見当たらないようでな……」
「ならば今年はより一層、舞踏会で頑張ってもらわねばなりませんね」
「しかし、あのお館さまのことだ、うまくいくものかのう」
しばらく沈黙が流れたが、カイラさんが思い出したように手をぽんと叩いた。
「そうですわ、忘れておりました! 今年はもしかすると、とんでもない大金星を挙げられるかもしれませんよ?」
ほほう、大金星とは。
それほど有力な貴族令嬢とご縁があったとは。
あの健康的善人面、私の知らないところでやることをやっていたということか?
しかしそういう淑女がいるのなら、ハンスさんが気を揉む必要はないし、その淑女を舞踏会に誘えばよいではないか。
そうすれば私の出る幕はなくなるし、ありがたいことこの上ない……伯爵の女性事情で、ハンスさんが知らなくて、上屋敷のカイラさんが知っていることなどあるのだろうか、とは思うが。
執事さんも思い当たる節がなかったのか、かなり考え込んでいる様子だったが、
「お、おお、そういうことか! なるほどなるほど。これはレイスタット伯爵家にとって願ってもない良縁じゃのう」
該当者の目星がついたのだろう。執事さんはより一層潜めた声でそう言うと、なぜか私の方に目を向けた。
私が二人の会話など聞こえていないという体で(あくまで私なりに)愛想よく会釈すると、二人はとても優しげな目で礼を返してくれた。
なぜそのような目でこちらを見るのか釈然としなかったが、とりあえず嫌われてはいなさそうだ、といい方に捉えておくことにして、部屋へ戻った。
この上屋敷でも、伯爵と私は早朝の鍛錬を続けることにしていた。
カシルダにいる時と同じ時間に起床すると、上屋敷の外周を走り込み、中庭で木刀を振るい、障害物の代わりに石像や柵を飛び越えるなどして、爽やかな汗をかいた。
鍛錬終了後、気持ちよさそうに汗を拭いている伯爵に、私はさりげなく切り込むことにした。
「お元気そうでよかったです」
さすがに『お館さま、使用人たちにいつも不機嫌だと思われてますよ? 少しは愛想よくできないんですか?』とは言えなかった。
カイラさんはこのようには表現していない。彼女が『お元気ではなさそう』と言ったのは、純粋に伯爵の体調を心配しているのだと思う。
だが、そもそもあの頑健な肉体を保っていること自体が、お元気でなければ無理なのだ。
従ってカイラさんが『お館さま、お元気なさそうだけれど顔色はよいし、お食事もたくさん召し上がるし……もしかすると、私どもにご不満でもおありなのかしら。だからここではいつもご機嫌がよろしくないのかしら』などと考えてもおかしくない。
本来、伯爵は使用人に対する気配りは怠らない人のはずだ。
だからこそ、万が一使用人にこのように思われているとしたら、相当よろしくない事態だと考えたのである。
そして、私の知る伯爵なら、多少遠回しな表現でも、伝えたい事を汲み取ってくれるのではないかと期待した。
「何を言っている、私はいつも元気だぞ?」
伯爵はまだわかっていないようだったが、ここからだ。
「ええ、私は嫌というほど存じ上げていますが、使用人の方々が、閣下はこちらにおられる時はお元気がないと話していたので、もしかしたら急に調子が悪くなられたのかと思いまして」
厳密には使用人の方々情報ではなく、カイラさんからのみの情報だが、細かな事はどうでもよい。
伯爵は明らかに虚を突かれて驚いたのだろう。軽く目を見開いたが、すぐに沈痛な面持ちになった。
「いや、そんなことはない」
無理やり発したような声に、私がそうですかと応えると、少しの間沈黙が流れた。
伯爵は私に背を向け、両手で椚色の頭髪をひとしきりかき回すと、こちらを振り返らずに呟いた。
「ここのみなには、学生の時分から世話になっているんだ」
「そうでしたか」
「確かに、元気がないと、言っていたんだな?」
「はい」
短い私の返答の後、微かだが長い吐息の音が聞こえた。
「あの頃の気分が抜け切れていなかったんだな、ずっと」
つまりここ上屋敷では、よく言えば素の部分を出せていて、悪く言うと学生時代のように多少わがままになってしまうと。
その結果、使用人たちへの配慮が疎かになり、元気のない不機嫌で無愛想な姿を見せてしまった、ということだと解釈した。
「もう学生ではないのにな」
「そうですね」
伯爵は頭を振るとこちらへ横顔を見せた。
「みなに感謝しなくてはな」
短い一言だったが、黙って見守ってくれる使用人たちへの感謝の気持ちが込められていた。
「おっしゃる通りです」
「どんなものを買って帰ったら、喜んでもらえるかな」
そういえばこの人は、カシルダの屋敷にもちょっとしたものを買って帰ってくることがある。
菓子や果物、時には鮮魚、夏には花火などなど。
もしかすると、この人が手土産を持って帰ってくるのは、屋敷の誰かによろしくない事をしたと自省した時なのかもしれなかった。
カシルダの屋敷で伯爵に対する不平不満は聞いたことがない。
それは手土産効果で抑えられたりしている訳ではなく、伯爵と屋敷の使用人の信頼関係の厚さによるものだ。
それはここ上屋敷でも築かれていると思われた。
『元気な』伯爵をお見送りした後の、カイラさんと執事さんの喜びようと言ったら、まるで海神祭と創国祭が同時にやって来たかのような浮かれ具合だった。
それだけ彼らが伯爵を心配し、慕っていることの証だろう。だから、今日の手土産も、
「どのようなものでも喜ばれると思いますよ。閣下のそのお気持ちが、なによりのお土産になるかと」
この時の健康的善人面の笑顔は、当分記憶から消えないだろう。
残念ながらそう確信させる程の代物だった。
そのなんとも形容したくない笑みを収めると、伯爵は矛先をこちらに向けた。
「あなたにも土産を買って帰るから、という訳ではないんだが、頼みがある」
「?」
「今日は帰ってくるのが日をまたぐと思うんだが、明日の打ち合わせをしたいから、必ず起きていてくれよ? アリスからの話も聞きたいしな」
そして再び笑ってみせたのである。
今度は先程と全く違う、いまいましい程の能天気さ満点の笑みだった。
かしこまりました、と申し上げた私の表情は、完全に蜂蜜のおあずけをくらった熊のようになっていたに違いなかった。
アリスさんが上屋敷に来るまでの間、自室で今晩の伯爵との打ち合わせの準備をすることにした。
今日の領主会談は昼からが山場だ。
午後に開かれる産業別会談、ここが領主会談で最も神経をすり減らす会議になると思われる。
軍事担当の貴族は伯爵を含めて二十数名。
わが国で最も強大な軍事的権限を持つのは当然国王だが、今回は貴族が持つ軍事力や守備する国境についての話し合いだ。
貴族の中で最大の軍事力を所有しているのは伯爵ではない。より広大な領地を持つ上位の貴族が何人もいる。
しかし、こと実戦面では伯爵に圧倒的な負荷がかかっている状況だ。
そういう意味では伯爵の発言権は大きいはずなのだが、
「何も言わせてもらえないからな」
昨日の打ち合わせでこう呟いた時の伯爵は、『元気のない』表情をしていた。不機嫌かつ無愛想。
そういう顔にもなるのも無理はない。
上位の貴族が持つ所領は王都に近いことが多い。
そしてわが国の場合ではあるが、王都は地理的にわが国で最も安全な場所にある。
ということは、上位の貴族の領地で軍が必要になる可能性はかなり低い。
にも関わらず、こいつらの権限と軍事力と年齢は伯爵よりもはるかに高い。
伯爵にとっては、やりづらいことこの上ないのだ。
「それでいて、こちらのやり方にはいちいち口を出してくる。ミデルファラヤに砲撃するな、刺激するなと。
それは私たちに、黙って海の藻屑となれと言っているのと同じなんだと、いつになったら気がつくんだ。
かといって、ならば攻撃しないから奴らを威嚇するためだけでいい、兵力を貸してくれないかと頼むと、それはできないのだそうだ」
恐らく毎年このやり取りをしているのだろうと思うと、さすがに伯爵が不憫に思われた。
私が引きこもりでさえなかったら、会議に同席してこの貴族どもを打ちのめしてしてやるのだが。あくまで平和的言論で。
「だったらもう、おまえたちの力はいらないから、その代わり一切指図しないでくれ。私の好きなようにやるから」
そう吐き捨てた伯爵の声と表情は、今までに見たことないものだった。
「全責任も私が取る。責任を取りたがらない奴らの助けはいらない」
その台詞にも、カシルダの民の命を預かる者としての怒りに満ちていた。
その命を守り切ることができなくなる可能性を、同胞であるはずの貴族たちが足を引っ張って増産しているのだ。
今晩伯爵が帰って来た時、無愛想でも不機嫌でも責めるつもりは毛頭なかった。
一時間ほど経った頃、侍女の一人が部屋にやってきてアリスさんの来訪を告げた。
昨日打ち合わせしていた通り、会議室に案内してくれているとのことだったので、筆記用具を持って会議室に向かった。
会議室にいたのは、見目麗しく感じのよい美女だった。
「初めてお目にかかります、エリーさま。アリス・ミューレンと申します。本日より三日間、どうぞよろしくお願いいたします」
よくやった、褒めてつかわす。
私は心の中で伯爵に労いの言葉をかけた。
アリスさんも私を王女殿下と呼ばなかったのは、健康的善人面の根回しのおかげと思われたからだ。
「初めまして、エリー・ブラントです。こちらこそお世話になります。ご迷惑をおかけしますが、どうぞよろしくお願いいたします」
王女殿下と呼ばれなかったことに心が浮かれたせいだろう。アリスさんとは初対面にも関わらず、淀みなく自己紹介を終えることができた。
にっこりと微笑んだアリスさんが、直後おやというような顔をした。
アリスさんのぱっちりした赤銅色の瞳が、やや上方を向いているように見えたので、彼女が何に違和感を覚えたのかすぐ理解できた。
私は頭に指先を添えた。
「こちらでは、かつらを付けているんです」
そう、私は船上に引き続いて上屋敷でも、朝から晩までかつらのサシャータと行動を共にしていた。
なぜなら、上屋敷の住人全員が、全てカシルダ印の大らかな人間とは限らないからだ。
カイラさんの言動を見るにその可能性は高い気もするが、未だ確定はできていない。
もし上屋敷の住人が本当に全てカシルダ出身だったなら、あの伯爵のことだ、『ここではかつら取っても大丈夫だぞ』くらいのことを言ってきそうなものだが、そのような言葉もない。
ただでさえ、この王都ではびくびくして過ごさなくてはならないのだ、せめて上屋敷の中では冷たい視線を浴びたくない。
王都出身の人からしたら、白髪の大女(私)が屋敷をうろうろしていては落ち着かないだろう。
もっとも、かつらを被っていても、私の存在自体が落ち着かないとは思うが。
なんにせよ、私と上屋敷の皆さんの精神衛生上、念には念を入れておく必要があるのだ。
そういう訳で、私としては単に事実を述べただけだったのだが、アリスさんにとってはそれだけでは済まなかったようだ。
麗しいお顔が急に曇ったかと思うと、勢いよく艶やかな黒髪の頭を下げた。
「も、申し訳ございません! 私ときたらなんという無礼なことを!」
「いえいえ、こちらこそ、かえってお気を遣わせてしまい申し訳ありません」
ということで、少しの間「申し訳ありません」「いえいえ」のやり取りが続いたが、侍女が紅茶と小皿に美しく盛り付けられた菓子を持ってきてくれたところで、謝り合いは収束した。
互いに席に落ち着き、紅茶を一口飲んだところで、アリスさんは大きな鞄から大量の新聞と紙を取り出すと、今日の我々の仕事について説明してくれた。
「王都で発行されている新聞を全種類持ってきたのですが、この中から、印の付いている記事だけをはさみで切り抜いていただいて、こちらの紙に貼り付けるという作業を、お手伝いいただきたいのです」
なるほど、すぐに見返したい新聞の記事だけを抽出して、見やすいように保管しておくのだな。
このような作業なら私にもできる。ありがたいことだ。
早速作業が始まった。
しばらくの間、切り貼り作業に集中していたのだが、忘れてはいけない任務を思い出した。
切り抜かなくてはいけない記事の内容が、残念ながら個人的に興味をそそらないものだった事が幸いしたようだ。思い出せてよかった。
私はおそるおそる声を出した。
「あ、あの、アリスさん」
「はい、なんでしょう?」
アリスさんは大きな赤銅色の目をぱちくりさせた。とても綺麗な瞳でいらっしゃる。
「先日、ドナーク島に行かれて、遺跡を、ご覧になったとお聞きしたのですが」
「はい、見て参りました。カールさまからお聞きになられたのですね」
か……?
一瞬頭が真っ白になったが、どうにか思い出した。伯爵の名前だ。
普段の業務では殆ど使わないし、名前で呼んだことも一切ないからすっかり忘れていた。
「は、はい」
慌てて応えた私に、アリスさんはにっこり微笑むと、
「エリーさまは遺跡が大好きだとお聞きしていますから、うまくお話できるといいのですけれど」
そう前置きしてから、例の遺跡について話し始めた。




