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王都行き前夜2

 そうと決まると、私とじいは綿密な口裏合わせを始めた。


 お館さまには私が舞踏会に出る意思があることを、決して当日まで知らせないこと。

 とはいうものの、私の衣装は事前に用意しておかないと間に合わないので、上屋敷に到着したらすぐ、密かに衣装を手配してもらうこと……などなど。


 衣装に余計な金銭を使わせてしまうのはもったいないが、伯爵に女性の知人がほぼいないのが問題なのだ。私は悪くない、ということにしておく。


 (王宮の私の部屋にはそれなりの衣装が置いてあるが、そもそも私に単身王宮に行く胆力がないのと、行けたとしても誰にも見つからずに潜入することは不可能なので、申し訳ないが却下させてもらった)


 だが、いささか不安な点があった。

 私が想定していた以上にじいがごきげんなのだ。


 私にはこの作戦を遂行するにあたり、じいには了承しておいてもらいたいことが二点あったのだが、もしかすると、じいはそれらを把握していないのでは、と心配になってきたのだ。


 まず一つ目は根本的なこと。


 伯爵にも選択の権利がある。

 たとえお相手を見つけられなかったとしても、私と踊るくらいなら社交界で嘲笑される方がましだ、とお考えになれば、その選択は尊重されて当然なのだ。

 そうなれば舞踏会当日は、伯爵が上屋敷でくすぶっている姿を、生暖かく見守る所存である。


 誤解されると困るので、念のため名言しておく。


 そもそも、私は王宮になど微塵も行きたくなければ、舞踏会でちゃらちゃら踊りたくもないし、ましてその相手が、妙齢の男性こと健康的善人面ともなれば、本来なら断固として拒否したいのだ。

 従って、伯爵が私を相手にすることを嫌がれば、私にとっては願ったり叶ったりなので、無理に踊るつもりは毛頭ない。


 それから、こちらがより重要な二つ目。


 私は王宮の鼻つまみ者。

 『ばけものけだもの(以下省略)』と言われ続けて育ってきた人間だ。


 伯爵がそんな人間を伴って舞踏会に出席したらどうなるか。

 王族から貴族、王宮の使用人に至るまで、全方位から罵詈雑言を浴びせられるのは、カシルダが四方を海に囲まれているのと同じくらい明らかだ。

 従って、私を同伴するのであれば、伯爵には相当量の覚悟を持っていただかなくてはならない。


 この二点を把握しておいていただきたいのだが、じいの喜びぶりを見るに、どうも考えていない気がしてならないのである。


 というわけで、じいと打ち合わせをしながら、これらの事項を確認する機会を伺っていたのだが、さり気なく聞けるほど私の言語交流能力は高くない。なので、話のきりのいいところでねじ込むことにした。


「……ところでハンスさん、ここまで作戦を練った後で言うのもなんですが」

「なんでしょう?」

「閣下が私と踊るのは嫌だとおっしゃったら……申し訳ないですが、私には打つ手がありません。

 その時は閣下が後ろ指さされるのを、見守るしかできません」


 じいは困惑すると思っていたのだが、予想とは逆に暖かい笑顔を見せてくれた。だが、次に放った言葉は想像の域をはるかに越えていた。


「その心配はご無用です。お館さまもエリーさまとなら喜んで踊られるでしょう」


 なんとも背筋の凍りつくことをおっしゃったのである。


「いやいやいやいや、それはないです絶対ありえないです!」

「そんなことはありません。実はお館さま、おっしゃっていたのですよ」


 あの能天気善人面、この期に及んで何をほざいたというのだ。


「わたくしが、エリーさまにお願いしてはいかがですか、と申し上げたら、あの人は絶対にだめだと」

「それはそうでしょう、ごもっともです」

「ただでさえ無理を言って王都に来てもらうのに、これ以上負担はかけたくないのだと、そうおっしゃっていまして」


 何を言っているのだ。

 『ただでさえ無理を言って』とはどういうことだ。

 何一つ無理なことは言っていないではないか。

 言ったのは『あなたが必要なんだ』これだけだ。

 これが『無理なこと』だとでも言うのか。


 まさか。


 この一言が、私の心を揺り動かし、王都へ行く気にさせると、わかっていて言ったとでもいうのか?

 だとしたら……だめだ、いま考え出したらじいとの話ができなくなる。


 私はじいの言葉に、そうですかとだけ答えると、最も重要なことを伝えることにした。


「それから、これも今更の話になって恐縮ですが、閣下が私と舞踏会に出席すれば、他の王族や貴族から確実に嫌味や悪態を言われます。

 そうなると、閣下には舞踏会を欠席するよりもっと、不快な思いをさせてしまうかもしれません」


 そこまで口にしたところで、鈍器で殴られたような衝撃が全身を走った。


 理解していなかったのは私の方だ。


 こういう懸念がありながら、なぜ伯爵のお相手をしてもよいなどと言ってしまったのか。

 伯爵を助けるつもりが、嫌な思いをさせてしまっては元も子もないのに。


 気がつくのが遅かったが、気づいてしまった。いや、舞踏会当日まで気づかないよりはましなはずだ。


 喜んでいるじいには非常に申し訳ないと思う。それでも。


 この話はなかったことにしよう、なかったことにさせてもらおう。


「……それを、考えると、大変申し訳ないですが」


 喉が塞がり声が出なくなる。しかし、自分で蒔いた種だ、自分で刈り取らなくては。


「やはり私は、伯爵のお相手としては、相応しくない、と思うのです。ですから、このお話は……なかった、ことに、していただけないでしょうか」


 消え入りそうな自分の声が、情けなくて仕方がなかった。


 何が『下の地位にいる者を守れなくて、何のための特権、誰のための王族』だ。

 浅薄な思いつきでじいを喜ばせておいてから失望させたり、伯爵に不快な思いをさせるところだったなんて。


 最低な人間だ、私は。


 私はどんな顔をしていたのだろう。

 じいはかつて見たことがない優しい顔で私を見ると、


「お館さまは幸せ者ですな。王女殿下ともあろうお方に、これほど気遣っていただけるのですから。

 ありがとうございます、エリーさま」


 そう言って深々と頭を下げた。


「ハンスさん、やめてください、そんな、本当のことを、言っただけなんです、私は本当に」


 王宮にいた頃、子守歌のように浴びせられた声が、おのれの愚かさに追い打ちをかけるように、頭の中で反響する。


 ばけものけだもの

 疫病神死神悪霊妖怪

 おまえが生まれて以来この国にはいいことが何一つない

 この国がどんどん貧しくなっているのもおまえのせいだ

 気持ち悪い白髪あっち行け

 栄光あるわが国の恥さらし汚物一刻も早くここから出ていけ

 おまえが歩いた後の床を踏むこと自体汚らわしい

 同じ空気を吸うのもいや菌が感染する

 寄るな触るなこっちに来るな


 私はこんなことを言われる存在だ。


 それでも私は王族だから。じいや伯爵のために何かできなくてどうするのか……そう思った。思ってしまった。


 どうして自分が役に立てるなどと思い込んだのだろう。

 私は王族としても価値のない存在だったのに。

 どうして今の今まで忘れていたのか。

 なぜ舞踏会に出るなどと言ってしまったのか。


 過去の呪詛が、心を固め凍りつきそうになった時だった。


「ご安心ください。お館さまはご心配いただくほど柔な方ではございません」


 じいの年を重ねた深い声が、心の奥底に響いた。


 わかっている、あの人が強い人なことは。そして優しいことも。


 だから、あのような言葉を浴びせられる側に立たせたくない。

 あの人は太陽の下で光だけを浴びて生きるべき人だ、私のように日陰の陰湿な場所を味わってはならないのだ。


「ですが、私は王宮で、本当に忌むべき存在で」


 あの王宮の陰湿さを知らない人には、具体的に言わないと理解してもらえないのかもしれない。

 心を突き刺してくる言葉の数々を口にするのは、傷口を抉るようなものだったが、これも自分の愚かさの代償だ。


「私は王宮で、ばけものとか、けだものとか、色々言われてきて、疫病神とか、人間扱いされていなくて、他の王族も貴族も、私が来れば、黙ってはいませんから、きっと、閣下にも色々言って」

「お館さまは、誰にでも言うべきことは言えるお方です。心配はご無用ですよ」

「ですが、そうなると、閣下のお立場が……王宮での閣下のお立場が、より悪くなってしまいます。私のせいで、そうなってしまっては」


 必死に自分がもたらす弊害を訴えたつもりだったが、じいの優しさを湛えた眼差しは揺るがなかった。そればかりか、このような言葉をかけてくれた。


「エリーさまはお優しい。お館さまには勿体ない書生でいらっしゃいます」


 私は優しくなんてない。書生などと名乗れるほど賢くもない。声も出せなくて首を振ることしかできない、情けない存在だ。

 にも関わらず、ハンスさんは眼差しと同じ優しさで声を繋いだ。


「王女殿下にこのようなことを申し上げるのは誠に僭越ですが、わたくしは、エリーさまほどお館さまのお相手に相応しい方はいないと思っていたのです。

 ですから、エリーさまがお館さまのお相手になるとおっしゃってくださった時、とても嬉しくて」


 だから、どうしてそうなるのか。この人は私の言うことを聞いていなかったのか。

 いや、私は確かに言った。言ったはずだ。なのにどうして。


「正直申し上げますと、お館さまも王都で声をかけた方をお相手にするより、エリーさまにご一緒いただいた方が、余程安心なさると思います。それに」


 私と一緒で安心できる男など、この国にいる訳がない。

 いるとしたらそれは……頭のねじの外れた奇人変人だ。


「これほど美しくてお優しい方に、無礼な言葉を投げかける輩は、はっきり申し上げて、人の形をしているだけの木偶の坊です。恐れながら、捨ておけばよろしいかと存じます」


 じいの顔には笑顔がなくなっていた。

 代わりにあったのは、以前私に仕えてくれていた侍女たちと同じ表情だった。

 私が某国に嫁に出るまでずっと、愛と厳しさを持って私を守り育て、大切に思い続けてくれた人たちと。

 侍女以外の人がこのような思いを抱いてくれるとは、夢にも思っていなかった。


 心の中で様々な感情が乱れ飛び、どのような言葉を発したらよいのか、思考をまとめられなかった。


「私からもお館さまに、エリーさまを全力でお守りするよう、きっちり言っておきます。

 ですからエリーさまは、舞踏会に行かれることになりましても、安心してお館さまの隣にいらしてください。どうか、どうかお館さまを、よろしくお願いいたします」


 忌まわしい呪言の数々が、少しづつではあるものの脳裏から消えていくのがわかった。


 ここまで言ってくれる人がいるなら、答えられるかどうか自信はないが、期待に沿うてもいいのかもしれない。そう思えるところまで感情が立ち直ってこれた。


「……それは、言っては、だめですよ。私が、舞踏会に出席してもいい、と思っていることが、ばれてしまいます」


 声を詰まらせながら口を開いた私に、


「ははは、そうでしたね。では、気づかれないように、それとなく言っておきましょう」


 じいは目を細めて笑ってくれたのだが、その後に続いた台詞は私の眉間に皺を刻んだ。


「エリーさまが来られてから、お館さまが明るくなられた気がするのです」


 ああ……それは、あれだ。あれしかない。


「それは、こう申し上げてはなんですが、いい年して私に変なあだ名をつけて喜んでいるお姿が、明るくなられたように見えたのではないでしょうか」


 私はここぞとばかりに、珍妙なあだ名を付けられて困っていることを、さりげなく愚痴ったのだが、


「そうだったのですか? お二人とも、楽しそうにしておられましたよ?」


 どこをどう見たらそういう見解になるのか。とはいうものの、


「エリーさまも、以前に比べて随分お元気になられて本当によかったです。これからも、お館さまをどうぞよろしくお願いいたします」


 こんなこと言われたら、じいを怒る気になれない。


「いえ、こちらこそ、ハンスさんにも皆さまにも、とてもよくしてもらい、本当にありがとうございます。不束者ですが今後ともご指導ご鞭撻のほど」

「エリーさま、エリーさま」


 じいが制するように私に向けて手を上げたので、動きを止めると、


「王女殿下とあろうお方が、滅多なことで下々の者に頭を下げてはなりません」

「ですが」


 そういう面もあるかもしれないが、自分がよからぬことをした時には、身分の上下関係なく謝罪をするのですよ、と侍女たちに教わってきたので反論しかけると、


「エリーさまは、本当にお優しくていらっしゃいますなあ」


 こう何度も優しいと言われると、なんとも居心地が悪くなってしまい、じいの思考回路を疑りたくなってくる。


 じいの周辺にはまともな女性がいないのだろうか。

 いや、そんなことはない、奥方は普通に優しいおばあさんだし、女性の使用人たちにも怖い人はいない。

 ならばなぜ、私などが優しいと言えるのか。もしやお世辞か? そのような雰囲気は感じないが……


 などと考えながらも、どう返答しようか急いで言葉を探していると、じいと私の中で渦中の人物が、なんとこちらに近づいてくるではないか。


「お館さま、湯浴みから上がられたようですね。ではここでお開きにいたしましょう。エリーさま、お休みなさいませ。また明日」

「あ、は、はい、お休みなさい」


 じいは優しいおじいさんから執事の顔に戻ると、私と遠くに見える伯爵にそれぞれ一礼してから、食堂を去っていった。


 じいから一礼されたお館さまはというと、にこやかにじいに手を振った後、飲みかけのコップを持つ私に近づいてきた。


「どうした、じいと話し込んでいるなんて珍しいな。逢引きの約束でもしていたのか?」

「……!」


 誰のせいで私とじいが頭を悩ませていたと思っているんだ!

 もういっぺん湯船で頭の先まで浸かってこい、そして湯あたり起こして倒れてしまえ!




 この後、私の伯爵に対する言動が、常に増して冷酷だったことは言うまでもなかった。

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