王都行き前夜1
それからというもの、私は今まで以上に知識の吸収に努めた。
領主会談で議題に上がると思われる事象の知識から、国内と世界の情勢、果てはわが国の王族貴族の動向、王都で広まっている噂話まで。
わが国の王族貴族の、仕様もない政争やどうでもよい社交界の出来事を目にするのは、苦痛でしかなかったが、これらの知識は伯爵の愚痴に付き合うために不可欠だろうから、いやいやながらも情報要綱を読み進めた。
それにしても、本当にくだらない。
『ハートルーク侯爵の領地侵害に対し、シャルマン公爵は猟犬百匹を放ち報復した。侯爵家の耕地は多大な被害を被った模様』
『社交界の華フェステルスター伯爵夫人、新ブランド設立! セレモニー当日に仕立ての依頼が殺到。領主会談の最後を飾る舞踏会の衣装に新風を起こすか?』
国内で領地争いをやっている暇があったら、その血の気の多さをカシルダ沖の海をうろうろするミデルファラヤに向けてくれないか、などなど突っ込みどころは多々あるのだが、きりがないのでやめておく。
このような無益なものから重要なものまで、種々様々な情報を詰め込んで破裂しそうな頭になりながらも、いよいよ王都へ向かう日は近づいてきたのだった。
王都行き前日の夜。
伯爵と早めの夕食を済ませた後、明日の最終確認をする前に湯浴みを済ませておくことにした。
浴場に行く際には食堂の横を通るのだが、この日は時間が早かったせいか、食堂にはまだ殆ど人がいなかった。
だから余計に目立ったのだろう。
食堂の片隅で伯爵とじいが話し込んでいるのが目に留まった。
二人の雰囲気に、具体的にどうとは例えられないのだが、常とは異なる空気が感じられて声をかけるのが憚られた。
とはいうものの、湯船に浸かって一日の疲れを癒した頃には、二人のことなど綺麗さっぱり忘れていたのだが。
そうして湯浴みを終え、寝る前にかつらのサシャータと対峙しておくか、などと考えながら浴場を出て食堂に差し掛かると、先刻目撃したのと同じ場所に深刻そうな顔をしているじいが見えた。
伯爵の姿はなかった。
いつも泰然自若としているじいが深刻な顔をしているのは珍しい。
普段からじいにはお世話になっていた。
特にカシルダに来た初期の頃には、マノンとこのじい夫妻がいなければ、私はこの屋敷で暮らしていけなかっただろう。
これは少し前にマノンから聞いたのだが、私の使用人仕事における相方にマノンを指名したのは、使用人の頂点に立つじいの奥さんだったという。
この話をマノンから聞いた時、私は彼女に気味悪がらながらも感謝の祈りを捧げたものだ。
そして、カシルダに来て初期の頃、私が男性の使用人など妙齢の男性に会わないよう配慮してくれたのは伯爵だったのだが、実際に私の一日の動線を考えてくれていたのはじいだったらしい。
例えば、午前中は炊事洗濯の手伝い、昼からは庭園の掃除、という予定であれば、午前中は厨房や物干し場、午後からは庭園に男性は立入禁止になっていたというのだ。これもマノンから聞いた話だった。
しかも、こちらは最近情報要綱を読んで知ったことなのだが、実はこのじいさま、密かにすごい人なのだ。
十年前、先代の伯爵……健康的善人面のお父上が行方不明になられた時、伯爵はまだ国立大学に在籍していた。
従って伯爵は王都で絶賛学生中だった訳だが、その間領地であるこのカシルダを切り盛りしていたのは、じいだったというのだ。
じいは伯爵のお父上の方針を忠実に受け継ぎながらも、不測の事態が起こった際には見事な手腕を見せた。ミデルファラヤからの襲撃にも対峙し、歴戦の猛者たちと共に奴らを撃退したという。
いち屋敷の執事だけに留まらない才覚を隠し持った人物なのだ。だからこそ、伯爵をしかり飛ばすこともできるのだろう。
……いささか長くなってしまったが、そんな百戦錬磨のじいが深刻な顔をしているのだ。余程のことがあったに違いなかった。
私はじいに声をかけてみることにした。
風呂上がりに、じいの傍にある給茶コーナーで水分を補給するという名目で。
だが、私が風呂上がりのオアシスにたどり着くまでに、じいはこちらに気が付いた。
「……おお、エリーさま、今日もお疲れさまでした」
「ハンスさん、お疲れさまです」
ハンスというのはじいの名前だ。
私は給茶コーナーでコップに冷茶を注ぐと、ハンスさんにも飲みますかと聞いたが、じいは結構ですお気遣いありがとうございますと答えてから、
「明日は久しぶりの王都ですな。いかがですか?」
と訊ねてきた。
いかがですか、と聞かれれば、
「はい、少し気が重いですが、閣下のお役に立てるよう努めます。上屋敷もどのようなところか楽しみです」
と正直に答えてしまうくらい、じいとは打ち解けられている……と自分では思っている。
じいはそうですか、と呟くと口と閉じてしまった。
もともと、私は駆け引きなどが得意ではない。
特に、ある程度気心が知れていると思っている相手には、率直でありたいと考えている。だから、あえて気遣いはしないことにした。
「先程、閣下とお話されていましたよね。何かあったのですか?」
じいの深刻な表情が、なんとも表現しづらいものに変化した。
あえて言うなら、喜びと気遣いと安堵と不安をボウルに入れて、扱いにくい木べらで雑に混ぜたような、とでも言うべきか。
とにかく、相反する感情がない混ざった表情だった。
その微妙な顔のまま、じいはしばらく黙っていたものの、意を決したように両目をかっと見開いた。そして、鋭い眼光を私に向けると、
「エリーさま、ご無理でしたら遠慮なさらずにお断りください」
「?」
「お館さまと舞踏会で踊っていただけないでしょうか!?」
私の脳内が全面蒼白になったのは言うまでもない。
「実は、先ほどブランフォード男爵夫人から文が届きまして。
あ、ブランフォード男爵夫人というのは、いつもお館さまが領主会談に行かれた時に、舞踏会でダンスのお相手をしてくださっている方なのですが」
ブランフォード男爵夫人というご婦人は知らなかったが、誰だと聞く気力も湧いてこなかった。
「その男爵夫人が、今年初めから脚の調子が思わしくなくて、もしかしたら今回はダンスを踊れないかもしれない、と聞き及んでいたのです」
ほほう。
「ですが、いつもお元気な方なので、領主会談の頃には治られているだろうと思っておりましたら、思っていたよりも不調が長引かれているようで、
やはり領主会談までには治りそうにないから、今回はお相手できないと連絡がありまして……」
それは無理せず養生なさった方がよいだろう。お年を召されてからの怪我や病は治りにくいと聞く。
「男爵夫人も、代わりに踊ってくださる方を探してくださったのですが、同年代のご婦人はみな現役を引退されていて、華やかな場所には出られないとおっしゃっているそうで」
なるほど……徐々に頭が衝撃から立ち直ってきた。
私は自らに課された拷問的無理難題の存在はひとまず抹殺して、根本的な謎をじいにぶつけることにした。
「あの、ハンスさん、その、こう言っては失礼ですが、どうしてわざわざ、お年を召していると思われるご婦人に、お相手をお願いされるのですか?
そのご婦人がだめならお孫さんでもいいでしょうし、閣下のご親族にでもお相手はいらっしゃるのではないですか?」
伯爵はいくら女性耐性がないとはいえ、私ではあるまいし『妙齢の女性となんて絶対踊れません踊ったら死にます病』ではないだろう。
となれば、例年踊ってもらっている男爵夫人のお孫さんとか、それこそ伯爵の親族とか、他にもあてはあるだろうに。なぜ現役を引退しているご婦人しか話に出てこないのか。
私の当然と思われる疑問に、じいは悲しそうな顔をした。
「あのお館さまと踊ってくださる、妙齢の淑女がいらっしゃるとお思いですか?」
「それはいくらなんでもいるでしょう、仮にも伯爵ですから」
そう、忘れがちだが、ああ見えてあの健康的善人面は伯爵なのだ。おまけに容姿も決して悪くはない。
あの見てくれと爵位に騙される貴族のご令嬢も、そこそこいるに違いない。
だが、じいは私の楽観的思考に救われてくれなかった。
「いえ、社交界では、お館さまには武闘派最右翼というレッテルが付いておりまして。
妙齢のご令嬢は恐ろしがって、なかなか近づいてくださらないのです。男爵夫人のご友人の皆さまだけは、よくしてくださるのですが」
妙齢のご令嬢たちの伯爵に対する評判は、想像していたより深刻なものらしかった。
ご令嬢たちにとってあの主は、誰彼構わず屠り散らかす狂戦士のようにでも思われているのだろうか。
「それで男爵夫人も、ご友人にお相手を依頼されたのですね」
「はい、ブランフォード男爵夫人は親族でもありますし、お館さまのことをかわいがってくださっているのですが、夫人のお孫さんや他の親族のご令嬢となりますと、みなお館さまのことを怖がっておられるようで。
昔は一緒になって遊んでおられましたのに、残念なことです」
「そうですね……」
そのような昔の微笑ましいエピソードを聞くと、余計不憫に思えてくる……伯爵ではなくじいが。
奴は同情に値しない。普段の私に対する言動を見ていれば一目瞭然だ。
「この際エリーさまには打ち明けますが、あのお館さまでも、毎年縁談の季節になりますと、雀の涙ほどはご縁をいただけるのです」
「それは非常にありがたいことですね」
全くもってその通りだった。
あの能天気善人面は、縁談の話を貰えるだけでもありがたいと思わなくては。
「ところが、縁談当日に断られることもしばしばで」
「え?」
「運よく会食まで漕ぎ着けましても、あの通りの方ですから、カシルダや農作物の話しかなさらなくて。
それでご令嬢が返答に窮して黙っておられると、何を話してよいかわからなくなるのでしょうね、お得意の鍛錬や軍隊の話をまくしたてる始末で……
結局、先方さまに縁談をなかったことにされてしまうのです」
「……」
政治や世界情勢の話をしないだけまだましだな、とはとても言えなかった。
じいが伯爵のことを『女性のなんたるかを知らない』だの『嫁の成り手がない』だのとこき下ろしていたのはそのせいか。
無理もない。じいの気持ちはよくわかる。
私と伯爵の会話が成立しているのは、あくまで私が王女でも淑女でもなく、書生という立場で接しているというのと、伯爵にとって幸運なことに、私におよそ淑女としての素養がないからだ。
ごく普通のご令嬢とまで私と同じような会話をしていては、白い目で見られても仕方ないと思う。
貴族の令嬢というのは、そもそもあまり表に出ない。出たとしても邸宅の庭を歩くか、外出するのに馬車に乗るかだ。
伯爵が日常ご覧になっている大自然は殆ど目にしないし、政治や世界情勢の事などは興味の範疇にない。
彼女たちが興味があることと言えば、社交界の噂話や流行りの演劇、音楽、裁縫、陶芸、絵画、恋愛詩歌や小説、舞踏会で着用する衣装や宝石、そして明日は誰と午後のお茶を嗜み、どんな茶菓子と会話を楽しむか……という具合だから、伯爵の守備範囲外もいいところなのだ。
伯爵はそんな貴族のご令嬢や淑女を目の当たりにしながら、今までどんな気持ちで舞踏会に出席していたのだろう。
「いっそのこと、舞踏会を欠席する訳にはいかないのですか」
私は伯爵にも助け船を出してやることにした。そもそも、伯爵が舞踏会に出なければ誰も不幸にならない。
「お館さまもそうおっしゃるのですが、それはそれで、後日社交界で冷やかしの種になるそうで……領主会談の舞踏会と言えば、参加するのが当たり前の催物ですから。
お館さまも、こんな些末なことで笑われるのは、お嫌なはずなのです。
統治や軍の差配のことで文句を言われるのならともかく、領主の本分とは関係のないことですから」
じいの苦虫を噛み潰したような表情を目にして、私の表情筋も同じような動きをしたのを感じた。
まったく、くだらないことで他人を笑い物にするものだ。
自分たちはろくに統治も防衛もしていないくせに。
しかも本人のいない所でばかにするのも気に食わない。
「ですから、舞踏会直前まで粘って、誰でもいいからどうにかして相手を見つけてきなさい! と申し上げているのですが……」
とはいうものの、誰でもよいからといって本当に誰でもよい訳ではない。
領主会談の舞踏会は王宮で開かれるため、それ相応の身分……王族か爵位を持つ貴族でなければ参加できないのだ。
じいの語調がやや砕けたものになっているところにも、切羽詰まった心境を見て取れた。
恐らくじいも内心観念しているとは思うが、あの乙女耐性のない主が、王都で淑女を引っかけるのは不可能に近い。
私に白羽の矢を立てたのはそのためだろう。だがしかし。
「ハンスさん」
「はい」
私はハンスさんに顔を近づけた。
「仮に、もしも、万が一にもですよ? 閣下が自らご令嬢を捕まえられたとしたら、それはもう万々歳ですよね?」
「そ、それはもちろんです、神のお授けになった奇跡としか言えません!」
「ですから、ここは閣下に成長していただくためにも、ぎりぎりまでは頑張ってもらいましょう」
「ぎりぎりまで、とおっしゃいますと、まさかエリーさま」
お困りだからといって、さっさと助け船を出してやったのではありがたみが湧かないだろう。じいにではなく伯爵に、だ。
一番の家臣である執事にこれほど心配をかけるなど、主としてあるまじきこと。
しかも、このようなくだらないことで。
高い地位には相応の義務が伴うと思っている。それは伯爵だけでなく私にもだ。
私はこの屋敷ではじいより権限はないが、腐ってもこの国の王女だ。
そして、一応王族であるから舞踏会にも出席できる。
この特権が役立つとしたら、今回くらいのものだろう。
下の地位にいる者を守れなくて、何のための特権、誰のための王族だ。
私は覚悟を決めると、両手の拳を胸の前で握りしめ、思い切り息を吸った。
そうしなければ、決死の覚悟を告げる声を出せそうになかったからだ。
「閣下には、舞踏会直前まで、死ぬ気でお相手確保を頑張っていただきましょう。
それでも、どうしても、見つけられなかったその時には、私がお相手になります。
この白髪王女でもよろしければ、ですが」
奴の臆病と怠慢でお相手が見つからなければ、私があの王宮で奴と踊らなければならなくなるのだ。
そうなったら、私の精神はきっと焼き切れてしまう。
否が応でも、是が非でも、何がなんでも、お相手を見つけていただく、いただこうではないか……
そう自らの心を鼓舞しなくては、おのれの精神を保てそうになかった。
深い皺の刻まれたじいの顔が、私の心配をしながらも安堵に満たされるのが見て取れた。




