主人と書生の休日6
甘味処『マハシュトラ』を出た時にも、陽の光はまだ暖かかった。
「夕飯までにはまだまだ時間がある。腹ごなしをしよう」
という伯爵のご提案で、遠回りをして屋敷に帰ることになった。
ところで私は『マハシュトラ』に入るまで、かつらのサシャータ(結局、この美麗な金髪直毛かつらをそう呼ぶことにした)が入った箱を両手で抱えて持っていたのだが、長時間歩くとなると若干荷物になる。
そこで、サシャータの箱を鞄に入れていた風呂敷で包み、片手で持てるようにした。これで歩きやすくなる。風呂敷も持ってきておいてよかった。
そうしてお会計中の伯爵を外で待っていたのだが、伯爵は店から出てくると、無言で私のサシャータ入り風呂敷を奪った。
「いきなり何するんですか」
私は当然、伯爵の手からサシャータを取り返そうとしたのだが、
「荷物になるだろう、私が持つ」
伯爵はそう言ってさっさと歩き出した。
「そのくらいなんともありませんよ。私が持ちます、私の荷物ですから。
それと、あの、ご馳走さまでした。お付き合いくださってありがとうございました」
私は早足で主の後を追いかけながら反論と礼を述べたが、伯爵は取り合ってくださらなかった。
「構わんよ、運動には負荷があった方がいい。それに、散歩に付き合わせるのは私だ。後でごねられても困るしな」
人を幼児みたいに言うのはやめてもらえないか。
「ごねるって……どれだけ歩かせるおつもりですか」
「安心してくれ、夜までには屋敷に着く」
今は十五時にもなっていないのだが、何時間歩かせるつもりだ。
まあ歩くのは嫌いではないし、腹ごなしにも丁度よい。かつらも重くないので、持って歩いても全く問題ないのだが、御自ら荷物を引き受けてくださるというのだから、おとなしく持ってもらうことにしよう。
私がサシャータを持ってくださることに礼を言うと、
「あの甘味処は……今度は開店直後か閉店直前に行こう。
その、もう少し女性が少なければ、居心地がよいかもしれない」
伯爵も『マハシュトラ』を気に入ってくださったようだ。
なるほど、店の乙女的内装より、女子率が高かったことの衝撃が大きかったのか。よかったよかった、ではお言葉に甘えてまたご一緒してもらおう。
そうしているうちに、市街地の外れまで来た。
しかし、その先に延びる道は今まで通ったことのない道だった。これは、
「もしかして、いつもとは反対側に来てますか?」
「よくわかったな」
「その程度の方向感覚はあります」
ということで、伯爵はかなりの遠回りで屋敷に戻ることがわかった。
いつもの道なら三十分くらいで屋敷に着くが、どれだけ遠回りするつもりなのか……
そう考えて、はたと気がついた。
この『伯爵と二人きりで一日散策、そして食事、甘味処行き』という状況に、嫌だとか不安だとか、そういった負の感情が全く湧いていないことに。
朝から一緒に行動していたにも関わらず。
今までこれほど長時間二人きりになったことがないにも関わらず。
それでも心配にはならなかった。
『まずい長時間二人きりだ、どうしよう大丈夫か私?』という考えすら、今の今まで浮かんでこなかったのだ。
ここまで妙齢の男性免疫ができていたとは。
これは、かなり回復していると言っていいのだろうか。
いや、もしかすると、伯爵に免疫ができているだけで、他の妙齢の男性とは、話すことすらできないかもしれない。
まあそれは、来月王都に行って、伯爵のご学友などと関わればわかるだろう。
いつもの道中には、ところどころに木々が生えているくらいで、後は延々と草原が広がっているのだが、こちらの道には、ぽつぽつとではあるが民家があった。伯爵いわく、
「ああ、あれは、このあたりの畑を持っている農家の家だな」
だそうだ。
初めて歩く道の風景がどのようなものかと、内心楽しみにしていたのだが、いつもの道の木々が民家になりました、程度の違いしか感じられなかった。
畑の様子も、素人目には草原と同じように見えたこともあり、少し残念に思ったのだが、
「ここは、夏に来るべきだったかな」
「夏だと違う風景が見られるのですか?」
伯爵が興味をそそることをおっしゃったので、訊ねてみると、
「モイヤーという果物を知っているか?」
初耳の単語を口になさった。
「いえ、初耳です」
「なんと、暴飲暴食女王ともあろう人が、モイヤーを知らないとは!」
「暴飲暴食女王ではありませんし、モイヤーという果物は存じ上げません。それほど有名な果物なのですか?」
暴飲暴食女王呼ばわりをやんわり否定したのだが、伯爵は無視して嬉しそうに頷くと、数か月後の未来に思いを馳せるような目をなさった。
「ああ、夏の浜辺で、冷えたモイヤーをまるかじりするのが、カシルダでは鉄板なんだ。昨年あなたは食べていなかったか」
「はい、お屋敷の食事でもいただいていなかったかと思います」
私がカシルダに来たのは昨年の夏だが、その当時、夏の浜辺などという陽気な場所には到底出られなかった。屋敷の食事でも、見たことない果物と遭遇した記憶はなかった。
「そうか、知らなかったか……王都には出荷してなかったかな」
「どうでしょう、少なくとも私は口にしたことがないと思います。市場でそれとは知らずに目にしたことはあるかもしれませんが」
「確かにあなたが知らなくてもおかしくないな。王宮で上品に食べるような代物ではないからな」
伯爵のこの言葉に、私は確信した。この果物は絶対に美味であると。
上品でない食べ方をする食物が、まずかった試しはない。王立女子学院に通っていた頃、校舎の外で学んだ重要な事の一つだ。
「それなら、今年の夏は是非、モイヤーにかぶりつきたいです」
「おお、さすがは暴飲暴食女王、目の付け所が王女ではないな。あれは本当にうまいぞ。かぶりついて食べるのがまたいいんだ」
「暴飲暴食女王ではありませんが、不思議なことに、上品でない食べ物ほど美味なんですよね」
「そうそう、あれはなぜなんだろうな。特に浜辺で食べるものは、口も手もことごとく汚れるんだが、全部うまいんだ。今年の夏は楽しみにしているといい」
やはり『私は暴飲暴食女王ではありませんから!』と強く否定した方がよいのだろうか。
いちいちわめきたてるのも大人げないように思えて、このような対応にしてみたのだが、次に暴飲暴食女王とのたまったら、沈黙してみようか。
それはさておき、たまに忘れそうになるのだが、私は一応この国の王女で、横にいるのは仮にも伯爵である。こんな調子で来月王都に行って、大過なく過ごせるのだろうか。
私は会議に出席しないからいいとして、隣の健康的善人面は、毎年王都で相当のストレスを抱えていることが、改めて知れた気がした。
高貴な面々が集まる会議の会食などで、下品な食べ方ができる美味な食べ物が出るはずもないのだ。
「春から実が成り始めてな、夏にはこのあたりも見事に黄金色のモイヤーだらけになる。その光景も壮観だぞ」
「それは是非見てみたいですね」
私のささやかな懸念をよそに、主はその健康的な顔をほころばせて語ってくださった。
モイヤーだらけとはひどい表現だが、言いたいことはよくわかる。さぞかし大量に実が成るのだろう。夏が楽しみになった。
こうしてしばらくの間、伯爵によるモイヤーの楽しみ方講義が行われた。
あまりに不必要な知識なので割愛するが、モイヤーの収穫の仕方、冷やし方、海岸に持参する際の保冷方法、果ては葉や茎の調理方法などなど、盛りだくさんで。
カシルダに生きる身としては、今後ためになる知識だった。
保存食として、干しモイヤーというのもあるそうなので、次に市街地に行った時に探してみようかと思う。
そのような平和なことを話しながら歩いていたが、話が干しモイヤーからモイヤー農家の副業の話題になり、その副業を手伝いに来る人たちの話になったところで、伯爵がぽつりと呟いたのだ。
「あいつらは漁民だが、それこそモイヤー農家で雇ってもらってもいいかもな」
「あいつらとは」
聞き返してから、あいつら=漁民と頭の中で結び付いた瞬間理解した。
「例の国から流れ着いたあの人たちですか」
「ああ」
ネルドリからの漂着船に乗っていた漁民たちも、カシルダに着いて日が経っている。
伯爵が彼らの身の振り方を考えているということは、事情聴取が済んだのだろうか。
「もうそんな話が出ているのですか、ここで働かせようという」
私の問いに、伯爵は内緒なと断ってから話を続けた。
「あいつら、思った以上にいい奴らでな。それに、自分たちの状況もよく理解している。故郷には戻れない、戻っても命が危ないこともわかっている。
私が勝手に感じているだけなんだが、あいつら、ここなら骨をうずめてもいいかもしれないと、覚悟し始めている気がしてな」
伯爵がそう感じ取れるほど、ネルドリさんたちが心情を露わにしているとは思っていなかった。
それだけ彼らと言葉を交わし、ある程度の信頼関係を築いたということか。
「事情聴取はもう終わったのですか」
「ああ、やはり彼らはただの漁民だった。私が一番知りたかったことは、誰も知らなかったよ」
淡々とした主の口調に、僅かにだが胃が締めつけられて言葉を返せなかった。
伯爵が一番知りたかったことと言えば、行方不明になっているお父上と家臣たちの行方に違いなかった。
伯爵には申し訳ないが、正直私はあまり期待していなかった。
いくら彼らが海を庭としている漁民とはいえ、お父上たちが乗った船に偶然遭遇する確率はかなり低い。
だが、伯爵にとっては藁をも掴みたい心境だったろう。王宮ですらお父上の捜索に動いてくれないのだから。
それにしても、伯爵はやはりお人好しだ。
てっきりネルドリさんたちを何らかの形で利用すると思っていたのだが、本気で彼らをカシルダに住まわせてやろうとしているとは。
「元の仕事だと、あの国のことを思い出して辛いかもしれないしな。漁民の仕事がしたい、というなら話は別だが」
私が沈黙していたからだろう。伯爵は話をネルドリさんたちの身の振り方に戻した。
「恐れながら、漁には出さない方がいいと思います。できれば港にも」
「そうか、万が一ということもあるからな」
「はい」
私の冷たいとも受け取られかねない指摘を、伯爵は肯定してくれた。私が言いたいことを理解してくれたのだろう。
もし彼らが海に出て、突然望郷の念に駆られたりしたら。
他の乗組員と衝突したり、最悪刃傷沙汰になる可能性もある。
そして、港での仕事にも関わらせない方がいいと考えている。
港には様々な国の船が集まる。
カシルダにネルドリ人がいるという噂が、回り回ってネルドリの大総統閣下の耳に入れば、彼らをネルドリに引き渡して終了、だけでは済まない。
当然伯爵も処分の対象になる。命までは取られなくとも、領主の地位や爵位を剥奪されかねない……ということだ。
「まあ、いずれにしても、当分は軍の中で労働してもらうつもりだ。
わが国の言葉や文化を学んで、理解してもらうまでは、外に出すつもりはない。
デナリーのところの彼らのようになってしまっては、お互いのためにならないからな」
「おっしゃる通りです」
ネルドリさんたちがカシルダに漂着したのは、偶然なのか意図してなのかはわからないが、本当に運がよかったと思う。
あのデナリーさんが治めるドナーク島に流れ着いていたら、望んでもいないのに飲酒中毒になって周囲に迷惑をかけ、余計に人生を狂わされたに違いないのだ。
異国の人間、しかも心情的には敵対している国の人間に、これほど親身になれる領主を私は知らない。
前々から思っていたが、伯爵は基本優しい。
その割には情に流されない判断をしているが、もしかすると、自身の中で常に葛藤しているのかもしれない。だとしたら、それは辛いことだ……
いや、この健康的善人面の心情など、私の預かり知るところではない。
こやつのことだ、身体だけでなく心も筋肉質なのに違いないのだ。
そのようなことを考えていたら、
「あなたには、将来の夢のようなものはあるか?」
唐突に聞かれて少し困ったが、話がひと段落着いたから話題を変えたかったのだろう。とりあえず、
「将来の夢、ですか」
そう呟いて、時間を稼ぐことにした。
大学にいた時分には夢もあった。それこそ新聞記者であるとか、学者だとか。
しかし、それはもう過去のものだ。今は……
「それはもう、カシルダの影の支配者になることですかね」
「おお、領主を目の前にしてよく言えたな」
自分を差し置いてなれるものならなってみろ、と言いたげな伯爵を横に、私は壮大な野望を披露することにした。
「表の顔は、かわいらしく素敵な小物を取り扱う雑貨商、しかしその正体は、領主のお屋敷をファンシーにして、お館さまを震撼させ再起不能にする敏腕コーディネイター……これが将来の私の夢です」
伯爵の脚が止まった。私も歩くのをやめた。伯爵は私の顔をまじまじ見つめると、
「もしかして、またあの形態に入ったか?」
「何の形態ですか」
「この前、露店居酒屋で無飲酒酔っ払い状態になった、あの形態だ。素面のくせに酔いどれモードとでも言うべきか」
失礼な言い草だし、ネーミングセンスがなさすぎる。
「いえご心配なく。あれは計算し尽くした上での発言です、今もですが」
「この発言も、考えた上でのことだと?」
「はい、私は常に発言には気をつけていますから」
将来の夢と聞かれたからとて、正直に言える訳ないだろうが。
いつか、おまえが椅子から転げ落ちるほどの知略を見せつけて、一泡吹かせてやるのが夢なのだ、などと。
嘘を言っているつもりはない。
こう見えて、実は少女時代には、かわいい小物を扱う店を開きたいという夢を抱いていたこともある。
それに、カシルダの領主を知力で負かせることができるなら、支配者を超える存在……すなわち影の支配者とも言えるではないか。
これほど壮大な夢を、ここまで正直に、かつ冗談混じりで話せる機転の利いた人間がいるだろうか。
私の主ならば、こんな書生を持てたことを誇らしく思ってほしい。
「退職して店を開き、カシルダいち大きなお店になりましたら、閣下のお屋敷のコーディネイトも喜んでさせていただきま」
「謹んで遠慮しておくよ」
なぜ逃げるように早歩きしながら遠慮するのだ。しかも食い気味で。
屋敷が甘味処『マハシュトラ』にあったような乙女空間になれば、マノンたちも喜んでますます勤勉に働くだろうが。
「そんな、遠慮なさらずに。マノンたちも喜びます。実は店の名前も決めてあるんですよ」
「言わなくていい」
「『ローゼンメーア』っていうんですけど、薔薇の海という意味でして。乙女らしさと壮大さを兼ね備えた、大層よい名前です」
伯爵の早足に追いつくべく脚を動かしながら、私は将来の夢について熱弁をふるった。
「ですから、閣下のお屋敷も、より華麗に壮大に、そして愛らしく、コーディネイトできるかと。格安で。
楽しみに、していてくださいね。あの『マハシュトラ』よりも、素晴らしい、空間に、して差し上げますから」
私の脚も自然と早くなり、息もあがってくる。
しばらくの間、私たちはほぼ小走り状態の早歩きのまま、黙々と歩き続けた。
「……こんな、ことなら」
やがて、伯爵は再び立ち止まると少し弾んだ息で呟いた。
「なんですか」
「こんな、ことなら、いつもの道から、帰ればよかった」
今更何を言うのだ。
おのれで蒔いた種だろうが、最後まで責任を取ってもらわねば。
「ところで、閣下の夢は、なん、ですか」
いささかひっくり返った私の声に、伯爵は振り返った。
そう、私の夢を語ったのだ。そちらの夢も聞かせてもらわねば割に合わない。
と言っても、この健康的善人面のことだから大体想像はつく。領民やこの国の平和と安寧を願ってやまないのだろう。
「復讐だ」
平和と安寧とは対極にある言葉に、背筋が凍りついた。
伯爵はまた私に背を向けると前方に顔を向けた。
その先にある岬の先端には、大きな碑石が立っていた。
「あれは、二年前砲撃された仲間たちの慰霊碑だ」
伯爵の口調は淡々としていたが、心情は決してそうではないことが汲み取れた。
「まだ遺骨を収集できていない者もいる」
この一言が私の心に重くのしかかった。
世間的には二年前の出来事でも、カシルダ島の人々は未だに気持ちを整理できないでいるに違いなかった。
伯爵に慰霊碑に寄ってくれるよう頼むと、
「もちろん。元からそのつもりでこの道を来たんだ」
密かに予想していた通りの返答をしてくれた。
二年前、ミデルファラヤに砲撃され、散華された人々の名前が刻まれた慰霊碑は、とてもよく手入れされていた。
手向けられているたくさんの花々も、最近供えられたもののようで、市街地から離れた場所にも関わらず、
頻繁に人が訪れていることが見て取れた。
「ここからだと、軍港も要塞もよく見えるだろう? だからここに建てたんだ」
静かに手を合わせた後、伯爵がそう教えてくれた。
眼下の軍港には重厚な軍艦が何隻も停まっており、その奥にそびえたつ要塞も堅牢な姿を誇っている。
「みんな、カシルダが大好きで、軍港も要塞も第二の家みたいなものだった」
伯爵の緑青色の瞳は、普段とは違う光を湛えていた。
「入る墓の決まっている奴も、そうでない奴も、ここならすぐわかると思ってな。
魂だけでも、ここにたどり着いていてくれるといいんだが」
国境沿いの海での遺骨捜索はかなり難しい。
捜索に出て、またミデルファラヤに砲撃される可能性も高い。
伯爵もその危険を考えているから、容易には捜索に出られないのだ。
海の底深くに沈み、未だ故郷に戻れないカシルダの人たちを思うと、胸が痛んだ。
魂だけでも戻ってきていて欲しいと、私も心から願った。
その時、海から一陣の風が吹いてきた。
今日一番の強い海風は、容赦なく頬を叩き、髪を乱したが、冬の海風にも関わらず特有の刺すような冷たさがなかった。
むしろ暖かさすら感じられたことが信じられず、思わず頬に手を当てた。
肉付きのよくない頬は、確かに強張ってはいたものの、あれほど強い風を浴びたというのに冷たくはなかった。
伯爵も私と同じことを感じたのか、頬に手を当てていた。
その視線は慰霊碑にだけ注がれていた。
亡くなった人たちの魂は、きっとここへ帰ってきているような気がした。
自らの命を危険に晒してでも、この国を守ってくれている人々がいるから、私たちは当たり前の日常を送ることができている。
それを実感したとき、自然と口が開いていた。
「閣下」
「なんだ」
「閣下も、皆さんも、いつもカシルダを……この国を守ってくださり、本当にありがとうございます」
伯爵は驚いたように見えた。私がこんなことを言い出すとは思っていなかったのだろう。
だが、伯爵が口にしたのは、
「なに、簡単なことさ」
つとめて明るくしようとしているようにも聞こえる声色だった。
「あなたは、ミデルファラヤとネルドリとわが国、どこの国の国民として暮らしたい?」
「その三択なら、当然わが国です」
「そういうことだ」
そこには、いつも見ているお人好しな健康的善人面ではなく、誇りと強さを秘めた武骨な笑顔があった。
「酷い言い草かもしれないが」
伯爵は空と海の先を見ているようだった。あの地平線の先には、ミデルファラヤとネルドリがある。
「あいつらには、あの国に生まれたことを心底後悔させてやりたい。あの国に住んでいる奴らの分までな」
その言葉を聞いた時、先ほどのやり取りを思い出した。
復讐、と伯爵は言ったのだ。
あの言葉を、仲間の命を奪ったミデルファラヤの軍人たちに、復讐するつもりなのだと解釈していたのだが、この言い方だとそうではないようにも思えた。
物分かりの悪い書生と思われるかもしれないが、わからないままにしておくのはよくないので、訊ねることにした。
「あいつらとは」
「猪おやじと、偉大なる頭脳をお持ちの大総統閣下だよ」
なるほど、より大きくて厄介な獲物を狙っているということか。
この健康的善人面が、それほど大きな野望を抱いているとは、失礼ながら夢にも思わなかった。
「それが私の復讐だ」
あっぱれと賞賛して差し上げたいが、冷静に計算すると、叶う確率は私の夢よりはるかに低い。
仮にも国家元首に一矢報いるなど、対等の立場でも難しいこと。まして一国の貴族ができることではない。だが……
目の前には、私が知っている健康的善人面の主はいかなった。
確固たる勝算を持つ自信と理性、そして強い覚悟を宿した瞳が、まじろがずに私を見つめていた。
その視線に、否、視線だけでなく全身から発せられる見えない力に、迂闊なことだが一瞬圧倒された。
これほどの気概を持った人なら、もしかしたら。
「閣下、では競争ですね」
「競争?」
「はい、どちらが先に自分の夢を叶えるか、競争です」
私の提案に気をよくしたのか、伯爵は再び満面に武骨な笑みを浮かべた。
「いいのか? 必ず私が勝つぞ」
「こちらも負けませんよ」
張り切る伯爵に私も対抗したのだが、
「いや、あなたには悪いが、私の夢の方が早く実現するだろう」
「そんなこと、やってみなければわかりません」
「あなたの夢は、あなた一人で頑張らなくては叶わないが、私には強力な助手がいるからな」
「強力な助手って……あ、ハックさんですか?」
「何を言っているんだ、あなただよ」
そうだ、すっかり忘れていた。私はこやつの書生だったのだ。
ということは、私が真面目に仕事してこやつに貢献し、こやつが椅子から転げ落ちる確率が高くなればなるほど、奴の野望を叶えることになってしまうということか?
だが……私も猪おやじと怪しげな脳みそがぎゃふんと言うところを見たい。
主の野望が叶うのは大変不本意だが、是非とも見てみたい。
ああ、何と悩ましい状況なのか。
いや、大丈夫だ、落ち着け私。おのれを見失ってはいけない。
私の真の目標は、この能天気善人面を椅子から転げ落とすことであって、ファンシーショップを持つことではない。だから、私は真面目に仕事をしてよいのだ。
しかしちょっと待て。
私のファンシーショップが開店する前にこやつの念願が叶えば、こやつにとっては負けたのは私、ということになってしまう。
あああなんということだ、どうすればよいのだ……
この葛藤が動揺として映ったのだろう。
伯爵はたまに出現させる健康的悪人面でこちらを見ると、片方の口角だけ釣りあげて笑って見せた。誠に、非常に、とことん不愉快だ。
「これからもよろしく頼むな、暴飲暴食女王。ああ、やっぱり姐さんの方がいいか?」
「どちらも! お断りします!」
とうとう堪忍袋の緒が切れた私を、伯爵は高笑いでやり過ごした後笑顔を収めた。
そして慰霊碑に向き直ると、亡き仲間たちが集う依り代に敬礼した。
私も感謝と鎮魂の気持ちを込めて深く頭を垂れた。




