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主人と書生の休日4

 再度店を訪れた私と伯爵を見ると、ピエールさんは驚いた。当然だろう。


 私が先程のかつらをもう一度つけさせて欲しいと頼むと、ピエールさんは希望通りにあの麗しいかつらを出してくれた。かつらを受け取ると、私は率直に謝罪した。


「先刻は申し訳ありませんでした。

 かつらにあまりよろしくない過去があり、それを思い出してしまったのです」

「なんと、それは……お察しすることができす、なんとお詫びすればよいか」

「いえ、こちらこそ、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」


 ピエールさんはまたも私を心配してくれた。伯爵も気遣うような目でこちらを見ている。だが、ここで引いては私が廃る。


 私は慣れた手つきでかつらを頭の上に被せた。


 視界に自らの姿が映る鏡やガラスがなかったのが幸いした。

 かつらをつけた瞬間は、心は平静でいられた。

 だが、ふと横を向くと、自分の姿が鏡に映っているのが目に留まってしまった。あの時と同じ色、同じ長さのかつらをつけた自分が。


 両目はまっすぐ鏡に映った自分に向いていたが、自分の姿は見ていなかった。

 私が見ていたのは、過去の自分だった。

 王宮の片隅で他の王子王女たちに取り囲まれ、逃げることもできなかった少女時代の自分を。


 両肩に何かが乗ったのを感じて、回想から引き戻された。この力強く暖かいものは、伯爵の手だろう。

 ピエールさんが心配そうにこちらを見ている。

 再び鏡に焦点が合うと、私の後ろで伯爵が両肩を支えてくれているのが見えた。


「エリーさま、大丈夫ですか?」


 ピエールさんの優しい声が、更に私の心を支えてくれた。

 二人に寄りかからなければ立っていられそうになかった。物理的にも、精神的にも。


 醜態は見せないと誓ったのに、また自分を見失ってしまった。これ以上は絶対に取り乱してはいけない。


 そう、過去に戻ってはいけないのだ。未来に進まなくては。

 このまま心を怖気させていたら、本当に王都に行けなくなってしまう。

 大丈夫、たとえ衝動的だったとしても、自分からもう一度挑戦する気になれたのだ。

 ここまでできたのだから、あと少し、もう少しで克服できるはずだ。


 私は深く息を吸い込みゆっくりと吐き出した。

 そうして何度か深い呼吸をしているうちに、徐々に気持ちが落ち着いてくるのを感じた。


 ……あの時は私も幼く、経験も足りなかった。

 今なら多少腕に覚えのある男でも張り倒せる。軟弱な王宮の王子王女どもなど、相手にもならない。あいつらが武芸を軽んじ、日々遊び暮らしていることは、いやというほど知っている。


 あんなこと二度と起きないし、私自身が起こさせない。起きたとしても、必ず逆襲してやるのだ。


 まして、あいつらの誰かが、酔狂にかつらでも被っていようものなら、そのかつらを引き剥がし、今度は私がむしり尽くしてやる。

 そいつの頭から毛髪を、一本残らず、全て……




 いつの間にか、目を閉じていたらしかった。

 陳列されているかつらが視界に入ってきて、初めてそのことに気がついた。


 私の思考はひどく残虐なものになっていた。

 だが、その凶悪な想像からは考えられないほど、心は落ち着きを取り戻していた。あまりにも苛烈な復讐を考えたせいかもしれない。


 冷静な心持ちで、再び鏡に映る自分に目を向けた。

 やはり、どこから見ても直毛金髪の女性がそこにいた。心がざわめくことは、もうなかった。


 伯爵がまだ私の両肩を支えてくれていたが、先程よりは力を入れていないように思えた。私が正気に戻ったことを感じ取ったのかもしれない。


「大丈夫か?」


 伯爵の落ち着いた声に、自分が普段通りになっていることが知れた。


「はい、ありがとうございました。

 お二人とも申し訳ありません、また醜態を晒してしまいましたが、もう大丈夫です」


 私は素直に頭を下げた。本当に恥ずかしいことこの上ないが、おかげで過去を一つ乗り越えることができた。それについては感謝しかないのだ。


「よかった……心配しました、本当によかった」


 心から安心した様子のピエールさんを見ると、なぜだか嬉しくなった。今日初めて会った人が、これほど自分のことを心配してくれることに、胸が暖かくなった。

 商売人として客を大切にする体を取っているだけかもしれないが、だとしても、白い目で見られるよりは余程いい。


「では、こちらをもらって帰ろうかな」


 伯爵はそう言うと、ピエールさんと何やら話し始めた。聞き馴れない単語が飛び交っている。どうやらこの店が所属している商店街会のことを話しているようだ。


 私は改めて鏡に映る自分を見つめた。

 幼い頃、高熱に冒されなければ、こういった容姿になっていたのかと思うと、複雑な気持ちになる。髪型と髪色だけで、人の印象とはこうも変わるのか。


 あの時……某国に嫁いだ時、私がこの容姿であったなら、あんな目に遭わずに済んだのだろうか。あの王子に寵愛され、幸せになっていただろうか。


 そうは思えなかった。どのみち私は、あの王子に送られた絵姿のような、明るく美しい女性にはなれなかっただろう。

 それに、仮に寵愛されたとして、あの王子の妻になれば気苦労が絶えなかったに違いない。


 なにより、今の私は幸せだった。今のこの容姿でなければ、カシルダに来ることはなかっただろう。

 そう考えると、過去の思い出したくない経験も、カシルダに至るための道程だったのかもしれない……


「エリー、かつらはつけて帰るか?」


 伯爵の言葉で我に返った。

 そういえば、まだかつらをつけたままだった。

 これをつけて歩くと、カシルダでは目立って仕方がないので、やめておこう。


 私はかつらは外して帰る旨を伝えると、かつらを取り、ピエールさんが用意してくれた箱に美しい金髪を収めた。自分の部屋に戻ったら、またつけてみよう。まだ少し不安なのだ。

 だが、王都に行くまで毎日かつらに触れて、慣れていけば問題ないだろう。そこまで思えるほどに克服できたのは、本当に喜ばしいことだった。


「かつらのつけ具合など、不都合があればいつでもおっしゃってくださいね」


 ピエールさんは最後まで優しかった。伯爵がかつらを作ってくれたのがこの店でよかったと、心から思った。


 伯爵と私はピエールさんにお礼を言うと、店を後にした。




 さて、これで私は晴れて王都に行くことができる。

 なにせ、かつらを被れたのだから。文句は言わせない。というわけで、


「これで一安心ですね」


 私は伯爵に確認した。

 しかし、健康的善人面の持ち主は、いささか動揺した様子で、こうのたまったのである。


「どういう意味だ」


 どういう意味だ、とはどういう意味だ。

 こちらがその台詞をそっくりそのまま返したい。


 だが、今の私は自分の心的外傷を一つ克服できたことで、余裕ができていた。

 なので、おのれの台詞について説明して差し上げることにした。


「かつら、被れましたよ。これで一安心です。だから王都に行けますね」

「そういう問題ではないと思うぞ」


 だから、何が『そういう問題ではない』のだ!


「そういう問題とは、どういう問題ですか」

「本当に無理をしていないのか、ということだ」


 伯爵の毅然とした態度に、一瞬だけ心が怖気づいた。

 全く、完全に無理をしていないと言えば嘘になるからだ。


 少し強くなった伯爵の声音と眼差しは、私の本心を見極めようとしている。


「先程も言ったが、あなたに心的な負担をかけてまで、ついて来て欲しいとは考えていない。だから、何度も言うが、無理はしないでもらいたい」


 しかし、この台詞に、私の脳内やかんは一気に沸騰した。


 この期に及んでまだ言うのか、無理をするなと。


 では、私はどうやってあの言葉に応えればよかったのだ?

 私が必要だと、言ったのは誰だ?

 あの言葉を撤回するようなことを、なぜ今更言うのだ?

 であれば、私は何のために、自分の心的外傷トラウマと向き合ったのだ?


 この人が優しいのは知っている。

 だから、こんなにも心配してくれる。

 それはとてもありがたいことだ。だが、私は……


「閣下がおっしゃったんです」


 つとめて冷静な口調を保とうと努力した。


「おっしゃったではありませんか、私が必要だと。あれは嘘だったとおっしゃるんですか?」


 伯爵は何か言おうとして口を開きかけたが、次の瞬間、口を硬く結ぶと厳しい表情になった。


「だから、なんとかしなくてはと、思ったんです。

 かつらの、色を変えたところで、これを被れなければ、根本的に克服できたことには、ならないと、思ったので。

 ですが、おかげさまで、克服できたと、思います。

 お見苦しいところを、お見せしてしまいましたが、お付き合いくださり、本当に、ありがとうございました。これで、王都に、お供できます」


 頭を下げたと同時に、新たな相棒となったかつらの入った箱が視界に入った。

 箱の蓋には流麗な字体で『サシャータ』と書かれている。

 このかつらの名だろうか。あるいは、このかつらの金髪直毛を提供してくれた人の名かもしれない。

 いずれにしてもいい名前だ。これからこのかつらのことを、サシャータと呼ぼうか。


 沈黙が続いたが、この沈黙は痛くは感じなかった。拙いながらも、言いたいことを言えたからだ。これで伯爵が気分を害したとしても、後悔しないほどに。


 やがて、伯爵が発したのはこの一言だった。


「……ありがとう、エリー」


 いつもよりも低く、しかし暖かい声だった。

 その声には、様々な思いが混ざっている気がしたが、どのような思いなのか、わからない部分も多かった。


 しかし、感謝の気持ちは確かに受け取れた。

 そして、私にあの心的外傷と向き合わせたことを後悔するのではなく、私があれを乗り越えたことを、自分のことのように喜んでくれているように感じられた。なによりも、それが嬉しかった。


「さあ、次こそ甘味処に行きますよ?」

「ああ」


 短く答えた伯爵の笑顔は、いつもの健康的善人面の裏に、別のものを隠しているように思えたが、それも何なのかはわからなかった。

 悪い感情ではなさそうだったので、ひとまず安心することにした。


 伯爵の横顔を見たら、思い出した。ピエールさんの店で肩に触れられたことを。


 この人が『健康的善人面』と罵れる存在でよかった。

 そうでなければ、触れられた瞬間、とんでもなく混乱していただろう。かつらを被るどころの話ではなかったはずだ。

 伯爵を同年代の異性として意識してないからこそ、あの手に助けられたのに違いなかった。




 昼下がりの日差しは、まるで春のように穏やかで暖かかった。

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