主人と書生の休日3
ラキルル平原から市街地に抜けた時、時刻はまだ正午になっていなかった。
「予定より早く着いたな」
「そうですか? 私は大体このくらいかと思っていましたが」
「あなたの脚力を甘く見積もっていたようだ」
「お褒めに預かり光栄です」
飲食店が立ち並ぶ通りは、まだ喧噪のピークには達していなかった。今なら行列のできる店にも並ばず入れる。
ここに来るまでの道中で『昼飯以降は、絶対にあなたに金を出させないからな』と、伯爵が強硬に宣言されたので、昼食を摂る店の選定はお任せしている。
というわけで、私はおとなしく主の横を歩いているわけだが。
先程から考えることがなくなるたびに、なぜか伯爵の言葉が脳裏によみがえってくる。
『あなたは私の書生だからな。あなたが必要なんだ』
自分が誰かに必要とされることなど、これまでの人生でなかったはずだ。
強いて言えば、母は私を必要だと思っていたかもしれないが、今となっては訊ねる術もない。
生まれ育った王宮でも疎まれていた私に、居場所を作ってくれたことには感謝している。
アイスラー教授の教え子である私の見識を、必要以上に高く買ってくださっていることも、とても恥ずかしいがありがたくもある。
にも関わらず、この言葉を聞いた時、胸の奥に小さく凝り固まる重いものを感じたのはなぜなのだろう。
『こちらは、いずれ伯爵に一矢報いてやるつもりでいるのに、必要だなんて言われても、後々それが恩のように足枷になるかもしれないし、疎ましいだけだ』という思いではない。
だが、だとしたら何が私の中でわだかまっているのか、自分でもわからないままだった。
「お、今日はまだ並んでいないな、ここでいいかエリー?」
伯爵がそう言って指したのは、屈強そうな書体で『ゴンザレス』とだけ書かれた、いかつい看板を掲げている店だった。
「こ、これはまた、つわものどもが集まりそうな店ですね」
「うまそうだろう?」
うまそうとは、どこで判断すればいいのか。現在私が持つ判断材料は、たくましい字のごつい看板と店から漂ってくる匂いしかない。
いや、美味しそうな匂いなのはわかるが、このふとましい看板から、どのような味を想像すればよいのか。
「入ろうか」
伯爵が私の同意を待たずに店の暖簾をくぐったので、私も黙って後に続いた。
『ゴンザレス』は紛うことなき居酒屋だった。
料理に自信がある居酒屋が『おまえら、昼もうちの飯食いたいだろう? うまいもん食わせてやるから寄ってきな! あ、飲める奴はもちろん飲んでってもいいぞ!』という自信満々の体で、昼から店を開けていると見受けられた。
伯爵が言っていたように人気がある店のようだ。私たちが空いていた席に通されると、満席になった。
店内の壁面には大漁旗やカシルダ軍の旗が掲げられており、看板から受けた『屈強な男たちが集う店』の印象を倍増させている。
巨木を縦半分にぶった切ったまま置いてあるような木のテーブルと椅子は、どれも年季を感じさせる色合いになっている。
一方のカウンターは、木ではなく黒光りする金属でできている。脚の長い椅子も同じ素材のようだ。
カウンター席だけがやや都会的な雰囲気で、浮いていそうにも思えたが、どういうわけか違和感がなく店の内観になじんでいた。
テーブル席は船乗りや職人、市街地で働く人々で賑わい、カウンターでは昼間から一杯引っかけたいお年寄りや、一見しただけではどんな職業に就いているのか判然としない人々が、酒の肴をつまみながらグラスを傾けている。
ちなみに女性の姿は全くない。客も店員も全てが男性だ。
私が居心地の悪さを感じないのも、考えてみれば不思議な話だが、私の内面は相当男性に近いということだろう。
注文後、ほどなく提供された食事は非常に美味しく量も適正で、歩き疲れた私の胃袋を満たしてくれた。
「よく食べたな」
「はい、丁度いい量でした。米飯を大盛にしなくてよかったです」
「ここのランチは量が多いが、女性でこれだけ食べられるとは、さすが暴飲暴食女王だな」
「その呼び方、そろそろやめてもらっていいですか」
私は焼魚定食を、伯爵はデラックスランチをたいらげ、食後のコーヒーを嗜んでいた。
ハックさんの店に行った日の夜、私が自分につけられたあだ名を誤って口にしてからというもの、伯爵はしばしばこの異名『暴飲暴食女王』を使用してくる。いい加減にしてもらいたいので、話を反らせようと思う。
「閣下こそ、あんなに召し上がって大丈夫ですか?」
「無論だ、このくらいはいつも食べている」
伯爵の食べたデラックスランチは、私が頼んだ焼魚定食の倍くらいの量があった。しかも伯爵は米を大盛にしていたので、私は心配になっていた。
「お忘れかもしれませんが、これから甘味処に行くんですよ?」
伯爵の眉が僅かに上がったのを、私は見逃さなかった。
まさか、本気で忘れていたというのではあるまいな。もっとも、忘れていたとしても容赦なく連行するが。私にとって今日のメインは、他のどこでもなく甘味処なのだ。
「わ、忘れてはいないぞ、甘味処だろう?」
「それならいいんですけど」
「心配ない、甘いものは別腹というではないか」
「はい、私はそうですが、本当に大丈夫ですか?」
「無論だ」
いついかなる時も、なんでも美味しそうに食べる伯爵だが、甘味を大量に食べているところはあまり見たことがないので、若干心配なのだ。
お残しは絶対に許さない。たとえ天と甘味処が許したとしても、私が許さない。
アラザン(*)の最後の一粒まで綺麗に召し上がっていただく所存だ。
それから、
「今日ご一緒していただく『マハシュトラ』は、特別なパフェを食べられるらしいんですよ」
「希少な果物でも使っているのか?」
「いえ、自分の好きなものをパフェにしてもらえるんだそうです。
フルーツやアイスクリームだけでなく、ケーキとかサンドウィッチやお団子も乗せてもらえるそうで、ボリューム満点なんですよ」
甘味処『マハシュトラ』では、ケーキやアイスクリーム、フルーツ、その他多くのスイーツを組み合わせて、自分好みのパフェを作ってもらえるそうなのだ。
選べる食材も先に挙げた通り豊富だそうで、楽しみでならない。
「それは面白そうだな」
「楽しみですね」
「ああ」
頷いた伯爵は普通に楽しみにしているようだが、やはりご存じないようだ。
この『マハシュトラ』の店内が、カシルダで最も女子仕様な内装であることを。
かく言う私もこの店に入ったことがないので、マノンはじめ屋敷の女性使用人たちから聞いた知識しかないが、なにせ乙女なら一度は触れてみたい調度品や小物で溢れているらしい。
年齢も心も、乙女からかけ離れている自信はあるが、それほど乙女心をくすぐる場所とは……ああ、どんな乙女空間が私を待ち受けているのだろう。
私が心をときめかせていると伯爵が、
「その前にかつら屋だ」
せっかく精神を高揚させていたところに、忘れていたかったイベントを思い出させた。
私は伝票を持って颯爽と席を立った伯爵にお礼を言うと、会計口に立つ店員氏の見事な上腕二頭筋に見とれつつ『ゴンザレス』を後にした。
「お館さま、お待ちしてました! そちらがエリーさまですね、ようこそいらっしゃいました。
さささ、どうぞこちらへ! 例のもの、すぐにお持ちしますので、少々お待ちくださいませ」
『ピエールかつら店』の店主は、とても人の良さそうな顔に満面の笑顔を浮かべて、私たちを出迎えてくれたかと思うと、すぐに奥に引っ込んだ。『例のもの』を持ってくるのだろう。
「楽しみだな」
「はい」
いつもと同じ調子の声を出したつもりだったが、うまくいっただろうか。
店内には色とりどりのかつらが、頭部だけの人形に被せられて飾られている。
最近では、緑や紫の髪色を所望する人もいるらしい。このようなかつらを被って街を歩いたら、さぞかし目立つだろう。恐ろしいことだ。
「お待たせいたしました、こちらでございます」
店主のピエールさんがにこにこしながら持ってきたのは、どこからどう見ても長い金髪のかつらだった。
「これは見事な金髪だな」
「はい、丁度よく品質のよい金髪が入ってきまして。本当にタイミングがよろしゅうございました」
ピエールさんには申し訳ないが、ちっともまったく全然よろしくない。
「エリーさま、かつらはつけられたことありますか?」
はい、とだけ返したが、ピエールさんは私の声色に自信のなさを感じたのか、最初ですし私がおつけしましょう、と言うと私の頭にかつらを
「エリー?」
伯爵が緊迫した声をあげた。
「申し訳ありません、エリーさま。爪が当たってしまいましたでしょうか?」
ピエールさんのすまなさそうな声に、首を横に振った。
「どうした」
伯爵が私の顔を覗き込もうとしているのはわかったが、どうしても頭を上げられず、声も出せなかった。
「お気に召さなかったでしょうか」
「いや、そうではないと思う」
心配そうなピエールさんに、伯爵は落ち着いた声色で答えた。
「ピエール、今日のところは預かっておいてくれないか? 後日改めて取りにくるから」
伯爵が何事もなかったかのように話す声に、申し訳なくなりながらも、ありがたい気持ちになった。
ピエールさんはかしこまりました、と言うと、
「エリーさま、ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません。
ご希望がございましたら、なんなりとおっしゃってくださいませ」
私は頷くことしかできなかった。
ピエールさんは悪くない。
悪いのは何も言えない私だ。
せっかくかつらをつけてくれようとしたのに、突然俯いて頭を上げようとしない、困った客の私が。
「ありがとう、また来るよ」
伯爵の左手が肩に触れ、店の出入り口の方へ誘導してくれた。
そうしてくれなければ、私は店から出られなかった。
気がつけば、私は薄暗く人影のない細い道に立っていた。店の近くにある路地裏だと思われた。
伯爵の左手はまだ私の肩に置かれていた。とても申し訳なく、情けなかった。
謝らなくてはいけないのに、思い出したくない忌まわしい過去が、脳裏と心によみがえってきていて、声を出せなかった。
「かつらに、辛い過去があるんだな」
認めざるを得なかった。
「だから、嫌がっていたんだな」
その声には後悔の念がこもっているように聞こえた。
「すまなかった、気がつけなかった」
当たり前だ、気づかせないようにしていたのだから。それで正解なのだ。
せっかく気づかせないでいられたのに、土壇場になって台無しにしてしまった。
未だに克服できなかったのが、悔しくてならなかった。
沈黙が心と身体を突き刺してくる。
カシルダに来て以来、久しぶりにこの痛みを感じた。
思い切って、伯爵の顔を見られるくらいにまで顔を上げた。
ほら、伯爵もどうしていいかわからなくなっているではないか。
こんなことで困らせたくなかったのに。
こんな伯爵の顔は、甘味処で見るはずだったのに。
「申し訳ありませんでした」
ようやく普通の声を絞り出して謝罪することができた。
だが、情けないがあのかつらは被れそうにない。あの金髪のかつらだけは、どうしても。
「閣下、一つだけ、わがままを、お許し願えないでしょうか」
「なんだ」
優しい伯爵の声が、私の心の一番弱い部分に触れた。
この人は本当にいい人なのだと改めて感じた。
私はかつらを黒髪のものにしてほしいこと、もちろん、あの金髪のかつらの代金は払うし、黒髪のかつらも自費でピエールさんに作ってもらうことを、伯爵に訴えたのだが、
「エリー」
伯爵は私の主張を途中で遮った。
「無理しなくていい。あなたは、まだここにいるべきなんだ」
本来なら喜ぶべき言葉のはずだった。
しかし、私の心は全く明るくならなかった。私はもう、王都に行くと覚悟を決めていたからだ。
「いえ、お供します。それが私の仕事ですから」
「こんな思いをさせてまで、来てもらおうとは思わない」
「お気になさらないでください、私が行くと決めたんですから。先程は醜態をお見せしてしまいましたが」
どうしてこれほど王都に行く気になっているのだろう。
主が来なくていいと言っているのだから、おとなしく留守番していればよいのに。
だが、この人が言ったのだ。私が必要だと。
それなのに、あの言葉を撤回するというのか。
せっかくあの言葉に背中を押されて、一大決心をしたというのに。
それともなにか、まさか、私の必要性はその程度のものだということか?
そういう思いに至ると、腹が立ってきた。
自分自身には先刻からずっと腹立たしい思いをしているが、私の頑固な心を覆し、純粋な決意を引き出した一言を放った目の前の男にもだ。
わかっている、私のことを慮ってくれていることは。痛いほどわかっている、優しい人だから。
でも、そんな優しさはくれなくていい。私が欲しいのは……
「無理をするな」
何が無理をするな、だ。今更気を遣うくらいなら、最初から連れて行こうとしなければいいものを。
何が無理だというのだ、あのかつらを被ることか。
確かに、思い出すだけで心が潰れそうになるし、あの時のことが脳裏に蘇ってくる。
しかし、ということは。
あのかつらを平気な顔をして被ることができれば、伯爵は納得して私を王都へ同伴する、ということか?
つまり、あの金髪のかつらを被れればいいんだな?
以前の私の地毛そっくりで、白髪になってから被ったものにそっくりな、ロングストレートの麗しい金髪のかつらを。
「私は閣下の書生です、二度と醜態は晒しません。もう一度、先ほどのかつら屋さんに行ってもいいですか」
なぜこの考えにたどり着いたのか、自分ではわからなかった。
とにかく、やってやろうではないか、という唐突で無謀な衝動が私を支配していた。
「それは構わないが、しかし」
「もう、黒のかつらでなくていいです。あのかつら、謹んでつけさせてもらいます」
「おい、本当に無理するな、大丈夫なのか?」
「一度死にそうになっています」
「なんだと、どういうことだ!?」
「行きましょう。すみませんが、もうしばらくお付き合いください」
この人が横にいてくれたら大丈夫だ、私はきっと。
私は暗い路地裏から外に出た。
*アラザン…製菓材料。
主に砂糖・コーンスターチを混ぜ、粒状にしたものを銀粉で覆ったもの。
ケーキやクッキーにちりばめられている、銀色で丸いやつ。
諸兄諸姉におかれましては、ご存じのことと思われますが念のため。




