主人と書生の休日2
そうしてしばらくの間、うきうきと足早に歩いていた伯爵だったが、
「そうそう、かつらの話をしていたら、忘れるところだった」
思い出したことがあったらしく、歩調を緩めると私を振り返った。
「私を待っている間は、あいつらに色々教えてもらうといい。あなたが新聞に興味があるみたいだったから、頼んでおいたんだ」
すぐには何のことかわかりかねたが、少々頭を動かしたら思い出した。
かつらの話になる前は、伯爵が領主会談に出席している間、私は上屋敷で待機していればよいという話をしていたのだ。
そして『あいつら』とは、私が王都行きを了承する前に、『私に会わせたい奴らがいる』と挙げていた人々のことだろう。
つまり、私は上屋敷にいる間、一人にはなれないということか。
私は心の中でため息をついたが、口に出してはこう言った。
「そういえば、先ほどもおっしゃっていましたが、あいつらとは」
「馴染みの新聞屋だよ」
新聞屋ということはもしや。
「新聞屋とおっしゃいますと、配達をお手伝いすればいいのですか?」
学生時代、早朝に王都の市街地を歩いていた時、新聞配達の少年を見たことがあった。
ああいう一人で黙々と行う類の労働は苦手な人もいるだろうが、私は平気な方だ。早朝の新聞配達なら、あまり人にも遭遇しないだろうし、いい運動にもなりそうだ。
だが、伯爵は私の予想を大きく裏切ってきた。
「違う違う、新聞屋といっても、配達員の方ではなくて記者の方だ」
「きしゃ?」
新聞記者。
それは、私が妙齢の男性が苦手でもなく、人見知りでもなかった頃、興味を持っていた職業のひとつだった。
複雑に絡み合う世界の悪事を世間に暴露する。
世界などと大風呂敷を広げなくとも、王宮のみならず国内の腐りきった状況を人々に知ってもらうには、
いい職業だと考えていたからだ。
ただ、現在では取材活動など到底無理だから、私にとっては幻の職業と言ってよかった。それに、
「あの閣下、お世話になる記者の方とは、男性でしょうか」
新聞記者の仕事を間近で見られるのはいい機会だが、これは私にとって非常に重要なことだ……甚だ、誠に、大層、とっても。
「ああ、男もいるが、直接あなたの世話をしてもらうのは女性だ。とても気のいい人だから、あなたも話しやすいと思う。
男の方は私の友人だ。あなたと二人きりで会うことはないようにしてあるから、大丈夫だ」
「は、はい、わかりました」
男性記者が伯爵の友人ということは、私が出戻り後、ずっと引きこもっていたことも知っているかもしれない。そう考えると少し安心できたが、
「新聞記者さんのお手伝いとなると、もしかしたら外出するのでしょうか?」
心配なのはこの点だった。
取材に駆け回るのが仕事の新聞記者を、一日屋敷に缶詰にはしておけないのではないか。
私の嫌な予感は的中した。
「そうなんだ、上屋敷にこもりっぱなしというのは、申し訳ないが難しいかもしれない」
伯爵は健康的善人面にすまなさそうな表情を浮かべたが、
「もっとも、あいつらも毎日来られるわけではないし、あなたが上屋敷で引きこもれる日も確保するようにするから、安心してくれ」
他人におのれの引きこもりの心配をしてもらうというのは、ありがたさを通り越して、情けない気持ちになる。
だからと言って、『いえ全然問題ありません、毎日外出できます!』とは言えないのがまた情けない。
「かつらを頼んでおいたのは、そういう理由もあってなんだ。アイスラー教授に会いに行く時にも、あった方がいいだろう?」
「いや、あの」
「アリスは記者といっても、大量の資料をこつこつ調べたりするのが担当だ。あなたも資料を見るのは好きだろう?」
「は、はい、でもその」
アリスさんというのが、私のお世話をしてくれる新聞記者さんだと思われるが、
「だから、大抵はデスクワークで済むはずだが、たまに外に取材することもあるそうだ。
だが、王宮や役所などには行かないと言っていたな。市街地で平民に話を聞くのが担当らしい」
「そ、そうなんですか、あの」
私が疑問を述べようとすると、伯爵は更に続けた。
「アリスと外回りをする時は、私に同伴している時の感じでいればいい。無理に話さなくて大丈夫だ。
聞きたいことが湧いてきたら、もちろん聞けばいいが」
「……ありがとうございます」
伯爵はこちらが訊ねる前に、聞きたかったことを全部教えてくれたので、嬉しさ半分、申し訳なさ半分で頭を下げた。
この人はわかっていたのだ。私が王都行きで何を不安に感じるのか。
伯爵に察してもらうのではなく、自分から不安や疑問を伝えられるようにならなくては。
私の安堵した気持ちだけを読み取ってくれたらしく、伯爵はにこやかにに頷くと、もうすぐ着くぞと言ってまた足を速めた。いつもの歩きやすい靴を履いてきていてよかった。
やがて二、三分歩いた後、視界が開けたところに現れたのは、どこまでも続く青い大海原と終わりのない大空だった。
海には漁船が大漁旗を掲げて進み、空には海鳥たちが舞っている。
海と空が繋がる水平線は、青と青が交わっているはずなのに、白く細く光っている。それでいて、そこだけ不自然に浮いているのではなくて、海と空を一つにするかのように存在していた。
どのくらいの時間が経ったのかわからないくらいの間、言葉も忘れて眼前の光景を見つめていた。
そうしていたら、自分の情けなさ、不甲斐なさ、意気地のなさ、ひねくれたところ、素直でないところ、その他もろもろの私を構成する負の要素が、取るに足らないもののように思えてきた。
しかし、そんなくだらないことで悩んでいる顔の、ちっぽけな二つの池から溢れ出しそうになるものに、また嫌気がさした。
自分がまだまだ普通ではないと、改めて思い知らされた。
こんな状態で王都に行って、本当に大丈夫なのだろうか。
額の汗を拭うふりをして、瞳からこぼれそうになったものを押さえた。ハンカチも持ってきておいてよかった。
「暑いか」
「……はい、少しだけ」
言い終えた瞬間、普段の声を出せたことに安心したせいか、無意識に鼻をすすってしまったものの、伯爵は気に留めていない様子だった。聞かなかったことにしてくれたのかもしれない。
「では、ラキルルの乳製品を堪能しに行くか」
「はい」
一人でここに来て、思い切り泣けたら、心が軽くなるかもしれない。
次は一人でこの海と空と水平線を眺めに来よう。
気の済むまで涙を流そう。
そうしたら、少しだけでも自分を変えられるかもしれない。
そう心に決めて、私は伯爵と次の目的地へ向かった。
ラキルル平原で、私は初の試みを行った。なんと、伯爵に乳製品をご馳走したのである。
「ここは私が」
「何を言う、主は私だぞ?」
「いえ、今日は私が」
「主が奢られるなんておかしなことがあるか。下がっていろ、私が出す」
という屋台の前での不毛な言い合いを止めることができたのは、背後で『つぎまってるんだけどなーはやくしてくれないかなー』的な目で私たちを見上げていた幼女のおかげだった。
そのいたいけな視線に、先に気付いたのは私だった。
「お待たせしましたはいこれ二人分です!
お嬢ちゃんごめんね! いえこちらこそありがとうございます!」
店員さんと幼女にそうまくし立て、店員さんにお金を渡すと、素早くかつ丁重に商品を受け取って、迅速に屋台を立ち去ったのだった。
伯爵に『ラキルル名物搾りたて牛乳のミルクセーキ』を差し出すと、なんとも言えない……強いて言えばばつの悪そうな顔をした。
「私が馳走になるとは……主たるこの私が」
「ありがたく受け取ってくださればいいんです。いつもお世話になっていますから」
「どういう風の吹き回しだ。今朝の朝食に、何か悪いものでも入っていたかな」
「そのお考えは、私にも料理長にも失礼ですよ」
私のこの言い分に納得したのか、伯爵はなんとも言えない表情をようやく収めると、
「そうだな、ではお言葉に甘えていただくよ。ありがとうエリー」
気恥ずかしそうに笑ってミルクセーキをすすってくださった。
私はカシルダに来て初めてこの飲み物を知ったのだが、初めて口にした時は、牛乳と鶏卵がまろやかに融合した味わいにいたく感動したものだ。おまけに栄養価も高い。
ただ、かなり甘味があるので、飲み過ぎはよくないだろうが。
「本当に美味しいですね」
「ああ、美味しくて蛋白質もばっちり摂れる!
肉体鍛錬している者に、これほどよい飲み物はないな」
「確かに……筋肉に染みていっている気がします」
「そうだろうそうだろう、今朝も丹念に育てた筋肉が喜んでいるぞ」
カシルダに来る以前は、自分がこれほど筋肉質な会話をするようになるとは、思ってもみなかった。
「そういえば最近、腕が少し太くなってきた気がするんです」
「いいことじゃないか。あなたは元が細かったからな、健康になってきた証だ」
「そうですかね」
「ああ、女性も筋肉は絶対あった方がいい。私も負けてはいられないな」
「お互い精進しましょう」
そんな鍛錬マニアなことを話していたら、道の傍らにあるベンチからこんな声が聞こえてきた。
「本当に安くてうまいな!」
「王都じゃこんな美味しいの売ってないもんね。売ってたとしても、すごい高い値段でしか食べられないわ」
「最近、物価の上がり方、半端ないもんな」
「特に牛乳とかバターとかひどいし。以前の倍よ? 信じらんない!」
「カシルダ、いいところだな。引っ越してもいいかもな」
「ほんとそうしたいわね!」
王都から来たと思しき若い男女が、ソフトクリームを頬張りながら物価の高騰を嘆いていた。
私と伯爵は自然と顔を見合わせた。
「確かに、王都の物価が上がっているというのは、お屋敷にある情報要綱で見ましたが」
「倍まで上がっているとは知らなかった、酷いな」
情報要綱というのは、カシルダにやってくる船の乗組員たちが教えてくれた情報を、文字に起こしてまとめたものだ。
伯爵に教えてもらった翌日から、早速屋敷で目を通しているのだが、非常に興味深いことが書かれていて、読んでいると時が経つのを忘れてしまいそうになる。
「猪さんたちのわがままで、こちらに被害を及ぼすのはやめてほしいですね」
「まったくだ。誰だ、あの猪に乳製品を振る舞おうなんて言ったのは。そいつに責任を取らせよう」
ミデルファラヤの侵略……と言っては大げさかもしれないが、王都の乳製品の物価が急激に高騰しているのは、他でもないあの猪おやじのせいだった。
昨年、猪おやじが新たにミデルファラヤの議長に就任した後、わが国に初めて来訪したのだが、その際晩餐会で出されたアイスクリームと、翌朝飲んだ牛乳がいたく気に入ったらしい。
帰国後も、わが国の乳製品が忘れられなかった猪さんだったが、ミデルファラヤには牛はいるものの、乳を採る専門の牛……つまり乳牛はいなかった。
かの国には、これまで乳製品を口にする習慣がなかったのである。
それでも、アイスクリームと牛乳を忘れられない猪さんは、渋る臣下たちを説得し、協力を取り付けた。
とはいうものの、まずは牛乳を採るところから手探りで始めたらしい。
ミデルファラヤ人は誇り高い民族、というと聞こえはいいが、他人に教えを乞うことを好まないらしく、この件でわが国に問い合わせは一切しなかったようだ。
とはいうものの、人間の食べ物への執念とは恐ろしいもので、かなりの苦労の末、猪おやじの命を受けた不憫な人たちは、独学でアイスクリームを作ることに成功した。
その貴重なアイスクリームを臣下にふるまったところ、一同大感激。牛乳も好んで飲むようになったそうだ。
かくして、乳牛を育成することは、ミデルファラヤの重要な国策の一つとなった。
だが、ミデルファラヤには牛乳を飲む習慣がなかったためか、わが国のような美味しい牛乳を採れる乳牛が少ないらしい。
従って、金に糸目をつけずにわが国から乳牛を買い漁っているのである。
王都の乳製品が高騰しているのはこのためだ。
ここまでのことは、情報要綱を読んで知ったのだが、一つわからない点があった。
「ところで、あの国はどうして乳製品を食べていなかったんでしょう。
今は平気で口にしているということは、宗教的な理由ではないと思いますが」
伯爵のお答えは次の通りだった。
「あの国には、獣の乳を飲むとその乳を出した獣になってしまう、という言い伝えが昔からあったらしくてな。猪おやじの奴、いっそ牛になってしまえばよかったものを」
「猪閣下は、ミデルファラヤに新たな食文化をもたらしたとして、歴史に名を残せますね。よかったですね」
私が淡々とした口調で皮肉を述べると、伯爵は苦々しい顔をして鼻息を荒くなさった。
「買い漁られているのは、今のところ本土の乳牛だけだが、うちの牛は絶対やらんからな」
「当然です」
「国民が飢えで苦しんでいるという話ならまた別だが、誰があの国のために大切な牛を売るものか。奴らの食事の仕方ときたら」
「食べ方に何か問題があるのですか?」
首を傾げた私に、伯爵はかの国の食習慣の一つを教えてくださった。
「ミデルファラヤでは、食べきれないほどの量を皿に盛り、それをわざと残すのが礼儀とされているそうだ。
あいつがわが国に来たときは、そんな食い方はしていないだろうがな」
「もったいないですね」
これが私の率直な感想だった。
「わが国の人間からするとそういう感想になるが、あちらでは、綺麗に食べる方が浅ましく意地汚い、下品な食べ方だということになるらしい」
先の『獣の乳を飲むとその乳を出した獣になる』もそうだが、世界の伝承や習慣は多種多様だと思い知らされる。
「今はまだ採れる牛乳が少ないから、そのようなことはしないだろうが、大量に採れるようになったら、自国の流儀に則って残すのかと思うと、なんと言えばいいのか……やりきれないな」
「そうですね」
わが国では、牛から肉を頂戴する時も、肉はもちろんだが、皮や骨も活用できるものは余すところなく使う。他の食料でもそうだ。必要以上の量を取ることもしない。
そういう価値観の国に住む者としては、ミデルファラヤの食料の扱い方には首を傾げてしまう。文化が違うと言えばそれまでなのかもしれないが。
伯爵のコップから、ミルクセーキを飲み干したと思しき音がした。
「だが、相手の価値観に賛同はできなくても、理解することはできる。その上で接し方を考えていかねばならないのだろうな」
「はい」
私も急いで飲み終えると、売店にコップを返しに行くことにして、伯爵から空のコップを預かろうとしたが、一緒に返しに行こうとおっしゃるので、お言葉通り二人で売店に向かった。
「もっとも、あいつらのことなど忖度したくはないんだがな」
「そうですね」
「今度攻撃してきたら、必ず沈めてやる」
その声色は、いつも通りにも聞こえたが、ミデルファラヤの砲撃を忘れていない怒りと後悔が感じ取れた。
普段は健康的善人面で温和そうに見える人だが、領民のことをとても大切に思っている。
彼らの幸せを奪う輩は絶対に許さないし、そのためにならどんなことも厭わないだろう。
この人は、毎年領主会談に出席してどんな思いをしているのだろう。
領民のことなど殆ど頭になく、自分の金と地位と権威しか考えていない、あまたの領主たちの中で。
ふと、そんなことが頭をよぎったものの、自分の中で答えは出ていた。
そして、それが正解していることも知っていた。
私がもっと強硬に王都行きを拒絶すれば、伯爵は無理に私を伴おうとはしなかっただろう。
それこそ、王都に行けば心的外傷を思い出して、心身虚弱状態になってしまうとでも言えば。
この理由であれば、あまり自分の価値も下がらない。
新聞記者と外出しなくてはならないなら行きません! と今からでも遅くないから言ってもよかったのだ。
しかし、そうはしなかった……できなかったのは。
『あなたが必要だ』
あまたの脳内お花畑な領主たちの中で、怒りを抑え神経をすり減らしながら、カシルダの民の平和と利益を守るために、ずっと一人で戦ってきた人が、こんな私でも必要だと言ってくれたから。
だから、最初から『本気』で王都行きを断れなかったのだ。




