主人と書生の休日1
そして、ついに待ちに待ったこの日がやってきた。
伯爵を甘味処に連行する日である。
この日をどれだけ待ち望んだことか。
伯爵とハックさんのお店『エイミス商店』を訪ねた翌日から、早速私は調査を開始した。
屋敷の女性使用人全員に、カシルダで最もおすすめの甘味処を聞いて回ったのだ。
その結果、『いまカシルダの女子が一番行きたい甘味処』が判明したので、今日はそこへ伯爵を連行……いやご一緒いただこうと、意気揚々と部屋を出たのだが。
いつものごとく、上下揃いのパンツスーツで機嫌よく歩いていたところ、ちょうどマノンに出くわした。
「あ、エリーさま、おはようございます」
「あらマノン、お疲れさま。行ってくるわね」
この日は休みでないマノンは、両手にバケツとほうきを持っていた。
まさに清掃の女神と呼びたくなるほど、かわいらしい笑顔を向けてくれたのだが、その笑顔が急激に曇った。
「ちょっと待ってください、行ってくるってどこへ」
「ええ、例の甘味処よ」
上機嫌に答えた私に反比例して、マノンは眉間の皺を深くした。
そして、なんと声を荒げて叫んだのである。
「エリーさま!」
「な、なに?」
「さすがにその恰好はやめませんか?」
「どうして」
「甘味処ですよ甘味処!
しかもあの『マハシュトラ』でしょ?
それはさすがに仕事仕事しすぎてますし、かえって目立ちますって!
エリーさま目立ちたくはないでしょう?」
確かに目立つのは困る。
私の目的は素敵な甘味処の雰囲気を堪能することと、そこで提供される美味しい甘味、そしてあの健康的善人面の崩壊だ。ただでさえ目立つ容姿をしているのに、余計な注目は浴びたくない。
「それはまあそうだけど」
「それならさあ! 着替えましょう早く!」
マノンはバケツとほうきを廊下の隅に置くと、私の手を引っ張って部屋までひきずっていった。
「いやあの伯爵との待ち合わせ時間が」
「待たせておけばいいです。お館さまも、その恰好の女子を甘味処に連れて行くより、いまお待ちいただいた方がよっぽどいいはずです」
そういうものだろうか。
あの伯爵のことだから、私の服装なんて頓着しないと思うのだが。
そんなことより、これほどマノンが怪力だとは思わなかった。
自室に押し込められ呆然とする私をよそに、マノンは私のプライバシーなぞおかまいなしに次々と箪笥を開けていき、ものすごい勢いで服を物色していく。
「どうしてこんなに似たような服しかないんだろ……これと、これならまだいいかな……ていうかこれしかないし。うん、これ以外は無理!」
マノンがひっつかんだ服は、私が持つ唯一のスカート(すみれ色でロング丈)と、白のセーターだった。
「エリーさま、これでいきましょう!
さ、早いとこ着替えてください! あとは私が片付けておきますから」
私を振り返ったマノンが、これほど恐ろしく見えたことはなかった。
「は、はい……」
こうして、待ち合わせ時間に遅れること五分、私は伯爵と合流したのである。
屋敷の正門前で、伯爵は待っていた。
いつもの軍服ではなく、スーツでもなく、完全なる私服で。
ありがとうございます聖母マノンさまありがとうございます……
私は心の中で聖母マノンに手を合わせた。
このくだけているのにこじゃれた格好の人の横で、いつものスーツ姿で歩いてはまずいことくらいは、おしゃれに無頓着な私でもわかる。
伯爵は小走りで駆け寄る私に気が付くと、こちらに健康的善人面を向けて手を振ってくださった。
「おお、来たか、おはよう」
「おはようございます。申し訳ありません、遅くなりました」
「構わんよ、行こうか」
時刻は九時半過ぎ。
甘味処はまだ開店していない時間帯だが、伯爵のご希望によりこの時間からの活動となっている。
「今日は久しぶりに散策したくてね。
リノレイアの丘からラキルル平原を抜けて、昼に市街地に降りて飯にしよう。それから甘味処でいいか?」
「はい、もちろんです」
話しながら、私たちの足は既に最初の目的地リノレイアの丘に向かっていた。
伯爵は歩くのが好きだ。
暇さえあれば歩いているのではないかと思うくらい、休日でもあちこち出かけているようだ。
休みの日に自室でおとなしくしているのを見たことがない。
今日も、元からこの散策コースを歩く予定だったのだろう。
そのついでに、私の要望を入れてくださったのに違いない。
リノレイアの丘は、ここから小一時間ほど南に歩いたところにある小高い丘だ。
主要道路から奥まったところにあるので、観光客が足を入れることが少なく、地元民の憩いの場になっている。
ラキルル平原では、牛や馬などが放牧されている。
こちらは新鮮な牛乳や乳製品を目当てに、観光客もぼちぼち訪れるが、漁港や市街地に比べれば静かな環境だ。
どちらも以前連れて行ってもらったことがあるが、とても景色がよく心が洗われる場所だ。
今日は天気もよいし、リノレイアの丘から見る海は特に雄大に感じられるだろう。
伯爵はあの風景を見たい気分なのだろうか。
確かに、今週は様々なことがあった。
私の目に触れただけでも、ネルドリの遭難船が漂着したし、ハックさんからはとんでもない情報をいくつも聞いた。
まして、伯爵は私以上の事を負っている。雄大な自然に癒されたくもなるというものだ。
こうして歩いているだけでも、気分が晴れていく気がする。
冬の高い青空と冷たい空気が、心も身体も清らかにしてくれるみたいだ。
そんなことを考えながら歩いていると、
「領主会談のこと、考えてくれたか?」
「……」
ため息が出そうになるのを寸前で止めると、横を歩く伯爵を見上げた。
「本当に行かなくてはいけませんか」
「ああ、あなたは私の書生だからな。あなたが必要なんだ」
精一杯悲しげな顔をして訴えたつもりだったが、今日の伯爵も動じなかった。
実は、この話を聞いたその瞬間から、断固として拒否の姿勢を貫いているのだが、全く応じてくれないので、正直途方に暮れている。
「それに、会わせたい奴らもいる」
「私はその方々にお会いしなくても問題ありません。生きていけますこのカシルダで」
「それほど嫌か、領主会談が」
「当然です」
何を血迷ったら、
「何を血迷ったら、王都に行きたいなどと思えるんですか。あんな所、二度と戻らなくていいです」
そう。
領主会談というのは、年に一度、全国の領主が王都に集結して何やら話し合う会議なのだ。
伯爵はその(私にとっては心底どうでもいい)会議に、私を連れて行きたいとのたまっているのである。
「閣下、昨年の領主会談には、どなたか同伴されたのですか」
「いや」
「一昨年は」
「いや、領主になってからずっと一人で行っていたが、今年は」
「それなら、今年もお一人で問題ないです。お一人で行かれた方が旅費も節約できます」
主に対して、いつも以上に無礼な口の利き方をしているが、ここは強気でいかなければならない。
こういう時だけは、王女の権威を傘に着まくって自分を防衛するべきだ。
だが、昨日までならここまで言えば矛先を収めたはずの伯爵が、今日は一歩も引かなかった。
「うちがどれだけ貧乏だと思っているんだ。
これでも伯爵家の中では裕福な方だ、あなた一人分の旅費くらい工面できる」
「いつも質素倹約とおっしゃっているではないですか。節約するに越したことはないです。
それに、私を連れて歩いていては、目立つことこの上ないですよ。私も、もうあの好奇の目と悪態に晒されたくないですし」
私はとうとう、冗談めかして本音をぶちまけた。
領主会談に……というより王都に行きたくない理由は、この最後の一行に尽きた。
こんな私事で、主の命令を拒んではいけないことは理解している。
伯爵の優しさにつけこんではいけないこともわかっている。
それでも……こうして自分の価値を下げてでも、王都には行きたくなかった。
これで伯爵はわかってくれるだろうか。
こんな『わがままな王女さま』を連れて行けば、多忙な領主会談の期間に役に立つどころか、余計なストレスを抱えることになることを。
伯爵の足が止まった。
「言っただろう、あなたが必要だ」
ああ。
先ほど流しておいたのに、どうしてまた言った。
「いえ、私などいなくても閣下は」
「あなたが必要かどうか、判断するのは主たる私だ。あなたではない」
痛いところを突かれてしまった。
その通りだった。
こうして面と向かって『自分が主だ』と言われれば、抗議できない。
私はこの国の王女であっても、今は伯爵の書生として仕えている身分で、食事も住処も提供してもらい、お給金までもらっている。弱音を吐くのも甘えるのも、ここまでだった。
だが、それでも甘えられるところは甘えてみることにした。
「アイスラー教授には会えますか」
もしかしたら、伯爵は領主会談で王都に行かれるたびに、教授に会われているのではないかと思って言ってみたのだが、伯爵は驚いたように目を見開いた。
「それは名案だな! 教授のご都合がつけば、それも考えよう。私も久しぶりにお会いしたい」
「ありがとうございます」
もし私が領主であれば、王都に行くことにかこつけて、絶対アイスラー教授に会いに行くのだが、領主会談とはそれができないほど忙しいのかもしれない。
伯爵のように若い領主や女領主もいるが、領主といえば、殆どがむさ苦しい中年貴族だ。
会議が終わった後に、夜更けまで抜けられない宴会などがあるのだろう。
「ありがとう、エリー」
「いえ、こちらこそ、無礼なことばかり申し上げて、申し訳ありませんでした」
伯爵が謝意だけでなく不器用な笑顔までくださったので、こちらも慌てて自分の非を認めて頭を下げた。
「あなたのことを知っていながら、無理を言ってすまない。
だが、あなたに来てもらえたら本当に助かるんだ」
なぜ伯爵がここまで私を必要としているのか、全くわからなかった。
こんな小生意気な女を連れて行って、何に役立てるつもりなのだろう。
まさか、人買いにでも売るつもりだろうか。
いや、こんな女誰も欲しがらないはずだが、もしも長身白髪女性が好みという奇特な輩がいるとしたら、大枚はたいてでも買おうと考えるかもしれない。
そんな奴になら私でも高値で売れるかもしれない。厄介払いにもなるし、丁度よいのではないか……
憶測とも妄想ともつかないことを頭で巡らせていると、
「行こうか」
伯爵が今日の天気にぴったりの清々しい声でおっしゃった。
「はい」
答えながら、私もこんな声が出せるようになりたいと思った。
何の迷いもないような響きで違和感なく耳に入り、人の心を軽くしてくれる声。
私の声はただでさえ低いのに、その上耳障りだ。
まるで干からび果てたパンみたいにすかすかで、耳にしても温かみや優しさが感じられない。
今日の空とは正反対の感情を胸に抱きつつ、私は伯爵と共に再びリノレイアの丘を目指して歩き始めた。
しばらくの間、伯爵と私は黙々と歩いていたが、伯爵が路傍に小さな花や、空に変わった形の雲を見つけたりしているうちに、二言三言のやりとりから会話が広がっていった。
「先日も言ったが、私が会議の間は上屋敷で待機していてくれればいい。もちろん、外出したければ自由に出てもらって構わな」
「出ません出ません絶対に一歩も出ませんからご安心ください」
話題は再び領主会談のことになっていた。
私が同行すると覚悟を決めたので、王都に着いてからの具体的な事柄の説明が始まった。
食い気味な引きこもり宣言をした私に、伯爵はある提案をした。
「かつらをつけてみたらどうだ? 意外とばれないかもしれんぞ」
かつら。
「それはそうかもしれませんが」
実のところ、かつらにはいい思い出がない。
かつらを被れば、この白髪を隠せるのは重々承知しているのだが、あまり被りたい気分にはなれない。
「実は私、冬でも頭皮にだけ異様に汗をかくんです。ですから帽子なども苦手で」
「そうか」
というわけで、咄嗟に平和に収まりそうな嘘をついたものの、確かに伯爵と王都内を歩く機会もあるだろう。その時くらいは被った方がいいのかもしれない。伯爵にも迷惑をかける確率が格段に下がるだろう。
「ですが、王都の街中を歩く時だけでも、あると便利かもしれませんね」
なので、やんわりと譲歩したのだが、
「実は既に作らせてあるんだ」
「は?」
最初から被せる気まんまんではないか。
「飯を食った後、それも取りに行こう。昨日出来上がったと連絡があってね」
「……ありがとうございます」
私の頭のサイズをどこで知ったのか不思議でならないが、既にかつらが完成しているというのであれば、それ以上に重要なことがある。
「ちなみに、何色の頭髪ですか」
そう、目立たなくなるために被るかつらなのだ。人目を引いてしまいそうな髪色だと非常にまずい。
ここは当然、茶髪か黒髪などにしてくださっているだろう。王都にはあまりいない赤毛や銀髪、まして金髪だと困
「金髪だ」
なんでそんな目立つ色にしたんだこの能天気善人面が!
「閣下」
「なんだ」
「せめて黒髪にしましょう、今からなら間に合います」
「なぜだ。以前は金髪だったのだろう? ならば似合うに違いないぞ。かつら屋の主人にも、あなたのかつらだとちゃんと話をして決め」
「私は! 目立ちたく! ないんです!!」
血走っているであろう両の目を限界まで見開いて主張する私に、伯爵はどこ吹く風という顔でこうのたまった。
「大丈夫大丈夫。近頃、王都で髪を金色に染めるのが流行っているらしい。かえって目立たないかもしれないぞ?」
こいつ、やはりいつか海に沈めてやる。
私が血眼になったのが嬉しいのだろう、伯爵の足取りはとても軽くなられた。
その背中を未だ収まらない血眼で燃やすような勢いで凝視しながら、私も歩みを早めた。




