牙を隠し持つ狼4
伯爵が私を連れて行ったのは、海に近い露店居酒屋とでも言うべきところだった。
店を囲う柵などもなく、砂浜のぎりぎりに幾つもの机と椅子が雑然と並び、仮設のようにも見える簡素な厨房は、客席から丸見えだ。
整列という言葉からかけ離れた配置の席は、既に多くの客で埋まっていた。
作業の終わった現場労働者のようないでたちの人々や、漁に出ていたり港で働いていたと思しき人々が、複数で楽しく賑やかに、あるいは一人でひっそりと酒を楽しんでいる。
入店すると(露店なので、入口もはっきりしないのだが)、当然ながら伯爵は先客たちの脚光を浴びた。
「おお、お館さまでねえか!」
「お疲れさまっす!」
「今日は別嬪さんをお連れですなあ!」
などという歓声に晒されつつ、私たちは店員さんに案内され、店の一番端にある席に通された。
席の横には、自生のものと思われる低木が何本も生えていた。
なぜわざわざこの位置に席を設けたのかは謎だが、この低木たちのおかげか、他の客席からは少し離れていて、妙な特別感があった。これなら、多少混み入ったことを話しても、他の客に聞かれることはなさそうだ。
露店と言えば吹きさらし、しかも海沿いなので、本来なら非常に寒いはずなのだが、おとなしく席に座っていても不思議と寒さを感じなかった。
足元に小さなストーブがあるせいかもしれないが、他にも理由がある気がした。
さすがはお館さまと言うべきだろう。店員は私たちが席に着くとすぐ、『いつものでよろしいですか?』と訊ねたものの、伯爵が首を縦に振るか振らないかのうちに、
「お館さま入られましたー! スペシャルセット二つお願いしまーす!」
大きな声を厨房に向けながら下がっていった。スペシャルセットとは何だろう、見当もつかない。
「寒いか」
謎のスペシャルセットに頭を悩ませていると、健康的善人面の青年は、彼を知らない女性が聞いたら、惚れてしまうかもしれない優しい言葉を放ってきた。
「いえ、大丈夫です」
ハックさんを見習ったわけではないが、淡々とした口調で応えた私に、
「だろうな、顔がゆでだこのように赤い」
そう思っていたのだったら、わざわざ聞くな。やはり、淡々と応じておいて正解だった。
私が寒くないのは、どうやら身体の代謝がよくなっているせいもあるようだ。これも体力づくりの賜物だろうか。
「スペシャルセットとは何ですか」
ゆでだこ発言は無視しておいて、疑問に思っていることを聞いてみると、
「私の晩酌セットと言ったところかな。屋敷に帰るまでに腹がこなれる、ちょうどいい量だ。安心して食べるといい」
わざわざそんなものを用意してやるとは、この露店居酒屋、主に魂を売ってしまったと見える。嘆かわしい。
露店居酒屋の伯爵びいきを憂いていると、
「あなたは、元気だな」
少しの間だけ、何のことをおっしゃっているのかわからなかったが、すぐにハックさんの店での話のことかと察しがついた。
ああいう話を聞いて、元気溌剌、気分爽快でいられるはずがないだろうが。
しかし、私が元気に見えることは、
「はい、いいことだと思います」
ハックさんの店での話を、全て理解している伯爵と半分以上わかっていない私。どちらが気持ちの切り替えを早くできるかと言えば、私でなければいけない。
何も負っていない私が、多くのものを背負っている主に、手間をかけさせてはならないのだ。
「それとも、私らしくもなく、先ほどの話に心を怯えさせて、落ち込んでいた方がよろしかったですか」
だから、この言葉は嫌味でも皮肉でもなく本心だった。
「あなたらしいな」
私の心情を理解したかどうかはわからないが、伯爵は低くつぶやくと、話題を変えることにしたらしかった。
「ところでエリー」
「はい」
「あなたのことだ、酒は飲むよな?」
それにしても、がらっと変えてきたな。
「いえ」
「は?」
「ほぼ飲んだことがありません」
「なに?」
事実を申し上げているだけなのに、なぜ驚く。
「一杯も飲んだことないのか」
「はい、大学でも、女子学院時代と変わらぬ品行方正な生活でしたから。ですから今日が、いわゆる初・体・験になりそうですね」
「その言い方はやめろ」
「閣下が私にとって、初めての経験をさせてくださるのかと思うと、胸の高鳴りが止まりません」
「……」
自分で言っておいてなんだが、甚だ、非常に、尋常ではなく気持ちが悪い。
だが、今日は話術の調子がよいのかもしれない。主があからさまに困った顔をしていることからも、それは明らかだろう。
そうか、こういう感じに攻めるといいのか。
とはいうものの、この口撃は滅多にできるものではない。
毎日この調子でいたら、私の精神がやられてしまうし、他の輩には絶対に使いたくない冗談だ。
甘味処には行けなかったが、この健康的善人面が困る姿を見られたのは、日頃から精進している私に対する、神からのご褒美かもしれない。あと一押しくらいしてみるか。
「あれですかね、だから頬が赤くなっているのですかね? 閣下との初めての体験を、自分でも無意識のうちに予見していて、それが顔に出てしまったのかもしれませんね」
「これで素面なのが恐ろしい。もはや、既に一杯引っかけてきてる奴の言い草ではないか。飲ませたらまともに戻るかな……」
伯爵が悩ましそうに頭を抱えているのは非常によいのだが、スペシャルセットにはどうやらお酒も含まれているようだ。
冗談抜きで、私は酒類をまともに飲んだことがない。酒は飲んでも飲まれるな、という格言は聞いた覚えがあるし、そうならないよう、今日のところは口をつける程度で済ませておこう。
あのデナリー侯爵の島に流れ着いた、ネルドリ人のようになってしまっては、大変なことになる。
ハックさんから聞いたことを思い出したら、もう一つ気づいたことがあった。
「そういえば閣下」
「なんだ」
「お屋敷では新聞を取っていないのですか?ここに来て以来、新聞を見ていないと思いまして」
そうなのだ。
先ほどハックさんのところで、新聞もネルドリに買収されているのではという話が出たが、カシルダ島に来て半年、新聞そのものを見ていないことに気づいたのだ。
伯爵はなぜかひどく困惑した顔で私を見ると、何かを諦めたように首を振ってから、
「ああ、そもそもカシルダに新聞はない」
にわかには信じがたいことをおっしゃった。
新聞がない、とはどういうことだ。それではどうやって、世間や外国のことを知るのだ。
私がそのように問うと、
「以前は、王都の新聞社も、何社かここに支社を出していたんだが、船乗りたちから入る情報の方が早いし、なにより正確でな。
始めは王都の新聞ということもあって、そこそこ売れていたが、そのうち見向きもされなくなって、みな撤退した」
新聞記者より優秀な情報源が船乗りとは、思いもしなかった。
確かに船乗りなら、国内各地、世界各国を回るし、分野にとらわれず様々なことを知っているだろう。
「以来、カシルダの情報網は網の目のように伸びて、半日もあれば全島に情報が届くようになっている。そういう情報を届けるのが専門の、情報屋というのもいるくらいだ」
それは興味深い。また港に行ってみたくなったし、情報屋とやらにも会ってみたくなった。
しかし、初対面の人に単身会いに行くのは、まだ気が引ける。伯爵が港に行くときにでも、同行させてもらうとしよう。
伯爵は出されていたおしぼりで手を拭きながら、話を続けた。
「彼らが伝えたことを、文字にまとめる仕事をしている者もいる。だが、それが新聞になることは、カシルダではないだろうな。
みな新聞を読むより、話を聞いた方が早いと思っているし、一般の民にとってはそれで十分だからな。
私たちのような、情報に関わっている者にとっては、大事な資料になるんだが」
そんなものがあるのか。
それはぜひ見たい見せてくださいお願いしますと頼むと、伯爵は快諾してくれた。そういう資料は、屋敷で定期的に購入して、大切に保管もされているらしい。
カシルダ島に来て以来、伯爵から多少の情報は得ていたものの、それ以外の、最近の国内や外国の動きは全くわからなかったので、自分の目でそういった情報に触れられるのはとても嬉しかった。
ああ、楽しみだ、どんな情報が私を待ち受けているだろう……
心をときめかせた瞬間、思い出してしまった。
それ以前に向き合わなくてはならない某書物、『最後の楽園 ネルドリ』が自分の鞄に入っていることを。
心の中でげんなりしていると、スペシャルセットが現れた。
ジョッキ一杯の琥珀色をした発泡酒に枝豆、焼き鳥が三本と、葉物と根菜の混ざったサラダ。
これが伯爵専用セットというわけだ。このくらいの量なら、屋敷に帰ってもまだまだ晩ご飯が食べられる。
安心したところに、仰天すべきことが起こった。
「では、あなたの書生初仕事に、乾杯」
わが主が、健康的善人面に更に輪をかけて、人の良さそうな笑顔を浮かべたかと思うと、私に向けて発泡酒のジョッキを掲げたのだ。
「……ありがとうございます」
日頃、嫌味と皮肉と本音をぶつけまくっていても、心遣いにはありがたく感謝した。私のためにこんなことをしてくれる人は、恐らく他にいないから。
二つのジョッキが鈍い音を立てた。
少しの間、私たちは小腹を満たすのに夢中になった。
枝豆も焼き鳥もサラダも、ちょうどいい量と味付けで、箸が進んだ。
お酒は、乾杯のとき口を付けた一口だけで止めておいた。
「あの、閣下」
「なんだ」
私はまだカシルダでの情報の回り方について、聞いてみたいことがあった。
我ながら色気のない話だが、色気のある会話は、身体が干からびるほど出血大サービスした結果、無飲酒酔っ払い認定されたのでもういいだろう。私も当分はあの調子に戻りたくない。
あれが色気ある会話か、などと言ってはいけない。私にとっては、あれが精一杯の冗談かつお色気なのだ。
それも、同年代の伯爵に向かって発したのである。引きこもり以来の快挙と言ってよかった。
もしかすると、私の言語交流能力は、かなり戻りつつあるのだろうか。
それはそれでよいことだが、今の私には自分自身のことより気になることがあった。
「その、船乗りたちからの情報ですが、正しいものばかりとは限らないですよね」
「当然だ」
「船乗りたちが嘘をつくというわけではなく、偽の情報をつかまされる場合もあるでしょうし」
「そうだな、船乗りたちにとって情報収集は本業ではない。
荷物を運搬するにあたって付いてくる、おまけみたいなものだからな」
「おっしゃる通りです。彼らも含めて、島の皆さんも情報収集のプロではありません。
ですから、カシルダ島ではどうやって情報が選別されて、正しい情報を得られるのかと思いまして」
伯爵は発泡酒を飲み干すと、残り少なくなった枝豆をつまんで、
「いや、正しいものも間違ったものも、全部広がっていくぞ」
「え?」
それは大丈夫なのか? なんだか伝言ゲームみたいになりそうで怖い、と思っていたら、伯爵が説明してくれた。
「正確に言うと、広まっていく情報には全て、『これはどこそこ政府発表のものだ』とか、『これは噂話だが』とかいう枕詞がついて飛んでいく状態だ。
だから、どの程度の信憑性があるものかわかるし、どこからの情報かわからないものは、その程度のものと判断できる。
それに、間違ったものには、後から必ず訂正が入る。話を持ってきた船乗りの信用にも関わるしな」
なるほど。
情報元が確かになっている(もしくは不明なことがはっきりしている)上で、玉石混交の情報が流れていくというわけか。
「だから、ネルドリのことも、ここではある程度実態が知られているぞ」
「そうなんですか?」
そうか、新聞がないということは、ネルドリのことを『最後の楽園』風に伝える媒体がない。
王都なら、都市伝説と認定されて消えてしまう実話でも、新聞に打ち消されずに残っているということか。
どの程度のことまで知られているのか聞いてみると、
「そうだな、大総統がものすごく崇められているとか、一般の民はとても貧しいとか、そのくらいのことまでだがな。
最後の楽園、という認識でないことは確かだ。別の意味でもな」
最後の一言には、行方知れずの島民やお父上のことを思う、怒りが込められていた。カシルダ島に住む人々は、みな伯爵と同じ気持ちでいるだろう。
以前から不思議に思っていることがある。
ネルドリに加担する王宮や貴族、そしてネルドリの間者のような振る舞いをするわが国の人々は、本当に金などの賄賂や美女だけが目的で、ネルドリの便宜を図っているのか。
ネルドリにわが国の民が連れ去られたことは、間違いないことのはずなのに。しかも、これを解決しようとした貴族まで……伯爵のお父上まで行方不明になっているというのに。
そして、ネルドリは何のために、これほどわが国へ賄賂を送るのか。
本来は世界でも指折りの極貧国のはずなのに。
そのくせ、特使はいつ来ても偉そうなのだ。不可解なことこの上ない。
不快な広告をまき散らす、ミデルファラヤのことも気にかかる。私にはまだわからないことだらけだ。
「お互い皿が空いたな、そろそろ帰るか」
伯爵の声に顔を上げると、空はすっかり夜の色に染まっていた。




