牙を隠し持つ狼2
三人の間を、なんとも形容できない空気が漂っていた。
伯爵の手元にある広告(などと呼ぶのもおぞましい)が何を求めているのか、わからない者はこの場にいないようだ。
ハックさんも、伯爵と私が発している負のオーラに感づいたのだろう。
「ささ、ここはもうお引き取りいただいて。応接間に参りましょう」
努めて明るくしていると思われる声で、私たちを応接間へ移動させた。
あの広告(と表現したくないが)の話は、いつ事情を知らない従業員が入ってきてもおかしくない場所ですべきではなかった。
例えようのない心持ちで倉庫を後にした私たちが、次に通されたのは感じのよさそうな部屋だった。ここが『エイミス商店』の応接間だろう。
趣味のよい調度品は、どれもそこそこ高級なものと見受けられた。それでいて威圧感はなく、ざっくばらんに話ができそうな雰囲気になっている。
居心地よい応接間の、座り心地のよいソファに腰かけると、早速美女がお茶とケーキを運んできてくれた。ハックさんの秘書か助手だろうか。あるいは、ただの店員か。
これだけの美女なら、間者的仕事をしているのでは、と勘ぐってしまうほどの美人だった。
いずれにしても、甘味処に行く前にも甘いものにありつけるとは、今日の私はついている……と、思案を別の方面に向けなくては、あの広告(以下、不快なので省略)のことで気が滅入りそうだった。
美女が部屋を出ていくと、最初に口を開いたのは伯爵だった。
「聞いたか、昨日のことは」
「はい、今朝ジョセフさんが知らせに来てくれました。厄介なことになりましたなあ」
伯爵は先ほどの広告(同上)には、まだ触れないことにしたらしい。昨日漂着したネルドリ人たちの話から済ませるようだ。
ハックさんも伯爵の思うところを察したと見える。ジョセフさんというのは、尋問班の人だろう。
ハックさんは顔にも声にも、これといった特徴がない。本当にその辺にいる感じのよいおじさん、といった印象だ。
間者の素性など、絶対に明らかにされないと思うが、ハックさんはどういった経緯で伯爵と働くことになったのだろう。興味本位で悪いが少し気になる。
「流れ着いてしまったものは、最大限に利用させてもらうより他ない。今日はもう少し詰めた話を聞いているはずだ」
伯爵の表情は硬い。
昨日、私をまだネルドリ人には会わせられないと言ったのは、今日以降は、ネルドリ人たちの出方によっては、本気の尋問を行うからなのかもしれない。
「動き出すのでしょうか」
ハックさんの台詞は抽象的だったが、何が動き出すのかと問う者はここにいなかった。
世界が動き出すかもしれない……
私はそう受け取ったし、伯爵も恐らく同じだろう。アイスラー教授の薫陶を受けた者なら、わかるはずだった。
ここ数年なかったことが突如として起きたとき、そこには必ず理由がある。
この場合なら、ネルドリ人が飢えに苦しんでいるという表面的なことではなく、もっと奥に、裏に、そうしなくてはならない事情が潜んでいるはずだった。
「わからない。だが、常に備えは必要だ」
伯爵は広告(もとい忌まわしい紙切れ)をテーブルに置くと、気分を切り替えるように声音を明るいものにして、
「今日は他に、どんな驚く話題を提供してくれるんだ?」
そうハックさんに訊ねたものの、
「二つあります。重い話題と、より重い話題、どちらからいきましょう?」
ハックさんの持つ話題は明るいものではなさそうだった。
伯爵はため息をつきたそうに大きく息を吸ったものの、止めることにしたらしい。嘆きを胃の底に沈めるかのように美女が出してくれたコーヒーを一口飲むと、肩を落としてから口を開いた。
「あれ以外にも、まだ重い話題があるのか」
あれ、とは先ほどの広告(別名ふざけた紙切れ)のことに違いない。私もあれほど胸の悪くなるものは、お目にかかったことがなかった。
「そうですね、より重い話題の方は、あれに付随した話とも言えますが」
あれにまだ追加で、胸の悪くなる話があると思うと、ますますげんなりしてくるが、伯爵も同様の感想を抱いたらしい。
「では、ましな方の重い話題から聞かせてもらおうか」
一方のハックさんは、淡々としているというか、私たちのようにげんなりしている様子はまるで見えない。先に情報を得ているとはいえ、このくらいの胆力がないと、二重間者は務まらないのだろう。
「はい、では軽い方の重い話題ですが、ネルドリの漁船、デナリーさんのところにも漂着したそうです。乗組員も全員無事だそうで」
ハックさんはややこしい表現をしたが、『ましな方の重い話題』の正体はこういうことだった。
デナリーさんの島に流れ着いたネルドリの漁船というのは、カシルダに流れ着いたネルドリ人たちと同時に出航した一行だろう。
ところで、デナリーさん。
申し訳ないが、この人の印象は、会っていないにも係わらず既によくない。箇条書き感覚で思い出そう。
デナリー侯爵は、カシルダ島の北にあるドナーク島の領主。
ネルドリに行ったことがあるという、恐らく筋金入りの親ネルドリ派。
帰国してから書いた本の題名は、『世界最後の楽園 ネルドリ』。そこには、ネルドリのないことないことが書き連ねてあるという。
その『世界最後の楽園 ネルドリ』 が、なんと現在、私の鞄に入っているではないか。
昨日の約束通り、出かける前に伯爵から渡されたのだ。
務めが終わったら読まなくてはならないと思うと、ますます暗い気分になった。
それは置いておいて、このように私からも伯爵からも受けがよろしくない領主の島に、ネルドリの船が漂着したと。
「そうか」
伯爵は短くつぶやいて、先ほどはなんとか堪えたため息をとうとう漏らした。
伯爵は『ネルドリ人たちは、カシルダよりもドナーク島に漂着したかったのではないか』的なことを言っていたが、それには皮肉も込められている。
デナリー侯爵は親ネルドリ派といっても、『ネルドリの一般の民の味方』ではないだろう。大総統閣下の覚えがよくなりたいだけだろうだから。
ドナーク島に漂着したネルドリ人たちは、滞在中は厚遇されるかもしれない。
だが、伯爵の予想だと、すぐに王都もしくはネルドリ本国に送られると考えられるし、私もそう思っている。
王都(または故郷のネルドリ)に送られた後の彼らには、何が待ち受けているだろう。
「彼らはどんな待遇を受けている?」
「はい、発見されてすぐ、デナリーさんの持つ別荘へ収容されたそうです。今日で十日目になります」
カシルダに漂着したネルドリ人たちよりだいぶ早く、彼らはドナーク島に流れ着いたようだ。ドナーク島の方がネルドリには近いから、もっともなことではある。
「尋問されている様子は」
「全くありません。こちらのネルドリさんたちと違って、自由なものですよ。初日はデナリーさん自ら酒宴を開いて、彼らをもてなしたそうです。
以来、酒の味を覚えた彼らは、毎日飲んだくれているとか」
「なんてことを」
伯爵の抑えた声が部屋に響いた。これは本気で怒っている時の声だ。
「あいつら、ろくに食べ物も口にできてないのに、そこへ酒など覚えさせたら……どんなことになるかも想像できんのか、あいつは」
「そうですね、先日とうとう、別荘の召使に暴行を働いたそうです」
ハックさんが言い終えた瞬間、伯爵の周りの空気が震えたように感じた。
主は何もしていない。身動き一つしていないのだが、だからこそ、内に抑えているはずの漏れ出た激情が空気から伝わったのかもしれない。
「彼らは外出も自由にしていますから、そのうち市街地で騒ぎを起こすのではないかと、仲間たちみんなで、ひやひやしてるんです」
ハックさんの顔が少し曇ってきた。
伯爵もいつもの穏やかな表情ではなく、緑青色の瞳に厳しい光をたたえている。
「デナリーさん、王宮には発見の当日に連絡を入れてました。今では王都でも話題になってます。
新聞でも、『貧困の中、漁に出たネルドリ人が遭難するも奇跡の生還! 彼らを早急に母国へ! 困窮するネルドリへの緊急支援を!』なんて報道されてますね。民衆はみなネルドリ人たちに同情してますよ」
ちょっと待て。つっこみたいことが色々あるが、まずはおとなしく話を聞こう。
「ネルドリは確か、『最後の楽園』だったと思うんだが、私の記憶違いか?」
「いえ、合ってます」
「ではなぜ、今になっておおっぴらに貧困アピールしてくるんだ。今までそんな報道なかったろう」
私も抱いたつっこみどころの一つを、伯爵が皮肉たっぷりに挙げてくれた。
デナリーさんがあからさまな嘘を詰め込んだ本を書いたのは、だいぶ前……数年前の話だが、実を言うと、王都の新聞はもっと昔から、『ネルドリはいいところ』のように報道していたのだ。
新聞すらネルドリの工作にやられているのか、と失望したものだ。
そう、ネルドリについて色々と言ってきたが、あのような真相を知っているのは、伯爵や私のように情報を得ている一部の人間だけで、世間一般の感覚だと、ネルドリはまだ『最後の楽園』状態なのだ。
「隠し通せなくなってきてるのでしょう。
ネルドリはここ数年、飢饉が続いています。食糧も冗談抜きで万年不足してますし、限界まできてるんじゃないでしょうか」
ハックさんにけちをつけるわけではないが、食糧の万年不足には少し物申したい。
飢饉は事実だろうし、不幸なことで同情するが、そんな状態にも係わらず、配給すべき食料を上に貢いだりしている輩がいることも、民が飢える原因になっているのではないか。
ただでさえ大事な同胞で、大切な『手足』であるはずの彼らへ、一日パン二個と少しの野菜と魚(もしくな肉)しか配給していないのに。
いずれにしても、まずは自国の腐敗をなくして、公平に食糧を分けろと言ってやりたい。わが国の同情を買って援助を得ようとするなら、最低限その努力をした後だ。
「だからといって、奴らは決して自分たちからは頭を下げませんから。
新聞社に金か何か掴ませて、世論の同情を誘う記事を書かせたんじゃないですかね」
ハックさんは嬉しそうではないものの、怒っている様子もなく、淡々と自分の見解を述べている。さすが二重間者といったところか。
「それこそ、わが国の民でありながら、ネルドリの手下と化している奴らの仕業だな」
「残念ながら」
伯爵の指摘に、ハックさんもこれには残念そうに頷いた。
やはり、そういう輩がいるのか。
昨日、ネルドリ人のスパイについて途中で語るのをやめたが、もう少し言いたかったのは、こういう奴らのことだ。
ネルドリ人ではないが、彼らにそそのかされてネルドリのために働いている、わが国の民がいる。
金のためか、女のためか、あるいはもっと別のことが理由か。
わからないが、なぜそんなことをするのだろう。
わが国も、無条件に他国の支援をするほどの余裕はない。そのくらいのことは、国民なら知っているはずだ。
自虐するわけではないが、私が生まれて以来……二十四年ほど前から、世の中が悪くなっていると言われているのだから。
自分の稼ぎのためなら、自分の国が……国民全体が苦しむことになってもよいのだろうか。
「デナリーは、あいつらのことなど何も考えていない。その場限りでもてなし、甘やかし、恩を売ればいいと思っている。
ネルドリに戻ったらあいつらがどうなるか、知らないとしたら、デナリーの脳の楽園化は相当進んでいる」
伯爵の思考は、またデナリーさんに向いたようだった。
本当にネルドリ人のことを思うなら、領主としてまずしなければならないのは、過度なもてなしではなく、彼らがどういう経緯で遭難したのか、綿密に調査することだろう。
その上で、王宮にネルドリ人を引き渡す際に、彼らの身柄の保証を……『大総統に、彼らを殺すなと伝えてくれ』などと頼むのが、彼らにしてやれる最善に近いことの一つではないかと思う。
「お館さまは、彼らをどうするおつもりで」
ハックさんが伯爵に聞いたのは、もちろんカシルダに流れ着いたネルドリ人たちのことだ。
「そろそろ長い付き合いだ、わかるだろうハック?」
デナリーさんのところに流れ着いてしまったネルドリ人の境遇に、沈痛な面持ちをしていた伯爵だったが、いささか鋭気を取り戻したようだった。
ハックさんは大きく頷いただけで、何も言わなかった。
私には、二人が何を考えているのかわからない。
しかし、普段から伯爵を見ていればわかることもある。
漂着したネルドリ人たちから、可能な限り情報を得て、彼らにまともな暮らしを保証する。
無論、彼らがわが国に留まりたいと望み、わが国の国民として生きる決意ができたら、の話だが。
彼らが有益な情報を持っているかはわからない。ネルドリに帰りたいと言い出すかもしれない。
しかし、伯爵は彼らを……悪い言い方だが、何らかのきっかけとして利用するのではないだろうか。行方不明のお父上と島民を取り戻すために。
少なくとも伯爵はそれを目指している気がした。
「では、より重い話題をしますか」
ハックさんはまた淡々とした調子で口を開いた。




