微かな翳り
次の日、凌はいつもより随分と早く家を出て、瑠奈が使う駅の改札で瑠奈を待った。瑠奈が何時に病院に行くのか、この改札を通るのかもわからないのに凌は待っていた。そうしないではいられなかったのだ。一時間近くが過ぎた頃、見慣れた制服を着た女の子が駅のロータリーの遥か向こうから歩いてくる姿を見つけた凌はすぐに瑠奈とわかった。凌は矢も楯もたまらずに瑠奈に駆け寄った。
「おはよう。瑠奈。」
そこにいるはずのない凌が突然現れて、目を丸くした瑠奈はいつもと変わったところはなかった。
「凌君?どうしたの?」
「どうしたのって、それはないだろ。瑠奈の事が心配で待ってたんだ。」
「あ、昨日のめまいの事?あれは大丈夫よ。ほら全然平気でしょ?」
瑠奈はその場でくるりと回って小さく跳ねて見せた。
「だって、あんなめまい起こしたら心配じゃないか。サッカー部にも顔出しもできないっていうし・・・。」
「そうだね。ごめんね、心配させてちゃってるね。昨日みたいなことがあると主治医の大原先生はすぐに何か検査をしようっていうのよ。そうなったら一日かかっちゃうし、そういう日はくたくたになっちゃうの。そんな顔見せたらまた凌君に心配させちゃうから、今日は病院だけで、サッカー部に顔出すのは無理だろうと思ったの。それだけよ。」
「そうなのか?なんかもっと悪くなったのかと思って気になってさ。来ちゃったんだ。」
「もう、ほんとに私の周りの人達は私の過保護なんだから、子供扱いしないでね。」
瑠奈は口を尖らせた。
「ごめん。悪かったよ。子供扱いしたわけじゃないんだけど、ほんと心配だったから。」
瑠奈は笑顔で何度も頷いた。
「でも、せっかく来てくれたなら、病院まで一緒にいこ。昨日のデートの続き。いいでしょ?」
瑠奈は凌の手を取ると改札を通ってホームに向かった。
都会の真ん中の大学病院は想像以上に患者や職員でごったがえしていて、ちょっとした通勤ラッシュのようだ。凌がエントランスできょろきょろしていると、瑠奈が凌の手を引っ張って人の間をすり抜けてどんどんと病院の中を進んで行く。階段をいくつか上がり、複雑に折れ曲がる廊下を歩いて、着いたのは病院内のカフェだった。
「凌君、何飲む?」
「え?診察は?」
「ああ、さっきエントランス入ったところで、受付したでしょう?それでいいの、あとは予約時間の頃に待合にいれば呼ばれるわ。まだ大分早いから、お茶しましょ。」
「ああ。」
勝手のわからない凌が戸惑っていると、
「はい。」
瑠奈はクリームがたっぷりとのったキャラメルマキアートを両手に持って戻って来て、片方を凌に渡した。
「凌君はこれ飲んだら、練習に行ってね。」
「え?まだ早いよ。せめて診察が終わるまでいるよ。」
「何言ってるの。今日が副主将としての初日じゃない。一年生より早くいって迎えてあげなくちゃだめよ。貴方のそういう姿がみんなの士気を上げるのよ。新主将のことも貴方が盛り上げてあげないと。潤君は寝坊するんだから。」
瑠奈はクリームを舐めながら言った。
凌は何度も頷いた。そして、ドリンクを飲み終わるまでのわずかな時間だけ思う存分に瑠奈を傍に感じたいと思った。二人はゆっくりとキャラメルマキアートを飲み干すとアイコンタクトを交わし繋いでいた手を放した。
「病院終わったら必ずメールしてくれよ。」
「うん、わかってるって、早く行きなよ。」
凌はほんの少し後ろ髪を引かれたが、瑠奈に促されるままに学校に向かった。
凌がグラウンドに着くとまだ誰も来ていなかった。練習開始までまだ1時間以上ある。一年生は三十分前には来てグラウンドを整備したり、倉庫からボールを出したり、ウォーターサーバーをベンチに運んだりすることになっているが、凌はそれを一人でやり始めた。
「久しぶりにやると案外大変だな。後輩が出来てこの雑用からは解放されたけど、俺たちも先輩達も最初はみんなやったんだよな。こうしてやってみると初心に戻るな。」
少しすると、一年生たちがバラバラと集まって来て、準備をしている凌の姿を見て慌てて。少しおどおどしながら声を掛けてきた。
「先輩どうしたんですか?僕たちがやりますよ。」
「いや、いいんだ。早く着いちまったし、こうして早く来ると、忘れていたことが見えることが分かったから。よし、一年は大体全員来たな。後はこれだけだ、頼んでいいか?」
「はい。」
氷の入ったクーラーボックスを渡された一年生は少し緊張した面持ちでベンチに向かって行った。その後ろ姿を見つめながら凌は思った。
『瑠奈が言っていたことはこういうことなのか。』
今までは自分のことだけ考えていればよかったが、これからは後輩たち一人一人に気を配らなければならないことに気づかされた。まもなく潤が来て、新チームの初日が始まった。、
練習が終わって帰ろうと凌が葛城藤の傍を通りかかると、藤棚の下のベンチで足をぶらぶらとさせながらにこやかに座って凌の方を見ている瑠奈がいた。
「瑠奈、どうしたんだ?病院は?どうだった?」
「メールしようと思ったけど、練習終わりに間に合いそうだったから来たの。」
「そんなことは見ればわかるよ。病院は?検査結果は?」
「大丈夫だって。なんでもないって言われた。」
「ほんとだな?そうか、良かった。でも、じゃあ、昨日のめまいは?」
「ちょっとした立ち眩みだろうって。血圧を測ったら低かったから。」
「そうか。」
凌はほっとして大きなため息をつくと顔に笑みを浮かべた。
自転車置き場から潤と優里と拓也が出てくると、
「ねえねえ、久しぶりに駅前のピザ屋さんに行かない?県大会出場の祝杯もまだだし、今日は食べ放題の日よ。」
瑠奈がいつになくはしゃいで言った。
「お、瑠奈ちゃん、いいアイデアだね。俺、腹ペコだし、何枚でも食えそう。」
「よし、行こうか。」
心配そうな凌をよそに五人は駅に向かって歩き始めた。潤と優里が並んで歩くすぐ後を拓也がスマホを片手にして、そこから二メートル程うしろを凌と瑠奈が肩を並べて歩いていた。五人は駅の手前の国道の交差点まで来ると、優里が通りに面している雑貨屋の前で足を止め、店頭にあったマスコットを手に取り、潤に何かを話しかけた。拓也と凌と瑠奈は二人を追い抜いて、先に交差点を渡り、対面の歩道で優里と潤を待った。青信号の点滅に気づいた潤が優里の腕を掴んで急いで交差点を渡ろうとした時、瑠奈が叫んだ。
「潤君、ダメ。止まって。」
潤と優里は立ち止まった。その時、潤達のすぐ脇で信号待ちをしていた左折車が少し左側に動き始めた。その時、後方から青信号に変わる瞬間に合わせて突っ込んできたバイクがその車を避けるために大きく歩道に乗り上げ、潤のバッグを掠めて走り去った。潤が大きくのけぞって転び、そのはずみで優里は弾き飛ばされて街路樹にぶつかって根元にかがみこんだ。
「潤!優里!」
交差点の向こう側から凌と拓也が大声をあげた。優里はすぐに立ち上がって潤に駆けよった。
「潤、大丈夫?」
潤はゆっくり体の向きを変えると顔をあげた。
「あっぶねーな。平気、平気。」
そう言ってズボンをはたきながら立ちあがった。
交差点の向こうで心配そうに見ていた凌たちもその様子を見て胸を撫でおろした。次の青信号で凌たちは潤と優里の処に駆け寄ってきた。
「おい、潤、大丈夫か?」
「ああ、ちょっと肘を打ったみたいだけど、大丈夫だ。」
「ほんとに怪我無いのか?」
「ああ。全然平気だ。俺より優里は?突き飛ばした気がするけど・・・」
「大丈夫。瑠奈の声で、潤が立ち止まったから、私は潤の身体で庇ってもらえたからちょっと、はじかれただけで済んだわ。」
「そうか、ならよかった。凌、拓也、瑠奈も、ごめん。心配かけたな。でも、大丈夫だ。
今ので、増々、腹減ったし、ピザ行こうぜ。なあ、優里。」
優里が笑顔で頷いた。
「二人が大丈夫なら行こうか。俺もホッとしたら腹減った。」
凌の言葉で五人は何事もなかったように、ピザの店に入って席に着いた。ドリンクとピザを口にして空腹が少し満たされ始めると、潤がポツリと聞いた。
「でもさ、ほんとにさっきは危なかった。あと一歩、いや、半歩前に出てたらまともにぶつかってたし、多分、優里も巻き添えになってたよな。瑠奈、ホントによくバイクの動きがわかったよな。」
拓也がピザをほおばりながら何気なく言った。
「ほんとに瑠奈が潤に声をかけてくれなかったら・・・って思うとゾッとするわ。私があそこの雑貨屋に引っかかったりしたからよね。そのせいで潤がケガしたらなんて・・・考えたら、耐えられないもの。」
優里はあの時の事を思い出したのか、涙声で少し震えていた。
「おい、拓也、余計なことを言うから・・・。」
「優里のせいじゃないよ。あのバイクが悪いんだ。でも、怖かったな。優里。ホントにごめん。」
潤が優里の手を握って優しく言うと、堰を切ったように優里は泣きだした。
「うん、うん、怖かった。あんなにエンジンの音が耳元で聞こえて・・・。ホントに潤が倒れた時、絶対バイクにぶつかったと思ったもん。」
「優里、泣くな。俺は無事だよ。瑠奈のおかげでな。」
「うん、うん。瑠奈、本当にありがとう。」
優里は瑠奈に抱き着いて泣いた。
「優里、もういいよ。なにもなかったんだし、優里の気持ちはわかったから。」
瑠奈は優里の背中を優しく撫でた。
「でもさ、瑠奈のいたところからバイク、見えたのか?」
拓也の言葉に瑠奈の表情が一瞬、凍ったが、瑠奈をずっと見ていた凌以外はそれに気づかない。
「そうね。なんだか勘が働いたのよ。きっと。ねえ、もう、この話は終わりにしましょ。潤も優里も無事だったんだし、とっさの出来事をあれこれ聞かれてもわからないわ。それより、潤君、新主将の初日はどうだったの?それが気になってたの。」
「それがさ・・・。」
瑠奈がとっさに話を変えると潤達は練習初日のことを話し始めた。
凌は拓也と同じ疑問を持ち、それを凍った表情で煙に巻いた瑠奈の事が少し気になったが、楽しそうに笑い声をあげてピザをほおばる瑠奈の姿に安堵し、その小さな疑はいつしか吹き飛んでしまっていた。