出会い
葛城高校の校庭の桜の木が瑞々しい青い葉に包まれる頃、校舎の脇の藤棚が見事な紫色の花を咲かせていた。藤棚の下にはベンチが置かれているが、花の盛りにはそのベンチまで花の房が垂れ下がる。さながら紫色の滝のように見える。そのベンチからはグラウンドが隅々まで見渡せるので、野球部やサッカー部、陸上部あたりにあこがれの男子生徒がいる女生徒たちはよくそこからその姿を捜し、熱い視線を送っている姿が見られる。
この藤は高校の名と同じで葛城藤と呼ばれ代々の教職員や学生たちに愛されてきた。ところどころ赤くさびている棚の両端から立ち上がった太い藤の幹は不規則に捻じれながら空に向かって伸びている。グラウンドに向かって右側の幹は二本の藤の木が絡み合い、今ではもう一本の木のようになっている。三本の藤の木は棚の上でさらに枝同志を絡ませて、晩春から初夏にかけて花を咲かせ、夏から秋には茂った葉が作る木漏れ日の木陰を作り、冬は葉を落として棚の下のベンチはやわらかな陽が挿し込む。
凌と瑠奈はこの葛城藤の下で出会った。高二になったばかりの五月のはじめだった。世の中がゴールデンウイーク真っ最中の文化の日のサッカー部の練習の後、夕暮れの葛城藤の横で自転車置き場から出てくる潤と拓也を待っていた凌の目の前に藤の花の中から能面のような無表情の瑠奈が現れた。凌は一瞬息が止まるくらい驚いた。誰もいないと思っていたのに突然現れたからだが、その抜けるような白い肌に少し茶色い大きな瞳がとても印象的で髪には長く垂れ下がった藤の花が掛かかっていて、葛城藤から湧き出て来たかのように思えたからだ。瑠奈は凌に向かって口元だけほんのりと微笑むとゆっくりと校門の向こうに消えて行った。その一瞬の出会いに呆然と立ち尽くしていた凌の処に少し離れた自転車置き場から潤が小走りで近づいて、声を掛けた。
「どした?凌。あれ?あの子、神崎瑠奈じゃん。なんでこんな時間にここに?」
「潤、知っているのか?」
「知ってるも何も俺達と同じ二年生だよ。D組だったよな?拓也。」
「ああ、そうだ。D組だ。」
「え?拓也も知ってるのか?」
「逆に知らない凌の方がおかしいんじゃないか?大人っぽくて美人だから全学年の男子にはファンが多いって話だぜ。」
「同学年?俺は一年以上も彼女に気がつかなかったのか?」
「お、凌がそんなこと言うなんて、さては一目惚れか?」
「そんなんじゃ・・・。でも、大人っぽいのにはかなげで守ってあげたくなる気にさせる雰囲気を持っている。確かにファンは多そうだ。」
「お、凌の口からそんな言葉が出るなんて、初めてかもな。」
「大人っぽいのは当たり前。彼女は俺達より二つ年上のはずだよな?拓也。」
「ああ、そう聞いてる。病気で二年休学していたとかで、この四月から復学したって。」
「そうか、だから知らなかったのか。でも、なんだか、もっと以前にもこんな風に会ったような気がするけど・・・。」
「あ、それ、ナンパするときに男がよく使う手じゃん。凌、ホントに一目惚れしたんじゃないのか?」
「そんなわけないだろ。」
「それにしても、神崎さん、休みの日のこんな時間に学校で何してたんだろうか?」
「さあな。俺さあ、腹へって死にそうだ。早く駅前のピザ、食いに行こう。」
拓也の言葉で現実に引き戻された三人は神崎瑠奈の話題から離れた。
「拓也はあそこのピザ好きだな。よし、腹いっぱい食うぞ。」
凌は、もう一度藤棚を振り返った。咲き乱れる葛城藤の中から現れた瑠奈の強烈な印象があまりに鮮明だったからだ。ゴールデンウイーク中のサッカー部の練習の時も凌は葛城藤の脇を通るたびにまた瑠奈が現れるんじゃないかと足をとめてみたが、瑠奈が現れることはなかった。
連休が終わり、学校がいつもの賑わいを取り戻す中、校内の通路の掲示板には休み前に実施された英語と数学の試験結果と能力別のクラス分けが発表され、連休の開放感の余韻は一掃され学生たちは現実に引き戻された。
葛城高校は四階立ての校舎が二棟平行に並んでいる。二つの校舎は二階部分の連絡通路でつながっていて、校舎を真上から見ると横棒が少し上側に寄った不格好なアルファベットのHのような構造になっている。二つの校舎の間は植木や花壇が作られていて中庭のようになっている。二棟ある校舎の片方は職員室や実験室などがある管理棟で、教員は普段この棟にいる。もう一方は生徒のいる教室棟で、一階は昇降口と保健室などがあり、二階から上は教室で、最上階の四階から一年生、三階が二年生、二階が三年生となっており、学年が進むと階段を上がる階数が少なくなるようになっている。教員に用がある時や実験室での授業の時は二階の連絡通路を通って目的の処に行かなくてはならない。つまり、三年生は階段を上がり降りせず管理棟に行けるが、他の学年は二階のこの通路まで降りてこないと管理棟に行けないことになる。但し、連絡通路の下の一階部分は壁のない渡り廊下になっていて、多少の小雨程度なら濡れずに行き来できるようになっている。三階は二回の連絡通路の屋上部分を往来に使用できるようになっているが、屋外なので雨の日や寒い日の行き来は覚悟がいる。時々、二階まで降りるのが面倒くさい一、二年生が土砂降りの屋上通路を駆け抜けていく姿や傘をさして移動する姿が見られる。一番若い一年生は移動に労力が必要ということらしい。ということで、二階の連絡通路は教員も生徒も皆が往来する学校の銀座通りということになる。その連絡通路の長い廊下の壁に試験のたびに一年生から三年生までの各学年の成績上位者の氏名が貼りだされる。貼りだされる時期は採点が済み次第なので翌日の事もあれば一週間後の事もある。何の前触れもなく名前が書かれた巻物のような細長い模造紙が突然現れるのである。しかし、それはあっという間に各学年の隅々まで情報が届き、あっという間に通路は学生であふれかえる。学年のトップ二十名の氏名は実名で貼りだされるので、職員室へ続く通路は人だかりざわめくことになる。
凌が自分の席に着くと、すぐに潤がやって来て、見て来たばかりの結果を流暢に話はじめた。
「凌、お前は変わらず不動だな。数学の三位。英語の六位に天羽凌って芸名みたいな名前がしっかり書いてあった。俺達と一緒にサッカーやってるよな?なんでそんなに成績いいんだか。」
「潤、お前、なんで今日みたいな日は俺より早く来てるの?普段は遅刻ギリギリで生活指導の高木に追いかけられるのに。」
「だって、発表は気になるだろうが。」
「お前、上位二十人に入ったことあったけ?それに、高二になって理系文系別れたから発表も別だろ う?お前は文系、俺は理系だ。他人の分まで見て来たのか?」
「そりゃそうだ。俺の名前があるなんてことはまずあり得ないからな。サッカー部のエースの順位が気になるのは当然のことだ。」
「そうか、俺の順位を見てくれてるのか。それはありがたい。毎朝そう言うつもりがあれば遅刻しないんじゃないか?」
「まあ、そう言うなよ。凌が興味を持つこともあるんだぜ。神崎瑠奈だけど・・・。」
「え、潤、会ったのか?」
「おいおい、自分の成績の事よりリアクションが過敏だな。ああ、数学が五位、英語は三位だったぜ。彼女、頭いいんだな。」
「今年から数学は確かに理系文系で別々だが、英語は学年統一問題だから全学年で発表されているんだ。だから、英語はお前より上位ってことだ。去年の不動のトップファイブに割り込んできてお前は六位になったってことだ。」
「ふーん。二年休学のブランクを感じさせないな。」
そんな形で神崎瑠奈の話を聞いた凌はその日の放課後、サッカー部の練習中に葛城藤の下のベンチに瑠奈の姿を見つけると、自分の中から今まで感じたことがないくすぐったいような感情が沸き上がってくるのを感じた。その後も瑠奈は決まって放課後、葛城藤の下に座り本や参考書を広げながら視線はグラウンドを見つめていた。サッカーの練習の合間、凌が顔を上げると瑠奈と視線がぶつかるのを感じ、胸が弾んだ。それからはほぼ毎日のように葛城藤の下で瑠奈の姿があった。
「あのさ、神崎瑠奈、ここのところ毎日藤の木の処から俺達を見てるな。」
数日後の練習の後の部室で着替えながら潤が言い出した。
「おいおい、俺達って、グラウンドには野球部や陸上部や他の男子生徒もたくさんいるんだぞ。なんで俺達が見られてるって思うんだよ。潤は自意識過剰だな。でも、誰を見てるかわかんなくてもああやってギャラリーがいるっていいよな。」
拓也がはしゃいで答えた。
「だから、ここんとこ張り切ってんのか。二人とも。」
凌が冷ややかに言った
「そういう、凌だってそうじゃん。今日だってドヤ顔で派手なミドルシュート決めてたじゃないか。」
「まあな。」
日々、部室でそんな会話がなされ、神崎瑠奈の存在は凌の中で少しずつ大きくなっていた。
そんな日々が続いたある日、部活の後の葛城藤の処で凌は瑠奈の定期入れを拾った。直ぐに凌は駅に向かった。
「あ、おい凌どうしたんだー。」
背中越しに潤の声が聞こえたので、凌は振り向かずに、拾った定期入れを持った右手を差し上げ後ろ手に手を振った。
「練習の最後まで葛城藤の処にいたから、今ならまだ間に合うかもしれない。」
息を弾ませて駅に着くと、すぐに瑠奈の姿を見つけることができた。瑠奈は改札の手前で鞄の中を必死に引っ掻き回していた。凌は深呼吸をして息を調えると、速足で瑠奈に近づいて声をかけ、定期入れを差し出した。
「神崎さん、これ。」
瑠奈は探すのをやめて、凌の顔を見上げ、一瞬きょとんとした表情の後、にっこりと笑って定期券を受け取った。
「あ、ありがとう。また、届けてもらっちゃった。」
また?」
瑠奈は凌のその言葉には答えず、凌の弾んだ息と額の汗を見て聞いた。
「もしかして、走って来てくれたの?学校から?」
「だって、定期がないと困ると思ったから。いつもサッカー部で走ってる距離からしたら大したことないし・・・。」
「ごめんなさい。本当にありがとう。え?でも、さっき私の名前・・・。」
「知ってるよ。神崎瑠奈さん。定期に書いてあるし、ここ最近毎日のように放課後、葛城藤の下でグラウンドを見てる。グラウンドにいる誰を見ているのか仲間内で話題になってる。」
「え?そんな・・・。」
瑠奈は恥ずかしそうに目を伏せた。
そのしぐさに凌は心臓を摘ままれたようなにドキドキとし、走ってきた以上に心臓が早く拍を刻むのを感じた。
瑠奈はそのまま顔を上げることなく、凌に一礼すると小走りで改札を通り抜けてホームの階段を駆け上がって行ってしまった。凌は慌てて追いかけ、瑠奈が乗り込んだ車両に飛び乗るとすぐにドアが閉まった。
「どして?」
不思議そうに瑠奈が言うと、
「僕の家も同じ方向なんだ。神崎さんの降りる駅より五つ先だけどね。」
瑠奈は笑顔で凌を見上げた。
通勤の帰宅時間の車内は朝ほどではないが混雑していて、二人はドアと人に挟まれ、息遣いを感じるほど近い距離に向かい合わせに立った。凌は電車が揺れると肩や腕が触れ合う距離感が二人に恥ずかしさとときめきをもたらした。二人は電車に乗っている間、一言も話さなかった。いや、あまりにお互いが近すぎて話などできる雰囲気ではなかったと言う方が正しかった。瑠奈は降車駅に着くと凌に会釈をして降りるとホームで凌の方に振り返り手を振って見送った。凌もドアのガラスに顔を寄せて瑠奈の姿が見えなくなるまで見ていた。
その次の日から葛城藤の下でグラウンドを見つめる瑠奈の姿がなくなった。潤と拓也は定期券を届けた時に何かしたんじゃないかと冷やかしたが、凌はそれを笑い飛ばしはしたものの、内心とても気になっていた。校内の廊下や教室で姿を見かけるが、放課後の藤の木の下には現れない。瑠奈が葛城藤の下でグラウンドを見ていたのは、二週間足らずだったが、その姿や視線がなくなったことで、凌は物足りなさを感じていた。
数日後、初夏の嵐が吹き荒れた。梅雨前の雷雨と強風のため、学校は午後の授業を休校にして全校生徒を早急に帰宅する措置を取ったので全校生徒が一斉に下校した。最寄りの駅は悪天候による電車の遅延と葛城高校の生徒と帰路を急ぐ一般の乗降客でごったがえしていて、改札の外まで人であふれかえっていた。凌はその様子を見てうんざりし、混雑をやり過ごすために駅前の本屋に飛び込んだ。雑誌のコーナーを通り過ぎ、奥のコミックの書棚の処に向かうとその傍で編み物の本をペラペラとめくっている瑠奈を見つけた。凌は身体の芯が熱くなるのを感じた。本に夢中になっている瑠奈は凌に気づかない。凌は大きく三回深呼吸をすると、瑠奈に声を掛けた。
「神崎さん。」
本から目を放して振り向いた瑠奈は真ん丸な目で凌をみた。五秒ほどの沈黙の後、凌が口を開いた。
「駅も電車も人がいっぱいで・・・。電車は止まらないみたいだから、ちょっとすいてくるまでここにいようかと思って・・・。」
「神崎さんも?僕も同じことを考えてここに来たんだ。じゃあ、ここじゃなくて、向かいのドーナツ屋さんなんてどう?」
クスっと笑いながら瑠奈は頷いた。
二人は、ドーナツ屋に入って行った。同じようなことを考える人が多いのか、店内は混んでいて、同じ制服の学生もちらほらいたが知った顔はいなかった。二人はドーナツとドリンクを買うと、一番奥の隅の席に向かい合って座った。凌はここ数日、放課後に葛城藤の下に来ない理由を聞きたくてたまらなかったが、それ以上に偶然とはいえに瑠奈が目の前にいることが嬉しくて、なかなかかける言葉が浮かばなかった。すると、瑠奈が先に、
「この前は定期を届けてくれて本当にありがとう。助かったわ。」
「いや、そんなに何度もお礼を言われることじゃないよ。」
凌がそう言っても瑠奈は何か言いたげに少しもじもじとしているように見えたので凌が声を掛けようとすると、一瞬先に瑠奈がしゃべりだした。
「あの・・・定期を届けてもらったときに言っていたことだけど・・・。」
「え?」
「私が誰を見ているかって話題になってるって・・・。」
「ああそのこと?そう、あれから君が現れないから、僕が何かしたんじゃないかって冷やかされた。」
瑠奈の方から凌の聞きたいこと切り出してくれたことに驚いたが、それを見透かされまいと興味がないかのようにクールにふるまった。
「えー、そんな風に言われているの?練習の邪魔になったらいけないと思って葛城藤の下から見るのはを止めてここ数日は教室から見ていたわ。私が貴方を見ているって知られたくなかったから・・・。」
凌は瑠奈がグラウンドを見ていたと聞いてなぜかうれしかったので瑠奈の言葉ちゃんと最後まで聞いていなかった。
「え?神崎さん、今、なんて?」
瑠奈は恥ずかしそうにうつむいて、上目遣いで凌を見た。凌はその目が湛えている言葉を理解した。
「ほんとに?ほんとに僕なの?」
凌が声を弾ませて聞くと、瑠奈はうつむいたままそっと頷いた。凌はその瑠奈の仕草を見て、足の先から頭の先へ血が逆流しているかのようになにか熱いものがこみ上げてくるのを感じたが、うまく言葉に出来ずにとまどった。
「私は貴方の事をずっと前から知ってるし、ずっと好きだった。貴方とこんな風におしゃべりできるなんて夢みたいなの。」
「え?ずっとって?いつから?」
「ずっとはずっとよ。いつからでもいいじゃない。ああ、でも、言っちゃった。ごめんなさい。迷惑だよね?私、帰る。」
凌は生まれて初めて女の子に告白されて、どうすればいいか戸惑っている様子が瑠奈には凌が困っているように映ったのだろうその場にいることに耐えられなくなって、席を立って、土砂降りの街の中に飛び出した。凌はテーブルの下に置かれていた藤色の瑠奈の傘を掴むと、急いで瑠奈を追いかけた。店を出て、瑠奈の姿を捜すと、駅とは反対方向にかけていく瑠奈の後姿を見つけて凌は走って追いかけた。
「神崎さん、待って。」
何度目かの凌の声に瑠奈がやっと立ち止まったのは葛城高校の校門の前だった。
「ふう、やっと追いついた。サッカー部のフォワードの僕より早いんだね。ビショビショじゃん。身体に障るからとにかく雨に濡れないところに行こう。」
凌は瑠奈の腕を引っ張って中庭の昇降口に入ろうとしたが、すでに施錠されていたので仕方なく雨が避けられるひさしの下で、鞄の中からタオルを出すと、瑠奈の頭に被せて力いっぱい拭いた。瑠奈は黙って拭かれていたが、しばらくして、ゴシゴシと拭く凌の手を止めて、タオルの間から顔を覗かせると、少し上目遣いにまっすぐに凌を見つめた。凌は一瞬目を逸らしたが、すぐにまた瑠奈の目を見つめ返して言った。
「神崎さん、僕も君の事・・・。定期入れを届けた次の日から君が藤の木の下に来なくなって寂しかった。気になって気になって仕方なかった。ずっと僕の事好きでいてくれたのに気がつかなくてごめん。好きって言ってくれたのにすぐに応えられなくてごめん。」
瑠奈は、謝る凌の言葉にただ首を横に振った。急に激しさを増した嵐がひさしの奥まで雨を運んできた。二人は少しでも雨を避けるためにひさしの一番奥に肩を寄せて、無数の雨の矢がタイルにぶつかっては水しぶきとなって砕け、流れを作って行くさまを黙って見ていた。
その翌日からまた葛城藤の下に瑠奈が姿を見せるようになり、練習後は肩を並べて、駅まで歩いていく二人が見られるようになった。
「おい、いつの間にああなったんだ?拓也知ってるか?」
「知らん。凌の奴が神崎瑠奈と・・・。しかも、俺達に中で一番最初にカップルになるなんて・・・意外だったな。」
潤と拓也は顔を見合わせてため息をついた。
瑠奈は二年間の休学のことや病気になる前の事はあまり語らなかった。凌も病気の事は心配をしながらもなかなか聞くことは出来ずにいた。ただ、病気と闘病生活で瑠奈はすっかり引っ込み思案な性格になってしまったと言ったことがあった。一緒に入学した友人たちが卒業してしまっていたことも学校での瑠奈の居場所を狭くしていた。しかし、凌と付き合い始めると、少しずつ明るくなり、他の人にも心を開き、サッカー部が試合の時には凌だけでなく潤や拓也にもお弁当を作り、他のサッカー部員にも冷たいドリンクや砂糖漬けの檸檬を差し入れしたりするようになった。そんなことを続けているうちに葛城藤の青紫の花は梅雨の雨と初夏の風に散らされ、藤棚が緑の葉の木陰をつくる頃、瑠奈は部員たちに望まれて正式にサッカー部のマネージャーになった。
日射しは天空の真上から降り注ぐようになり、瑠奈は強い陽射しを避けて葛城藤の下のベンチに座ってサッカーボールを布で磨きながらフィールドの凌に視線を送っていた。凌も瑠奈も互いの存在を身近に感じ充実していた。
そんな毎日の中で瑠奈は、ある視線に気が付いた。それは、瑠奈のすぐ近くから注がれていた。そしてその視線の先にいるのが潤であることに気づくのは案外簡単だった。自分が凌に向けるのと同じ熱い好意に満ちている視線の主がクラスメイトの栗源優里だということにすぐ気づいた。ある日、練習後に葛城藤の前で凌達を待っていると急に雨が降り出した。瑠奈は鞄の中の折り畳み傘を取り出すと、葛城藤の幹の陰に隠れていた優里に近づき、声を掛けた。
「栗源さん一緒に帰らない?」
優里はびっくりしたが、にこやかな瑠奈の顔を見て、小さく頷いた。
瑠奈は持っていた傘を優里に渡すと、自分は凌の傘の下に駆け込んで、優里の方に向き直すと、
「私は凌と行くから、潤君、栗源さんをよろしくねー。」
と、潤に向かって大きな声で言った。
「え、神崎さん、困るわ。」
戸惑う優里の反応を見た潤が言った。
「え、栗源、オレとじゃいやか?やっぱ、お前も凌のファンなのか?」
「ち、違う。違うわ。天羽君には神崎さんがいるじゃない。私は貴方が・・・。」
言いかけて、優里は口を塞いだ。
「え?ちゃんと最後まで言えよ。」
優里が少し困った顔をしていると、
「潤君、女の子に全部言わせるの?」
瑠奈にそう言われると、潤はハッとして、顔を真っ赤にした。そして、改めて優里と向かい合った。優里は瑠奈から借りた傘を広げて潤にさしかけた。瑠奈の小さな折りたたみ傘は二人には小さく向かい合う二人の背中は傘からはみだしていた。しかし、小さなビーズのように制服についた滴は街灯の光をキラキラと反射して心が繋がった潤と優里を静かに祝福しているかのようだった。
優里はまもなく潤の誘いでマネージャーとなった。瑠奈のはからいで潤に想いを告げられた優里はすぐに瑠奈に心を開き仲良くマネージャー業にいそしんだ。優里と仲睦まじくなった瑠奈はクラスにも自然と溶け込んでいった。凌と瑠奈、潤と優里、そして拓也を含めた五人はいつも一緒に居るようになり、そんな高校生活の中で、瑠奈は病気で止まっていた空白の二年を取り戻すように精いっぱい生きていた。凌も楽しそうに過ごす瑠奈を愛おしく感じ、ずっとこの時間が続くといいと思った。
夏休みになると、すぐに夏の地区予選に向けての合宿が始まり、瑠奈と優里はサッカー部員と共に校内の宿舎で一緒に寝泊まりし、料理や洗濯に精を出した。瑠奈は朝から晩まで凌と同じ時間を過ごせることはもちろん、汗と土の匂いのユニフォームやタオルを洗濯したり、料理が得意な優里とともに作る朝昼晩の食事を作ったりすることに喜びを感じていた。誰かのお世話をするということがこんなに楽しくて充実感を得られることなのかと感じた。そして、
『私は今まで誰かに何かをしてもらうばっかりだった。それは病気だからと大事にしてくれた両親に甘えたってこと。でも違うんだね。何かしてあげたいと思えば、どんなことでもできるんだね。合宿が終わったら家でも料理をしよう。お母さんの味を教えてもらおう。』
瑠奈はそんな風に考えながら手際のいい優里とサッカー部員たちの旺盛な食欲を満たすご飯を作っていた。
「瑠奈の包丁使いは危なっかしくて見ていられないけど、味覚は確かね。包丁とかは使い慣れていないだけだから練習すればすぐ上手になるわ。洗濯は全自動洗濯機がやってくれるし、掃除もロボット掃除機の時代だけど、調理器具や調味料がどんなに良くなっても料理の味は育った環境で違うから、加減はその人の舌しだいだもの。そして何より食べてくれる人を想う心よ。家庭で美味しい料理が食べられるってとても幸せなことだもの。」
「優里にそう言われるとうれしい。優里はお料理上手だから。」
「ありがと。でも、市販の調味料に助けられてるだけ。あ、そうそう、さっきのは、うちのかあさんの受け売りなの。かあさんの口癖でね。インスタントラーメンでもひと手間加えて出てくるのよ。大した手間じゃないけどね。野菜炒めをのせるとか。」
「うんうん、わかるよ。優里の言ってること。毎日の事だけど、美味しいご飯はホッとさせてくれる。入院していた時は食べられなかったから舌で味わえることがすごく大事なことだってよく分かっているつもり。優里、お料理、教えてね。」
「いいよ。よかったら、今度うちに来てかあさんといっしょに作ろうよ。」
「ほんと?うん、行く行く。」
合宿が終わると三年生が高校最後の地区大会が始まった。凌達も先発のメンバーに選ばれ試合に出場し、葛城高校は順当に勝ち進んで行った。そして、決勝戦は延長戦となり、残り一分で凌が自らもゴールに飛び込んでシュートを決め、辛くも勝利して、秋に行われる県大会へとコマを進めることが出来た。そして、この夏の地区大会を最後に、三年生は引退、大学受験へとシフトする。例年地区大会の最終日はサッカー部の世代交代のセレモニーも同時に行われる日で、決勝戦に勝利してこのセレモニーを迎えることは三年生にも後を引き継ぐ二年生にも格別の事だった。そして、そのセレモニーで潤はサッカー部の主将に、凌は副主将に指名され、先輩達からの期待と伝統という名のバトンを受け取った。潤と凌はそのバトンの重みを改めて受け止め、不安を持て余す一方で、ほんの少しの開放感を感じていた。
「明日から三年生がいないなんて実感湧かないなあ。」
「去年は一年だったから、三年生がいなくなったら、うるさい先輩たちから解放されて、レギュラーに上がれるかもとか都合のいいことばかり考えてたけど、明日からあの一年達と俺達二年だけって思うと、なんだか不安だな。」
「先輩達って、偉大だなあ。」
「潤も拓也も、そういうことはいなくなる前にきちんと感じないといけないんじゃないか?」
「そうだけどさ・・・。なかなか一緒に居ると気がつかないよ。叱られてばっかだし。」
「確かにな。こういうことは順送りだ。来年の今頃、一年生たちが今の俺達と同じように思ってもらえるように出来たらそれでいいんじゃないか?」
凌の言葉に潤と拓也は大きく頷いた。その目には先輩達と戦って手に入れた県大会での初勝利を目標にしたチームリーダーの輝きが宿っていた。
「さあ、明日は、監督のはからいで休みだ。改めて、休みだと何やっていいかわからないな。なあ、潤。」
「拓也はそうかもしれないが、俺達はディズニーランドに行ってくる。優里と随分前に約束したのがやっと果たせる。」
「そう、やっと行けるの。楽しみ~。」
「え、いいなぁ。凌たちもデートか?」
「ええ、映画を観に行くわ。銀座の映画館に。」
凌の代わりに瑠奈が答えた。
「いいなあ、お相手がいると、じゃあ、俺は中学の時の仲間と遊びに行くか。」
「ようし、明日は一日、サッカーしないぞー。」
潤が叫んだ。
凌の頭の中で瑠奈との藤棚の下での出会いから昨日までの短い二人の歴史が途切れることなく再生されていた。そして、凌はブランコがきしむ音で我に返った。空は都会の稜線に朱色の瘢痕を残しつつ夜空との無段階のグラデーションを彩り、スカイツリーその姿を濃紺のシルエットとなりそびえ立っていた。ライトアップされる前のほんの一瞬の姿だ。凌は携帯電話を取り出し電話帳を画面に出して手を止めた。画面の隅の時刻は十八時半、潤も優里も拓也も楽しんでいる真っ最中だろう。多分、掛けても気が付かないだろうし、邪魔をする気もない。ただ、何となく自分の不安を払拭したいためだけの電話は無粋だと思い、携帯電話をしまうと、ゆっくりと歩きだし、駅に向かった。瑠奈への募る好意と病魔の不安が交錯し凌は初めて自分以外の人に対する感情が溢れ、どうしていいかわからなくなっていた。凌は瑠奈が月に一度の通院を続けていることは聞いていたが、それ以上の事は詳しく知らなかったが、あえて聞くこともしなかった。普段の元気な瑠奈の姿に楽観的に考えていたが、二年も休学していた病気が何だったのか急に気になってたまらなくなった。
その時、凌の携帯が鳴った。瑠奈からのメールだった。
『凌君、今日はごめんなさい。映画、面白かったね。買い物が出来なくて残念。また、行こうね。明日はサッカー部に顔だせないかもしれないけど、頑張ってね。副キャプテンさん。』
メールのそこここに絵文字がちりばめられたいつもの瑠奈のメールだ。凌は顔の表情を緩めながら、すぐに返信をした。
「サッカー部の事は気にしなくていいよ。今日は本当に楽しかったよ。また行こう。今度は買い物もね。明日、病院が済んだらちゃんと結果を教えてくれ。絶対だぞ。」
すぐに瑠奈から返事が来た。
『うん。』
と。
凌は持て余していた不安がほんの少しだが軽くなった気がした。家に帰って、明日の準備をしていると、潤、優里、拓也から次々とメールが届いた。潤と優里はそれぞれにアトラクションを楽しむ姿とライトアップされた園内で撮ったツーショット写真が添付されていた。拓也はゲームセンターで出した最高点の写真と瑠奈が好きなキャラクターのぬいぐるみをゲットしたことを知らせてくれた。凌はそれぞれに返信をしながら、自分たちが健康であることのありがたみを実感し、病気を常に身近に感じてきた瑠奈が日々、どんなに不安な思いでいたのかを気づかずにいた自分を反省した。