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ラグリマス・ネグラス

作者: 小島克

 岡本さんはいつもいつの間にか居る。確かにとうに迎え入れているのに、ふと、あ、岡本さんが居ると思う。


「社会人になって初めての出張が京都だったんです」と岡本さんが口を開いた。

「仕事がかたづいて、といってもただ上司について廻っていただけなんですけど、やっと一人になったのが夜中の十二時で、ホテルの部屋に戻ったものの寝つかれませんでね、また外に出たんです」

クオーターデッキを口にして、そのグラスに目を落とすでもなく僕の目を見るでもない。バックバーに並ぶウィスキーを眺めているようではあるが、その何を見ているのか。瓶の向こうに何かを見つけているようにも見える。けれど何もその目には映っていないような気がする。

「京都の女性というのがね、みんな死んでいるような気がしてならなかった。それが怖くてね」

グラスの脚に指を触れて、岡本さんは続ける。

「幾つかの営業所を回りましてね。僕も若いわけだしついつい女性社員の方に目がいっちゃう。でも、何か違和感を覚えるんです。それがなんなのかそんなこと口にすることでもないし、小骨が刺さったような気分のまま上司と飲んで、部屋に戻ったんです。で、寝つかれなくて外に出ましてね」

二口目を口にする。表情を崩さない岡本さんの目に何が見えているのか僕にはわからない。

「ぽっかり穴が空いているみたいにね、目が黒いんです」と岡本さんは言った。

「当たり前ですけど、黒い目がね、生気が無いというのではないんです。何か底無しの深い暗い穴のようでね」

岡本さんは話し続ける。ぬるい風が吹いていて、家々の隙間を縫うように細い路地を歩く。旧い武家屋敷が並ぶ一帯で、ひどく暗く人通りも無い。路地を抜けたところに一軒の小料理屋があり、入ると女将が一人疲れた風情でカウンターに座っていて、

「テレビを見ていたんです」

「熱燗と漬け物を注文して、女将と少し話をして、それで僕もまた少し酔いかけてきたところで、その、目のことを話してみたんです。そしたらね、何を言ってるんだって顔で一瞥をくれただけでした」


京女だけじゃないんだ。お前だって本当はもう死んでいるんだよ。


「だから結局のところ僕の勝手な妄想でね、京女のイメージをそんなくだらない怪異譚に創りあげるなということで、ですからそんなことはまだ若い時分でしたからすぐに忘れてしまっていたんです」

そして三口目で、グラスを空にした。

「六十を過ぎて俳句を始めてから、もう随分経ちましたけど、ふとそれを思い出しました。その真黒い底無しの穴のような目を詠んでみようとも思いましたけど」

あ、お水をいただけますか。

「その句はあるんですか」水を注ぎながら僕は尋ねた。

「それが、無いですね。どうも、俳句にはならない」

お勘定をお願いします。と岡本さんは言った。

「高橋さんは京都に行かれたことは」

「いえ。僕はまだ一度も」

岡本さんが釣銭を受け取る。

「そうですか」と釣銭を財布に仕舞いながら岡本さんは言う。

「静寂がね、とても深いんです」

岡本さんがその時その日初めて僕の目を見ていた。

「奥さんがね、あ、いや、僕の妻ですけど」と言って、何か言葉をつなげたがそれがゴノゴノとして聞き取ることができない。聞き返そうとした僕の小さな「え」という声は、それじゃあ、と言う岡本さんの言葉にペンとはたきおとされたように消えてしまった。

駅へ向かう岡本さんの後ろ姿を表で見送った。ほんの僅かに千鳥足で背が小さく揺れている。足もとに何かごみ袋のようなものがかさかさと張り付いたように蠢いて、通りの角を曲がる直前で影とも闇ともつかぬように岡本さんの後ろ姿と一緒に夜に紛れていった。


店内に戻ると、カンカンとお湯の湧く小さな音がしている。なんとはなしにレコード棚から抜き出したのは、もう何年も聴いていないレコードで、それをターンテーブルにのせ、岡本さんの飲んだ後のグラスを洗った。

岡本さんのいる間レコードを掛けた形跡がなかった。それを気にすることも忘れていたのだった。

岡本さんの話したことを思い出そうとしたらよく思い出せない。黒い目の女性は誰だったのか。黒い目が、それでどうしたのだったか。うまく思い出せない。

まるで、そもそも岡本さんが居なかったのではないかとさえ思えてくる。


たとえあなたが私を捨てようと

たとえ私の夢が死んだとしても

あなたの心変わりに悩み

あなたが去り、心傷んでも

あなたに気づかれぬように泣こう

私の人生のような

黒い涙を流しながら


ソンが聴こえる。僕は酔っているのか。唄に合わせてラムを飲んだ。ラグリマス・ネグラスという古い唄だ。


一週間後、岡本さんがいつの間にか居る。古いキューバのレコードを掛けた。

「あゝ、懐かしいな」と岡本さんが言った。

「トリオ・マタモロスですね。ラグリマス・ネグラス。黒い涙だ」

「ご存知ですか」

「大学時代にね、結構流行りましたね。ルンバにマンボ、チャチャチャと、ここでいま聴けるとは思いませんでした」

それから、岡本さんはレコードに耳を傾け、グラスに口をつける時以外はじっと目を閉じていた。A面が終わって、レコードをジャケットに仕舞い棚に戻した時、すいません、と岡本さんが言った。

「すいません。黒い涙、もう一度聴かせていただけませんか」

岡本さんは先ほどと同じようにまた目を閉じ、聴き終えると、ありがとうございますと言った。

「妻が音楽はほとんど聴かなかったものですから、それで家にはプレイヤーも無かった。結婚前に、僕はこの EP を贈ったことがあったのですけど、嫁入り道具にそれは入ってませんでしたね」

岡本さんは小さく笑みを浮かべた。

「一昨年妻が死んで、京都の実家に弟さんがまだ住まわれていましたから、改めてご挨拶に伺いましたらね、その僕の贈った EP が出てきたんです。弟さんの娘さんが女子学生の頃に見つけだして、よく聴いていたんだそうです」

「贈った甲斐があったんですね」と僕は言った。

「でもね、その娘さんは二十幾つだったか、病気で亡くなられて」と岡本さんは言って、喉を鳴らした。

「妻とよく似てました。目鼻立ちなんか、写真で見ますとね、よく似ている」

もっとも、と岡本さんは言う。

「もっとも、あの目は僕はいまでも怖いんですけどね」


「来週、京都へ行ってきます。妻の墓が嵯峨野にありましてね、僕は、一緒に入れてもらおうかどうしようかと迷っているんですけどね」と言いながら、岡本さんは店のドアを開けた。

ほんの少し肩を揺らしながら、ほんの少し千鳥足で、夜の角を曲がって岡本さんの姿が消えた。

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