佐助
春霞が、ゆらゆらゆらと立ちのぼる。お天道さまには輪がかかり、ところどころに浮かぶ雲は空に滲んでおる。
はるか海上に点在する島々は、目を凝らさんとよう見えん。
上下に揺れる船先は飛沫をひき散らし、船べりは波をかぶって、じっとり濡れる。波は泡立ち、時折飛び跳ねる魚は、その姿を潤ませながら波間に呑まれていく。
なまじ見えるからいかんのじゃ。むしろ、よう見えんと苛つくくらいのほうがええが、このくすんだ景色を見せられると気もそぞろになる。
お、お、船べりに黒々とした塊が……何じゃ、蠅、蠅じゃ、蠅が一匹止まっておる。
筋立ったきらびやかな羽根は、黒光りする背を透かして目にも鮮やかじゃが、はばたく気配すら見せん。飛沫も浴びず、波にも浚われず、見るほどにそのまま居座るようじゃ。
そういや、こやつも同じような恰好をしておるぞ。
この男、浜を出てからというもの、船の隅であぐらをかいて波を見たきりじゃ。その姿こそ黒々としておるが、まるで墨を垂らした上に水をぶちまいたように滲んでおる。
なるほど、この男の素性は謎だらけじゃ。
「竹村武蔵」、「平田武蔵」、「新免武蔵」、「藤原武蔵」、「武蔵政名」、「武蔵玄信」。噂される氏名を数え上げればきりがない。分かっておるのは「武蔵」という呼称だけが、どの氏名にも共通しておるということと、その出自が美作国は「宮本村」ということくらいじゃ。
では、どこを拠点にしておるか、そもそも拠点などあるのかといえば、これまた霧に包まれておる。
じゃが、こやつほど世に知られておる男もおらん。吉岡一門、柳生の守、宝蔵院、名だたる剣豪をその手に下し、こたびは藩主細川忠利様のお目にかかり、藩師範代は佐々木小次郎と決闘をするという。
高札には作州浪人「宮本武蔵」の名が高々と揚げられておった。
「佐助殿、世話かけるの」
「いえ、とんでもごぜえやせん。旦那様からは、くれぐれも邪魔だてせぬようにと言われておりやす」
かく言うわしは、この男を決闘場まで連れていくという好機に浴した。ひょっとしたら、わしだけがこやつの素性を知れるかもしれんと胸も躍った。じゃが、いざ船を出してみれば、この霞のせいで、その仕草こそ朧気に動いておるが風袋は掴みどころもなく、表情も曖昧、その顔はまるで「へのへのもへじ」のようじゃ。
「そうか、そうか、小林殿には、これまで世話になった。昨夜も夕餉を馳走になっての、今朝は早うから身支度してくださったうえに、浜まで見送りに来てくださった。実によいお人柄じゃ。それにしても、佐助殿は船を漕ぐのが上手いの。船はええ具合に進みよる。したが、いく先は船島かいな。わははははは」
屈託のない笑い声だけが耳につく。
「ところで佐助殿、すまんがこの櫂をもろうてもええかの」
「へ、へい。いったい何にお使いに?」
「わははは、佐助殿は、どうしてそんなに気難しそうな顔をしなさる」
「へ? わしの顔が見えまするか?」
「もちろんじゃ。浮かない顔をしておるぞ。なんぞお悩みか?」と言って、櫂を掴んで弱々しい陽にかざした。
「とんでもごぜえやせん。わしゃ、船島まで無事にお連れしようと勇んでおりやす」
ほうかと相槌を打つと、おもむろに懐から小刀を取り出すなり、櫂の先に刃先を突き立て、ぐいと削り取った。そのまま切り口を削り始めるや、しなやかな手の動きにしたがって、すうっ、すうっと角が取れていく。
木切れが、まるで花弁のようにこぼれ落ちた。
なんと、淡くて優しげな仕草じゃ。櫂を削るわけも分からん、霞みの中でわしの表情を見抜くわけも皆目分からんが、こやつ、やはりただ者ではなさそうじゃ。
「ところで佐助殿、あの島は何と言う?」
彦島がうっすらと、その姿を霞ませている。
「彦島言います。わしら内では、なりばかりでかくて凡庸としておるゆえ『独活の大山』なんぞ呼ばれておりやす」
「ははは、『独活の大山』か。それはひどいの」
「へい。ちなみに船島は『独活山』の向こうにごぜえやす。船島の後方には小さな林があり、前方の浜には大きな石が二つ、三つ転がっているだけですが、晴れた日には砂が泡立つように輝いてそりゃ奇麗ですわ。彦島とは対照的に簡素で無駄がない。決闘にはお誂えですの」
「ほう、そうかえ。佐助殿は話が上手いの。はよう見てみたくなったぞ」
親しげに話しかけてくるの。わしが言うのもなんじゃが、和気あいあいとしておる。
ならば、何ぞ氏名を呼びかけてみるか。そうじゃ、彦島から船島への進入路をねたにしてみるのがええ。
「ところで船島にはどのように近づいたらよいですかの?」
船島は彦島の後方少し左寄りにあるから、彦島を左に迂回すればすぐに顔を出す。右回りに船島の後方から入るより、このまま左に真っ直ぐ進んで正面の浜に乗り上げるのが最短じゃ。
「うむ、佐助殿にお任せじゃ」
「それでは、約束の刻限も過ぎようとしておるようですし、藤原様、このまま彦島を左に進むのが、よろしうごぜえやす」
「ふむ……」
相槌打ったぞ。意外にあっさりと応じたの。そうか、そうか「藤原」ちゅうのか。ならば「藤原」は「氏」になろうか。それとも「名」じゃろうか。
よし、このまま鎌かけて……
「そんなら佐助殿、右回りでよいぞ。ゆるりと右に大きう回っておくれ」
待て、待て。わしの提案が退けられたぞ。いや、それ自体はええんじゃ。それよりも会話が躓く方がまずい。ちょっとしたことで話がもつれて、そこからほころびが生じ、あらぬ疑いが大きくなることもある。
「へ、へい。かしこまりました」
わしは、ごく自然にもっともなことを提案し、さりげなく呼びかけもした。怪しまれてはおらんはずじゃ。しばらく様子をみよう。
「ところで、佐助殿には、近しい方はおるのか」
「へ、へい、妻と子がおりやす」
「ほうか、子は男子か、女子か」
「女子で十になりやす」
「名は何と言う」
「ちえでごぜえやす」
「ほう、かわいらしい名じゃの、ちえ、おちえ殿か。おちえ、ちえ、ちえ、ちえのう……」
ちえの名を、幾度も呟く。
「佐助殿は立派じゃの。わしとさして歳も違わぬのに、所帯をもっておられる」
そうか、年は変わらんか。二十五、六といったところじゃな。
「いえ、わしなんぞ、家族の世話で精一杯でごぜえやす……あ、いや、いや、今は島までお連れすることに専念しておりやす」
「ええんじゃ、ええんじゃ、こんな血なまぐさい試合の先導に駆り出されて、さぞ迷惑じゃろう。じゃが安心せい。この『武蔵』、身命を賭して佐助殿をお守りしようぞ。それこそ大船に乗ったつもりでおられよ。わははははは」
こやつ、みずから「武蔵」と名乗りおったぞ。やはり、世に知られた名じゃったか。とすれば「藤原武蔵」か。いや「武蔵」が氏ならば「武蔵藤原」じゃ。
櫂を持つ手が震えてくる。意識するほど、震えがとまらん。
「ほう、間近でみると彦島はほんに『独活』じゃのう」
彦島が、こちらを振り返るように体を回しながら迫ってくる。
はて、どうしたことじゃ。おおよそ、いつもの「独活」とは思えぬほどの威容じゃないか。まるで振り返りざまに、わしをにらみつけてきそうな迫力じゃ。独活のくせにわしの企みを戒めようとするのか……
わしだって悩みを抱える中で、旦那様の言いつけを守って先導しておるんじゃ。素性を探るくらいなんぼのもんじゃ。ああ、鬱陶しいの。ここは、早う迂回してしまおう。
潮が満ちてきて、波は、どよりどよりとうねりおる。その臭いはむせ返るほどじゃ。櫂を差し込むだけで船はいいように波を蹴る。
「佐助殿、ちと早くはないか。ゆるりと回ってええぞ」
「へ、へい、ですが卯の刻はとうに過ぎておりやす。急ぎませぬと」
「ええんじゃ、ええんじゃ。そんなことは気にせんでええ」
なぜ武蔵はこんなに悠揚としておる。そういや、さっきも船島への進入路を提案したら、右に回れと即断したの……
まてよ、彦島を左から回れば島の正面の浜に出る。そこでは小次郎はもとより、忠利様はじめご家老衆、藩士の皆々様が陣を張っておるはずじゃ。もしも、右から大きく島の後方に回り込めば、小さな林に紛れ込める。小次郎の背後を衝けるじゃないか。こやつ地の利をわきまえておって、一度はわしに進路を任せると言っておいて否定したのか。
もしや限りなく本物に近い、練達した偽者なのかもしれん。
「晴れてきたの。ほんに穏やかでええ所じゃ」
彦島が陽光を背に立ちはだかる。霞が、まるで煙が風に流されるように右へ右へとたなびいていく。
「佐助殿の生まれは、この赤間が関かえ?」
「へい、この地で生まれ育ちました」
「じゃから、朗らかなお人柄なんじゃの。わしゃの、宮本村っちゅう所で育ったんじゃが、いろいろあってのう、早くに村を出てしもうた。修行に明け暮れて旅するばかりで、一度も戻っとらん」
今、宮本村と言うたな。氏を地元から取るなら、やはり「宮本」じゃ、さすれば名は「武蔵」。あるいは、先に相槌うった「藤原」になろう。じゃが早々に村を捨てたとも言うた。ならば「宮本」は名乗らんじゃろうから、「藤原」か「武蔵」が氏になる。先の通り「藤原武蔵」か「武蔵藤原」か。
それにしても、べらべらと、よう喋る。よし、鎌かけて「藤原」を氏として突っついてみるか。もし違っていても、宮本村出身であることに触れぬように気遣ったと言えばええ。
「それでは、藤……」
「そいや、佐助殿、さっき言うとった藤原ちゅうのは誰のことじゃ」
へ?
「佐助殿の馴染みの方かえ?」
「い、いえ、いえ、そ、そりゃあ、あ、あれに見えまする彦島では、春には藤、藤(、)の花が原(、)っぱ一面に咲き乱れるんです」
「ほうか、藤の花じゃったか。じゃが、よう見えんの」
「そ、そんに手を翳さんでも。藤の原は、島の左手にごぜえやすので、もう見られませぬ。試合が終わって引き返してくる時に、ゆるりとご覧になられるがよろしいかと」
「そりゃええの、わはははは」
いくら何でも怪しまれたにちがいない。じゃが、なぜ今になって、「藤原」のことを問い質したんじゃ? もしや、こやつ、わしのことをからかっておるのか。じゃが、大事な試合を前に、一介の船頭をもてあそんでどうする。それとも、試合を前に、憂さでも晴らそうとしておるのか。いや、やはり素性を知られることを恐れるようなわけがあって、煙に巻こうとしておるのかもしれん。
こやつ、巧みに話をはぐらかし、企みを巡らす策士か。
こうなりゃ、正体を暴くだけじゃ気が済まん。どうにかして、その真意をも身ぐるみ剥ぐように暴いてやろうぞ。
「佐助殿、そろそろ舵を切ってもよかろう」
「へ、へい」
「どうなされた。何やら、もの思いに沈んでおるようじゃが。そうか、やはり、ちえ殿のことが気がかりか?」
また口にした。なに故、ちえ、ちえ、ちえと繰り返す。曲がりなりにも天下を騒がせる剣豪が、あろうことか決闘を前に見ず知らずの家族を案じるというのもおかしな話じゃ。
もしや名前そのものを気にしておるんじゃないか。そうじゃ、なにも「ちえ」じゃなくてもええんじゃ。おのれがいろいろな名で呼ばれていることを不快に思うておるのかもしれん。それとも名が定まらず、おのれの何たるかも分からんようになっているからかもしれん。『名は、体を表す』という。世に知られぬおのれと、その一方でいろいろ取りざたされるおのれとの間で、自らの存在が不確かなことに恐れをなしておるんじゃないか。
それに、こやつ村を早々に出て、近しい者とも縁を切ったと言うておった。天涯孤独で、しのぎを削って戦いに明け暮れ、生死の淵を歩いてきたんじゃ。
じゃから何かに心のよりどころを求めるのかも知れん。名さえ知れれば、たとえ十歳の幼子であろうが、いや、むしろ幼いほどに情も膨れあがるのかもしれん。
だから「名」にこだわるんか。ちえ、ちえ、ちえと繰り返し発した名が耳朶に響けば、心は落ち着き、やがては気分も高ぶって情も欲も湧いてくる。それが抑えられなくなれば……ひょっとして、こやつ、ちえに邪な情欲を寄せておるんじゃないのか? ちえの容貌を夢想していって、いたたまれなくなって、やがては我が家をも突き止めて、ついにはちえを手籠めに……
武蔵は、櫂を握ったまま、こっちを見ておる。口もとには笑みが浮かんでおる。
いかん、こやつを船島に送り届けたら、すぐさま引き返そう。ちえを、なんとしても、この手で守らにゃならん。
「というのはの、佐助殿、わしはの、こたびの試合が終わったら、お子を迎えることになっとるんじゃ。その子とはまだ会ったこともなく、どんな顔をしておるのかも知らん。ただ、男子で、九つ。名を「伊織」ということだけは聞いておる」
へ? そうなのか。それで、ちえの名を幾度も口走るのか。ちえと、まだ見ぬ子どもとを重ねあわせて、わしがいなくなればちえが不幸になると気にもんでおったんか……それをわしは、つまらぬ邪推をして、挙句の果てには、ちえに邪な執着をしているとまで疑った。
勘違いしておった……こやつは、警戒心など欠片もなく、気を許しておるだけなんじゃ。根っからのお喋り好きで、誰にも奔放に話しかける。わが身のことよりも人を案じる気さくな性分で、わしの家族までも気遣うてくれた。
きっと地位や名声なんぞどうでもよく、いらぬことすべてを拭い去って、ひたすら剣の道を究めることだけを念じておるんじゃ。
じゃが世間は、氏名や正体をいいようにあげつらって騒ぎおる。それが無類の強さと謎めいた出自によるというのなら、世はなんと浅はかで身勝手じゃ。下世話な野次馬根性で騒ぎたてて、謙虚で真面目な剣士の内情をかき乱しておることを、これっぽちも斟酌しない。
かくいうわしも、その世俗の片棒を担いでおったんじゃが……
当人にすれば迷惑千万、煩わしいだけじゃろう。いや、むしろこれだけ落ち着き払って、赤の他人の身の上を案ずるんじゃ、世の下馬評なぞ虫けらほどにも思ってはおらぬかもしれん。
「おお、佐助殿、佐助殿、見てみい。蠅じゃ、こんなところに蠅が飛んでおるぞ」
武蔵様の頭の周りをふらふらと漂うておる。船足が早うなったんで、いたたまれなくなって飛んだんじゃろう。
はて、蠅は先とはうって変わって、くすんでおるぞ。空が澄み切っておるからか、なおさら不鮮明に映る。
影の薄くなったその塊は、吸い寄せられるように武蔵様が手にする櫂の先に飛んでいく。
その櫂は、ゆるやかな円を描くように先端が削り取られて、まるで天に向かって鮮やかにそそり立つようじゃ。
島の頂には晴れ間がのぞき始めた。
見れば、武蔵様もその姿を彫り物のように浮かび上がらせている。浜を出た時と何ら変わらん。着物は所々ほつれておって、端々も擦り切れておる。髪はきつく結い上げてあるが、鬢ははねて造作もない。顔は赤らんで、無精ひげがなんとも貧相じゃが、どこか芯のようなものが一筋通っておる。
どうしたわけじゃろう。まるで世界がひっくり返ったようじゃ。
もしや、お天道様が、わしの悪事をいさめておるのやも知れん。わしゃ、人としてやってはならんことをしておったんじゃ。はなっから、このお方を疑ってかかり、正体を暴こうと企み、気勢を削いでしまった。 旦那様の言いつけに背いて、取り返しがつかないことをしてしまったんじゃ。
「あの、すんません、わしゃ武蔵様に謝らにゃなりません」
「どうなされた。佐助殿」
大きな眼をいっそう見開いた。
「決闘を前に、こんなことを申してよいのか分かりませぬが。わしゃ、武蔵様にお会いしてから、いえ、舟島への先導を任されてから、我勝手な小ずるいことを考えておりやした。武蔵様は、世間では様々な氏名で呼ばれ、その出生も所在もいろいろに騒がれておりやす。よく似た風貌の男が諸国を歩き試合をしているという話もありやすし、刀商人が大勢のつわものを雇い、決闘の場で『武蔵』を名乗らせて剣を振らせるという話も聞きました。何人もの『武蔵』が、寄って集って勝者をなぶり殺しにしたとも。あ、すみませぬ。それも武蔵様が負け知らずで、あまりにお強いゆえ。心ない輩が興味本位で勝手なことを囁いておるんです」
口を真一文字に結んで聞き入っている。
「実は、わしも、その心無い野次馬のひとりでした。船頭の話があってからわしだけがその素性を知れるのではと気が高ぶって、いざ船に乗り込むや本性を暴こうと企みました。じゃが武蔵様は、わしの下卑た心なぞどこ吹く風、何の屈託もなく身の上話をして、わしら家族にまで気を遣うてくださった。わずかな時間でしたが、武蔵様の人柄が痛いほど心に沁みました。と同時に、わしの賤しい、愚かな根性がほとほと情けなくなりました。大事な勝負を前に、こんなことを申して誠に相すみませぬ。じゃが、今ここで言っておかにゃ、わしゃ一生後悔することになりそうで話しました次第でごぜえやす。このとおり、まことに、あいすみませぬ」
武蔵様の口元から笑みがこぼれた。
「佐助殿、しょぼくれた声で何を言うかと思えば詫び言かえ。わはははは」
大笑いしたかと思うと、すっと立ち上がった。
「はて、佐助殿が、まるで霞に包まれたかのようにくすんでおるぞ」
いぶかしんで櫂を放り投げるや、にじり寄ってわしの手を強く握りしめるではないか。
「危のうごぜえやす。そのように手を掴まれますと、漕げませぬ」
「ええんじゃ、ええんじゃ。佐助殿の言うことは本当じゃ。むろん、わしの正体を暴こうとしたこと自体は謝るべきなんじゃろうが、佐助殿の企みとわしの素性は別もんじゃ。むしろ、佐助殿が虎視眈々と、わしの正体を探っておったのを、わしゃ小気味よく思うておるくらいじゃ」
武蔵の熱い息が吹きかかる。
「先も言うたがの、わしは各地を転々としてきた。旅の先々で会うた人々は、そりゃ、みなええ人柄じゃった。一夜の宿を頼めば、泊めてくれだけでなく、真心こめて給仕もしてくれた。試合の日になれば、朝も早うから身支度を整えて、心の底から勝利を祈ってくれる。感謝してもしつくせぬくらいじゃ。
じゃがの、その誰もが皆一様に、目を光らせるんじゃ。
夜半に戸を叩くと、扉を開けしなに不審な目を向けてくるが、世を賑わす剣士じゃと分かった途端、見開かれた目がすっと座る。
「へへへえ、さぞお疲れでございやしょう。どこから来なすった」
あのばあさんのつぶらな眼には、確かに好奇と猜疑の光が宿っておった。
「ところで、正宗さまは……」
どこで聞き及んだか知れぬ名を、鎌かけてささやく姑息な男もおった。
わしの顔色を盗み見ながら着物をたたむ女子の白い手には、その魂胆がありありと浮かんだ……
じゃがの、わしゃ、それらの下心に触れると、心がうづいてどうにもならんのじゃ。それじゃいかんと戒めてみても、どうにもとまらんのじゃ」
「どうして武蔵様が、心を戒めにゃならんのですか。そんな姑息な企みを、武蔵様が嘲笑うのは当然のことでごぜえやす」
「いやいや、世の人々の野心はそれでええんじゃ。それよか、その純な民心にわしが揺り動かされておるのがいかんのじゃ。わしゃ、上っ面に潜んだ性根につい惹かれてしまう。あけすけな生々しい下心が根っから好きなんじゃよ。それは、侮蔑やあざけりなどではない。むしろ愛着に近い同情ともいえるものかもしれぬの」
「武蔵様は、つまらぬ詮索をされて不快には思わんのですか? 名も出生も、経歴も認知されぬままでええんですか。おのれの存在を世に知らしめて、誉め称えられたいとは思いませぬか」
「ははは、佐助殿、名前がなんぼのもんじゃい。出生がどうした? そんなことはどっちでもええこっちゃ。わしゃの、ただ剣の道を究めることを心根に据えておる。それだけじゃ。そのためには、ひたすら剣を振る。あらゆる事象の動きを見極めながら、いかにおのれの無駄な動きをなくすかを探るんじゃ。そのためには肉体を鍛錬し、呼吸を整え、気を張りつめた姿勢を常態とする。そして勝つこと。いかなる相手にも、一分たりとも動揺せずに、しかも負けぬように勝つことを目指す。ええか、隙をなくして、負けぬように勝つんじゃぞ。勝つように負けるとは、ちと違う。そんな戦いに明け暮れておったら、人からどう思われようが、何を言われようが、そんなことは、どうでもええこっちゃ」
口元に浮かんだ笑みには陽が射しておる。
彦島の崖に激しく波が打ち寄せる。
やはり本物か……
「すみませぬ。わしは、武蔵様の心中も知らずに失礼なことを申し上げました。ただ、失礼ついでに武蔵様と見込んで一つだけ言わせてくだせえ」
「なんじゃ、ちえ殿のことか」
「へい、その通りでごぜえやす。娘のことを引き合いに出してはいけませぬが、わしゃ、父親としてどうしてええのか分からんようになっておったんです」
武蔵の手に熱がこもる。
「一月も前のことでごぜえやす。ちえが海を見たいと言い出したので、朝も早うから海を見せに連れて行きました。
『お、おおおお、海は広くて大きいの』ちえは、寒さなどどこ吹く風、うれしそうに叫んでおりやした。そして、『お父は、この後、海に出るんか』とつまらなそうな目で見上げてくるので、そうじゃ、いつものことじゃろうと言いながら、慰めてやろうと海にまつわる話をしてやりました。海からはいろんなもんが生まれ、やがては亡くなり、また海に帰っていく。海は、生きとし生けるものの生と死とを呑みこむところじゃと話したんです。
そしたら、ちえは、お父もいつかこの海に帰っていくんかとつぶやきました。悲しそうな、それでいてどこか恨みがましそうな眼で言うんです。わしは答えに窮して、すぐに帰ってこようぞと取りなしました。
じゃが、それからというもの、妙にちえの一言が気になって仕方がないのです。わしは海に帰るだけの存在なのだろうか。わしの生きる道はそれだけなのか。
むろん、嫁と連れ立って、ちえを養うことには意味はありましょう。いずれ、ちえも夫と連れ添い、子が生まれ、わしの血が受け継がれれば、本望なのかもしれません。じゃが、それが人間の連綿と続く血脈で、そのひと欠片の血の塊がわしの人生というのなら、あまりにむなしくはありませぬか。
わしゃ、何のために生きておるのじゃろう。得意げに話した慰めにもならぬ話に反応した我が子の一言に、わしが気落ちしてしもうたんです。生きる意味も見いだせず、かといって命を絶つこともできはしませぬ。
そんな矢先に、船島までの案内をおおせつかりました。すると妙に心が躍って、落ち着かなくなりやした。武蔵は本当におるのか、いるのなら、いかなる人物なのか、一度心をよぎったら無性に気になってしかたがないんです。わしだけが真相を知れるやもしれん。ならば、いっそ正体の暴露を契機に、人生を霞ませる悩みを吹っ切ってしまおうと、邪な企みが、ゆらゆらと心に湧いたんです」
武蔵は手をほどくと、
「佐助殿はほんにお話が上手じゃの。想いのほどを的確に述べられる」としみじみと言った。
そして、ぼそりと呟いた。
「佐助殿の悩みはよう分かった。ところで、佐助殿がさっきから呼ぶ『武蔵』とは、このわしのことか」
「へ? 何をおっしゃいます。先ほど『武蔵』とおっしゃったではないですか」
「いいや、わしは『武蔵』などと名乗った覚えはないぞ」
「いや確かに言った。言いましたぞ。『この武蔵、命に代えても佐助殿を守ろうぞ』と豪語された」
「わははははは。言うておらんぞ。実に、わしはそんな名ではないのだからの」
「武蔵様は、わしをからかっておいでですか」
「いいや、ならば言おうか。わしの本名は平田。平田源信という。源信じゃ」
「何おっしゃいます。そんなはったり信用できませぬぞ」
すると男は神妙な面持ちになり、
「ならば、わしの出自を語ろうかい」と静かに語り始めた。
「わしは、もの心ついた時には、人里離れた小屋で無二と名乗る老人に育てられた。無二は、白髪で長身痩躯な男だった。何を生業としておったのかはいまだに分からん。その名すら怪しいもんじゃ。
無二との生活は質素で慎ましかった。わしは身の周りの世話をさせられ、そして剣を振らされた。
生活が一変したのは、秋の、さわやかな風が吹く小春日和じゃった。
もの心ついて、どれくらい経ったのかはさっぱり分からん。ただおのれの年がどれくらいなのか気になり始めたころじゃった。
いつものように剣を振っておったら、無二が木刀片手に小屋から飛び出してくるなり、いきなりわしの頭を打ち据えた。意識が戻ると、無二は何事もなかったかのように、わしに夕餉の支度を言いつけた。わしは訳も分からぬまま、言いつけに従った。
その後は、闘争の毎日じゃ。剣を持つ時はむろんのこと、床を拭くときも、食事の時も、隙をついては無二に襲われた。わしは、訳も分からぬまま、ただ身を守ることだけを考えた。
勝たぬように、負け続けたんじゃ。
そんな生活を五、六年も続けたろうか。ある日、わしは真剣を手渡された。それが何を意味するか分かるじゃろう。
さらに生活が転じたのは、それから七、八年も経って、暮れにさしかかった雪の舞う静かな日じゃった。無二が、わしと試合をさせるために見知らぬ男を連れてきた。髭の濃い体躯のいい男じゃった。男が、はなからわしを子どもと侮っておったのは、その蔑み緩んだ目を見るだに、すぐに分かった。わしは飛び掛かるなり男の脳天を割った。
負けぬように勝った、初めての決闘じゃった。
それからは、来る日も来る日も剣を振り、無二から差し出される見知らぬ手合いと戦った。老若男女、手練れもおれば未熟者もおった。わしは連勝した。
どれくらい年月が経ったろう。いつしかわしは無二と同じくらいの背丈になっていた。
そうして生涯この得体の知れぬ年寄りのもとで戦わされると悟った時に、突然放り出されたんじゃ。ちょうど今ごろの時分じゃった。淡い陽射しが、舞い散る桜の花弁を温かく包みこんでいた。
無二は別れしなにこう言った。
「今日限り、ここを出て好きなように生きよ。何をしようとお前の自由じゃ」
そしてこうも言い捨てた。
「もっとも好きに生きられればの話じゃがな。お前の名は源信じゃ。平田源信と名乗れ。わはははははは」
初めて聞く、そして最後の笑い声だった。人の生を嘲った、それでいてどうにも抗えない奇声は、今でも甲高く耳の底に響いておる。
わしは自ら命を絶つこともできず、かといって乞食に成り下がることもできず、放浪をつづけながら剣を振るった。
いろんな輩の死に際を見た。
宍戸梅岩という鎖鎌の使い手と手を合わせた時には、二刀を駆って分銅を絡めとり、首を掻っ切った。梅岩の妻が横におっての、夫が目の前で血噴いてのたうつのを見ておった。吉岡との試合もじゃ。雪降りしきる中、一門の面前で、清十郎を一刀のもとにほうふった。その後の弔いの合戦でも、跡取りの源次郎の首をはねて見せて、ざっと百人は殺めた。
切った刹那にはの、奴らの、あっと大口開けた喉の奥から死と生がないまぜになった真紅の塊が顔をのぞかせる。その切なくはかない魂の揺らぎを肌で感じる時、次はわしの番じゃと感ずるんじゃ。
世話になった方々は、わしの身の上を知ってか知らぬか、養子を迎えよとしきりに囃す。
無二とは一度もあっておらん。
わしが育てられた背後には、わしの想像すら及ばぬ大きな陰謀策略のようなものがあるやもしれぬ。おおよそ無二の人道愛による救済などではないことだけは確かじゃ」
源信は自らの過去を、まるで人事のように淡々と語った。
なるほど、世間で無敗と謳われる秘密は、こんな生きざまにあったというわけか。生き死にを決する苦境を耐え忍んできたからこそ、寸分の隙もなく、いついかなる時に攻められても切り込める鋭さを持ち合わせているんじゃ。
「いかがかの、信じてもらえたかの。佐助どの」
それでいて、優しく包み込むようなおおらかさがある。他人の喜怒哀楽を、まるで自分のことのように繊細に感じとり、心配もし同情もする。何の見返りも求めず、心の底から憐れむんじゃ。
奢り高ぶる態度は微塵も感じられぬ。地位や名声などと下俗なものが入り込む余地もないほど、深い情と剣への探求に心は満ち満ちておるんじゃ。
そうじゃ。柔和な慈愛の精神と、剣に対する冷徹なまでの信念とが同居しておるんじゃ。しかも、片方が表に出る時には、もう一方は片鱗すらのぞかせぬ。両者は、見事に両立し、ぶれることがない。
そして、なによりもこの方にはいつでも、どんなことにも大きな声で笑い飛ばす思い切りのよさがある。何とできた人であろう。この方こそ、間違いなく「平田源信」その人じゃ。
「源信様、わしが詰まらぬことを言ったばかりに、そのような辛い過去を話させてしまいましたこと、申し訳ございませぬ。大事な試合を前に、お詫びのしようがありませぬ」
「わははははは、分かってくださればそれでよい。佐助どのは、佐助どののなすべきことをなされよ。それを全うできれば、それだけで幸せというもんじゃ。ちえ殿も、いずれは人の生き死にが分かろう」
波乱な人生を生きてきたからこそ言える、ありがたい一言じゃ。
「おや、佐助殿のお姿がよう見えるぞ」
わしに不純な心があったから、わしの姿も霞んで見えていたのか。
投げ出された櫂には、黒い塊が付着しておる。
源信様は、遠くに目を据え、
「あれが船島か」と呟いた。
飛沫を浴びる岸壁の彼方に船島が見える。前方の砂浜は春の陽射しを浴びて黄金色に輝く。
「佐助殿、舵を切っておくれ。左に急旋回じゃ」
落ち着いた声で言うと、静かに懐から紙縒りを取り出し、口にくわえて左の肩にぐるりとまわして、
「しゃ、しゃしゅけ殿、しゃ、しゃきの話じゃが、くわ、れ、ぐれも他言、無用じゃぞ」と言って今度は鉢巻を締めた。手の動きに合わせて、襷に縛られたその体躯がぐぐっ、ぐぐっと小刻みに引き締まる。目じりが徐々につりあがり、眼球がらんらんと輝きを放つ。への字に結ばれた口元と大きな鼻には自信と活力がみなぎっておる。実に端正で、それでいて野性味あふれる雄姿じゃ。
こりゃ、間違いなく本物じゃ。天下に二人とない本物の平田玄信じゃ。
「佐助殿、わしゃ、これまでの生き方を恥じてはおらんし、誇ろうとも思わん。ましてや、良いか悪いかなどとは考えてみたこともない。人に語るべきものでもないとも思うておる」
「へい」
それならば、源信様はどうしてわしだけに打ち明けたのじゃろう。
船島の浜が迫り来る。浜の向こうには、竜胆の紋をあしらった陣幕が風になびいて、その陣幕を背に、大勢の人が居並ぶ。立っている者もおれば、前列に床几を並べて座している方もおられる。真ん中の二つの床几に座しておるのは、忠行様と小次郎であろう。刀を背負った大男が小次郎だ。
あの中の何人が「武蔵」の真相を知っておろう。その正体を、勝敗の行方ともども見極めようと、ただ待ち受けておるだけじゃ。
小次郎も然り。平田源信などとはつゆ知らず、この男に打ち勝つことだけを心に据えて、高ぶる気を抑えんとしておるに違いない。
わしだけが知りおおせたんじゃ。この広い世で、誰もが知らぬ真相を、このわしだけが……
「佐助殿、分からぬことは分からぬままにしておいた方がええ。民は噂が好きじゃ。それは、佐助殿が一番分かっておるのか。誰ぞに、嘘いつわりでも何でもいいから吹き込んでみい。すぐに話は流れて、いたるところで飛び交い、しかも尾ひれまでついて事実とはまるで違った話になってしまう。噂はいろいろあるほど面白いし、真相がわかってしまったら、こんなつまらんものはない。民は心を揺さぶれながら、それを楽しむんじゃ。こんなに愉快なことがあろうか。あ、いやいや、何かと煩わしいことが多い世じゃ。噂を隠れ蓑にしておれば、いろいろ小回りもきくと言うもの。佐助殿、無用なことは喋らず黙しておるに限るの。ええか、わしが話したことは一切他言無用ぞ。佐助殿じゃから暴露したのじゃ。くれぐれも誰にも言うてはならんからの。約束じゃぞ、ええの」
源信様はしつこく念を押す。どういうわけじゃろう。
「遅いぞ、武蔵」
浜からが怒声があがった。
「何をしておるか」
「臆したか」
「だらが」
「いよいよですぞ、小次郎様」
源信様は悪態を気にもなさらずに、背後に転がっている櫂を右手に取って、二度三度と大きく振った。櫂はぶんぶんと唸りを上げる。
木刀に使うのか。
そういや、あの蠅はどこぞに飛んで行ったのじゃろうか。それとも、源信様が目にも止まらぬ一手で始末したのかもしれん。いや、無益な殺生なぞは……
「それでは、佐助殿、世話になった。ちえ殿によろしく伝えられよ」
源信様は深々と一礼をすると、船から飛び降りて、櫂を片手にざぶざぶと波を蹴って歩いていく。
あっという間に船の前に位置をとった。
その背は異様に大きく、陽光を浴びている。
肩越しには、一身に陽を浴びた小次郎が立ちはだかるのが見える。
わしゃ見届けにゃならん。決闘の行方をしかとこの目で見据えるんじゃ。源信様のすべてを、しかとこの胸に刻もうではないか。
小次郎が鞘を抜き放った。
源信様が走り始めると、砂煙がもうもうと沸き立つ。
あっという間に隠れてしまった。