仕事の時間よ
「へっくしょんっ」
色気のないくしゃみをしながら、私はブルリと体を震わせた。まだ日が出たばかりの頃、この時期の早朝はとてつもなく寒い。家の中なのにも関わらず出る息は白く、日の光を浴びようとカーテンを開ければ庭にある犬小屋でクロが縮こまって寝ていた。
「ん…」
鼻にかかるような男の声が聞こえてきて、私は思わずぎょっとして声がした方を振り返る。
そこには、先ほどのクロよりも倍の大きさのある黒い塊がソファの上で丸くなっていた。
まだ寝ぼけていた頭が覚醒し昨日の記憶が脳内を駆け巡る。そして、このハステル王国から来たという不思議な青年を拾ったことを思い出した。
こんもりとした山は一定の間隔で上下しており、かろうじて生きていることはわかったが、毛布をかけてやることを忘れていた自分の思いやりのなさに少し落胆する。起こそうか迷って、結局そのまま寝かせておくことにした。
今日の朝食は、パンにコンソメのスープ、ベーコンエッグと質素なものだ。元日本人としては朝食は米が望ましのだが、ハステルにいた頃についた癖で朝食だけはパンを食べないと落ち着かない。朝食をテーブルに並べながら、少しだけ昔の思い出に浸る。
6歳まで私はハステルの孤児院で暮らしていた。
孤児院での生活は決して裕福ではなかったが、飢えも感じたことはなかったし、面倒を見てくれた老いたシスター達はとても優しくしてくれていた。両親の顔は知らず、生きているかさえもわからない。しかし今の自分は充分幸せで、それを気にしたことはなかった。
もう一生関わることはないだろうと思っていた故郷から来た黒づくめの謎の男。彼と会ったことで私の人生に何かが起き始めてるような、そんな予感がする。
『いい匂いがする…』
むくりと起き上がったレイヴンが、寝ぼけ眼で朝食を見つめていた。明らかに年上の男のそんな様子がひどく可愛らしくて、私は思わずクスクスと笑ってしまう。
「おはよう、レイヴン」
「あ、ああ…おはよう?」
急に馴れ馴れしくなった私の態度に疑問符を浮かべて答えるレイヴン。だが、私はもう彼に遠慮はしないと決めていた。
「さあ、早く起きて。
仕事の時間よ」
広い空間にデッキブラシのこする音が響き渡る。
うちでは朝にも清掃をすることに決めていて、いつもは1人で全てこなしていた。しかし今日からは違う–––––––という希望は早々に砕かれた。
残念なことに、彼が汚すぎたのだ。
いつ洗ったかわからないようなその体は、あまりに汚すぎて逆に風呂を汚してしまいそうだ。むしろこの状態の彼をソファで寝かせていたことに軽い戦慄を覚える…ソファは後でどうにかするとして、彼には私の家でお風呂に入ってもらっていた。
こちらは私の家に備え付けられた小さい風呂でゆっくりと足は伸ばせないが、体を洗うだけなら十分である。実はこの世界にとって浴槽とはお金を払って入るものであって普段はシャワー型の水の魔法石で体を洗い流すのみなのだ。それでさえも水の魔法石はそんなに安いものではないのでかなりゆっくり洗うのも無理がある。なので、銭湯はこの世界では需要が高いが供給が追いついてないのが現状だ。
銭湯は掃除は大変だし、なにより金がかかる。水の魔法石の購入代は馬鹿にならないし、魔力消費も高くていちいち貯めに行かなければならない。
水の魔法石の耐久度は5回程魔力を使い切るとダメになる。一般より魔力が高いとはいえ私が全ての魔法石に魔力を込めることは難しいのでここでさらに魔力発生装置から有料で魔力を貯めなければいけなくなる。
正直、経営状況としてはかなりギリギリのラインを維持していた。具体的に言えば、銭湯の稼ぎで貯金をすることができないぐらいまともな儲けがでていない。
ふと、打算的な考えを思いつく。ここまで考えて彼を雇ったわけではないが、彼は『神の眼』の持ち主。その魔力量は私と比べても天と地ほどの差があるだろう。
衣食住を保証する代わりに、魔力の無料供給、さらには男手の確保、もちろん給料はそれなりに出すとして…ニヤリと自分が悪い顔をしてるのがわかった。うんうん、いい男を捕まえた。
私はますますブラシを擦る手に力をこめた。