ここの銭湯で働いてみない?
ハステルから来た異国の旅人、レイヴンの言葉を聞いて私はモヤモヤとしていた。
––––自由になりに来た
痩せ細ってるはずの彼から発せられたその言葉は、強い意思と共にその体を何倍も大きく見せた。輝く黄金の瞳からはまるで魅了の魔法にかかったように目が離せなくなる。
彼の言う自由とはなんだろう。
私は前世で身動きが取れないようなあの息苦しさを何度も味わった。仕事が忙しい時、友人とうまくいかなかった時、親と喧嘩した時…どれも些細なことだったけれど、自分にとっては逃げ場のない地獄に落とされたような気分になるのだ。
そんな時、私のそんな憂鬱な気分から解放してくれたのがお風呂の存在だ。学校から帰ってきて、お客さんに混じって銭湯に入る。そのお湯は温泉のように特別な効能なんてないけれど、あの広い浴槽で脚を伸ばすと不思議と嫌なことは忘れられた。
時折近所のおばあさんなんかに相談なんかもして、彼女達の話を聞くのはたまに骨が折れるけれど、先人の知恵は私の人生を確かに鮮やかなものにしてくれた。
レイヴンは国から逃れ今は自由の身だ。
なら、あなたはなぜまだ自由ではないような言い方をするの
私が放った疑問に戸惑ったように、彼の金色の眼が曇った。
◇
その紺色の眼に見つめられて、俺は全てを見透かされているような気持ちになった。
何重にも重なり深く色付けられていく紺色は、見れば見るほど引きずり込まれるような錯覚を覚える。
–––––あなたはなぜまだ自由ではないような言い方をするの
その言葉を聞いて体から何かが抜け出たような気がした。そうだ、自分の夢はもう達成されてしまった。
一体俺は苑に来て何をするつもりだったのか
逃げることだけを考えていた。全てからただひたすら逃げ出したかった。自分のことを知らない土地に来て、何も気にせず暮らしてみたかった。
このままここで暮らしたとして、それは俺の望んでいた自由なのか。
そっと右手で金色の右眼を覆った。頭の中に父親の顔が浮かぶ。生まれた時から優秀でなければいけなかった、何かを出来ないということは許されなかった。だけど、俺は他の人が思うほどきっと出来た人間ではない。与えられたことしか出来ない木偶の坊なんだ。だから、自分のやりたいことさえ今はわからない…
「よかったらなんだけど…」
ためらいがちに彼女が話しかけてきて、俺はその存在を忘れていたことに気づいた。夜は遅いが泊まるわけにもいかない、ここも出て行かなければ…
その旨を伝えようと俺が口を開く前に、彼女はにっこりと微笑で言い放った。
「ここの銭湯で働いてみない?」
唐突な提案に、体から力が抜けたように眼を覆っていた右手が離れた。彼女の眼と俺の視線があい、その瞬間に悟った。
引きずり込まれた
気づけば俺は掠れた声ではい、と頷いていた。