技芸、事始め @TOEARTH SAGA 【2018年書き初め】
年が明けた二日目の朝。
数年ぶりの非番ともあり、暖炉の前でゆったりと読書していた黒髪の少年アーツ・ラクティノースは、ソファに座ったままで驚いた声を上げた。
「護身術?」
そう、と目の前に立った同じ15歳の少女、シリア・アス・ノーマが答える。
「去年から、シリュエスタ神殿で神官を対象に時々教えてくれるようになったの。警察から講師を呼んでね、特にも女性は受講するようにって言われていたから」
癒しを司る女神の主たる職業――献身的に看護する清楚な姿に、よからぬ思いを抱く輩もいると聞く。実際それで被害に遭った信徒の女性を、警察時代には捜査で幾人か見てきた。
「それにしたって、突然どうして」
「ちゃんと実践で使えるように、日頃から繰り返し練習しておきなさいって先生に言われていたし、今日は数年に一度の『技芸の日』だから」
その言に納得する。今年は男神ファムリゥゼンの回り年――すなわち鍛錬を司る神様が守護する一年となる。加えて年明け二日は元来『事始め』の慣習が根付いているため、まさにうってつけの日というわけだ。
それで、と彼女の様相にも合点がいく。外套を着込み、毛糸の帽子や手袋を身に着けて。大きな動作は家の中ではできないので、外に出ようというのだろう。
「夕べも雪がたくさん降ったから、転んでも平気かなって。それに男の人が相手じゃないと、実践での感覚が掴めないし、でもこんなことおいそれと他の人に頼めないから」
だからお願い、といつになく熱のこもった懇願に、一息つくと本を閉じて立ち上がる。
「わかったよ。準備してくるから、先に庭に出ていて」
「ありがとう。一生懸命やるわ」
ぱっと輝いた顔に、勢いづいた返事。そこまで熱心になる理由は何だろうと疑問を抱きながらも、嬉しそうに出ていく彼女の背中を送って、アーツもまた外へと足を向けた。
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軽い準備運動も兼ね、二人して積もった新雪をいくらか踏み、場を作って向かい合う。神殿で習った内容を聞き取ってから、頭の中で内容を組み立てた。
「それじゃ、初歩からやってみようか」
「お願いします」
気合いの入った彼女の声に弾かれ、アーツも騎士団の訓練と同じく姿勢を正して一礼する。そうしてまずは真正面からゆっくり歩み寄り、彼女の左前腕を掴んだ。加減はしているが容易には振りほどけまいそれに、反応を静かに待つ。
しかし次の瞬間、彼女の腕が勢いよく上げられ強く振り下ろされた。
「うん、上手いじゃないか」
絶妙な機の読み。その思い切りのよさだけ見ても、基礎が充分に理解されていることがわかる。
「じゃあ、次」
今度は右手首を少々荒っぽく掴んで引く。ぐっと身体が近づき、彼女が一歩こちらに踏み込んだ直後、ぱん、と音がしそうなほどの勢いで振り払われた。
なかなかの鋭い反応。教授した警察の体術師範はかなり優秀だったとみえる。そして彼女自身が持つ機敏さと判断力にも目を見張るものがあった。その後肩を掴もうとしたり、武器を構える真似を取り入れてみたが、十分に対応できそうな気配だった。
それなら。
大分こなれてきた流れの中で、ふとした思いつきを差し手の合間に挟みこんでみる。彼女が身体を捻って手刀をかわした直後、一瞬見えた背中を見計らうと、素早く回り込んで両手を広げ背後から半ば強引に抱きすくめた。
「えっ?!」
刹那彼女の口から心底驚いたような声が洩れる。存外あっけなく、腕の中にすっぽりと収まった細い体躯。してやったりと少しばかり意地悪な心情を抱いて。
「さ、どうする?」
頬に触れる青い髪。そこから漂うかすかな花の香りを認めつつ、耳元で問い掛けると次の反応を待った。
けれど意に反して動きはない。習いによってすぐさま振りほどかれるとばかり思っていたものが、硬直したまま微動だにせずにいる。
「あれ、シリア?」
答えもなく、抵抗も一切ない。まるで時が止まってしまったかのような思わぬ事態に、普段武芸などとは無縁だろう彼女だから、もしや力加減を誤りどこか痛めさせたのだろうかと、慌てて腕を外そうとしたその瞬間だった。
「えっ」
腕の交差部分を両手で固定し、腰を低めた彼女が足を踏ん張り力一杯背中で押して来る。虚を衝かれたアーツは身体の均衡を完全に失い、そうして二人は重なり合ったまま、後ろ向きに倒れ込んだ。
「うわっ!」
なすすべもなく雪に埋もれながら、呆然と青い空を見上げる。こちらの隙を上手く衝いた返しに、ただただ驚き感嘆した。
「まいった。ここまでできれば大したものだよ」
そうそう身につくものではないだけに、なおのこと素直な賛辞が湧く。真面目な彼女のことだ、神殿での勤めの合間にも練習を重ねてきたのだろう。
「頑張ったんだね」
そうして二人分の重みごと上半身をゆっくりと起こしたが、彼女はなおもこちらに背を向けたままで顔を見せてくれず、やはりどこかと心配になった。
「シリア、大丈夫?」
「平気」
きっぱりとした言いように、ひとまずはほっと胸を撫で下ろす。とはいえ一向に窺えない表情に、どうしたのだろうと首を傾げたが、しばしの後考えるのを諦めて天を仰いだ。
「聞いてもいいかな」
こく、と頷きだけが返ってくる。
「どうして護身術を修めようと思ったんだい? あんなに熱心になるなんてよっぽどのことだろ。もしよかったら理由を教えてくれないか」
問うや、その細い肩がひくりと震えたように見えた。
「わたし」
どこかためらいがちな声色に、言葉の先を無言で促し待つ。
「足手まといに、なりたくないから」
一言だけつぶやくと両手で顔を覆う。思いもよらなかったその反応に、アーツはその小さな頭を撫でて返した。
「そんなふうに思ったことはないよ」
むしろ、と少々の情けなさを伴って続ける。
「護られてるのは、いつも俺だ」
すると彼女が反応し、ゆっくりとこちらを振り向いた。
やっと対面したその表情。色づいた頬と、泣き出しそうな面を認めてどきりとする。
「だから」
言葉になりきらないそれを乗せ、まっすぐに見つめ返した青い双眸。そこに揺らめく光を見たと思ったそのとき。
「おーいアーツ! シリア!」
自宅を囲む林に自分達を呼ぶ声が反響し、街へと続く道の向こうから、二つの影がこちらに歩いてくるのが見えた。
雪を踏みしめながら近づいてきた、小柄で筋肉質の男。長らくの付き合いをしているドワーフのカガンは、こちらに歩み寄ってくると首を傾げて不思議そうに見下ろしてきた。
「二人して子どもみたいに、そんな全身雪まみれで何をしとるんだ」
そこで改めて自分達の有様を認識し苦笑する。
「いや、ちょっと『習い』初めをね」
「そうなの? 今年の六柱神の参詣は炎の男神が最初だし、折角だから皆で行こうかなって誘いにきたんだけど、もしかしてお邪魔さまだった?」
カガンと共にやってきた金髪の乙女、キリム・カストゥールがにやにやとした視線を送ってきた。途端シリアが慌てて身体を離して距離を取る。急に腕の内が空になったアーツは、更なる苦笑を漏らしつつ立ち上がった。
「そういうことならすぐ準備するよ」
外套についた雪をはたき落とし、顔を赤くしたまま座り込むシリアに手を差し延べる。
「わかったよ」
「え?」
「どうして、強くなりたいと思ったのか」
護られるばかりではなく、隣にありたい。
同じ気持ちでいることを、改めて知ることができた。
「だから」
今日という日にこそ、神の前で。
永き誓いを立てるべく。
「一緒に行こう」
「はい」
そうして新たな決意を胸に、二人同時に笑い合った。