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異変

 小さな不満を積み重ねる日々が、半年続いた頃だった。真夏は過ぎ去り、風が涼しい季節になった。


 半袖から長袖に変わったエイスケと、いつものように遊んでいた時のことだった。


 いつものようにキャッキャッと笑っていたエイスケが、不意に暗い影を落とした。

「カズヤくんが、ほんとのおにいちゃんならよかったのに……」

 頑張って抑えていたものがつい出てしまったような、そんな呟きだった。当然だ。まだまだ両親が必要な歳だ。

 上手い言葉が何も見つからず黙り込んでいると、エイスケがすっくと立ち上がった。


「おかあさんのとこ、いってくる!」

「あ……う、うん。いってらっしゃい」


 エイスケの突然の行動は、今に始まったことではない。子供の心は移ろい易いのか、外で遊ぼうと言ったそばから、やっぱり中で遊ぶ、と意見を翻ることもしばしばだ。この時もそうだった。先程の憂いを帯びた呟きも、すぐに忘れるに違いない。そうであって欲しい。――状況を変えられない自分に目を瞑るようにそう考えた。

 ぱたぱたと走っていくエイスケは、103号室の扉を、拳でドンドンと二回叩く。ノックの真似だろうか。相変わらず、誰かの真似が好きな子だ。はあーい、と返事をしてドアを開けたトウノも、「あら、エイくんだったの」と笑っている。今気付いたというより、本当は初めから誰が来たのかわかっている笑顔だ。ごっこ遊びなのだろう。


「元気な良い子ねぇ」

 びく、と身体が震えた。見れば、逆方向からミヤコが歩いて来ていた。スーパーの帰り道なのか、手には重たそうなバッグ。

「持ちますよ」

 言いながら、受け取った。悪いわねぇ、ごめんなさいねぇ。ミヤコは申し訳無さそうに眉尻を下げている。

「いえ、いつもの御礼ですから」

 この半年の生活で、作り過ぎちゃったから、とおかずをよく分けてくれるミヤコに、一弥は感謝していた。貧相な夜ご飯は、ミヤコがくれたおかずが一品加わるとやけに美味しくなる。


 私にも孫がいてねぇ。貴方と同じか、少し上くらいかしら。普段は一緒に暮らせないから寂しくてねぇ。


 前に彼女自身がそう言っていた。一弥は、孫の代わりなのかもしれない。やはりミヤコの子供達も忙しいのだろうか――彼女の歳を考えると、子供も良い歳だろう。それこそ一弥の親世代だ――お盆に顔を見せることさえ無かった。年末年始には帰ってくるのか、あるいは彼女がそちらに行くのか。考えてみれば、裏野ハイツは子供の家族が来るには少々狭すぎる。彼女が訪問する方が自然かもしれない。


 ミヤコを先に階段へ通し、自分はその後ろに続く。トン、トン、トン……二人分の階段を登る音が重なる。高齢の為に膝が痛むのか、ゆっくり、慎重に上がっていく。

「ミヤコさんは、年末年始にお子さんとかお孫さんに会いに行かないんですか?」

 下から声を掛けると、ミヤコは「え?」と素っ頓狂な声を上げ、振り向いた。その拍子にバランスを崩し、足が一段、落ちる。

「大丈夫ですか!?」

「ああ、ごめんなさいねぇ。大丈夫、少し擦りむいちゃっただけよぉ。歳を取るってヤぁねぇ」

 足を摩りながら微笑む。自分が話し掛けたばかりに、と気に病み俯いた先に、古ぼけたカード入れが落ちていた。先程、躓いた際に落としたのだろうか。ミヤコのバッグを持ち直し、腰を屈めて拾い上げる。

「ミヤコさん、これ、落ちまし……おっと」

 持つ方向が悪かったのか、カード入れから、薄い紙がひらりと落ちる。写真、のようだった。何気なく、それを見、




(……………………え?)





 ――グシャリ、





 視界の端から、凄まじい勢いで手が伸び、写真を鷲掴みにした。血管が浮いた手の、どこにそんな力があったのか。薄い紙が無残なまでに潰れる。



「ごめんなさいねぇ」



 目を見開きながら、ゆっくりと顔を上げる。

 視線の先では、ミヤコがいつも通り、至って普通な、穏やかな表情を浮かべていた。

「それも、いいかしら」

 つ、と指がカード入れを指し示す。

「あ……はい」

 先程とは全く違う、ゆったりとした動作でカード入れを受け取ったミヤコは、にこりと笑いまた階段を登り始めた。


 数秒惚けた後で、ようやく一弥もその後を追う。


「ここまでで良いわ、いつもありがとねぇ」

「いえ……」


 首をゆるゆると振り、「おかず、楽しみにしてます」と冗談を交えながら、別れる。

 部屋に戻ってから、ベッドにドサリと座る。



「今の、写真……」

 ずっと持っていた所為だろう、端が草臥れた写真。そこに写っていたのは、どう見てもエイスケだった。あの屈託の無い笑顔を、見間違えるはずがない。何しろ、ほぼ毎日顔を合わせているのだ。


 でも、そうなると年齢がおかしい。

 ミヤコは、孫は一弥と同じくらい、と言っていた。エイスケは三歳だ。

「……あ、もしかして、エイヤさんが孫?」

 それにしては淡白過ぎる。しかし、トウノ夫婦のエイスケへの放任主義っぷりを見る限り、有り得ない話でもないのか。何か事情、あるいは確執があって、他人のフリをしていなければならない、とか?

 だとしたら、年齢的には――まあ、十歳程違うが――説明がつく。きっとエイヤが幼い頃は、エイスケと瓜二つだったのだ。なにせ、親子なのだから。



 ――いや、でも。



 そもそも、あの二人は、そんなに似ているか?

 エイヤとエイスケは、顔の印象が全く違うのだ。エイヤとミヤコだって、そうだ。



 ――ガタッ



 隣の部屋から、音がした。落下音だ。

 これまでにも偶に音はした。生活音は不思議な程に聞こえて来ないのに、何かがどこかから落ちるような、そうでなければ何かが蠢いているような、音。壁、ドアを挟んで時折感じる、隣人の気配。

 だからといって特に気にすることもなかったそれらが、何故か今日は、やけに耳につく。


 急に不安感に襲われ、一弥は慌ててテレビのリモコンに手を伸ばした。適当に番組をつける。騒がしいものがいい。他の音を掻き消してしまうくらいの。運良くバラエティ番組が放送されていた。

 静かな部屋に、テレビの音が響く。

「あー、今日も疲れたなぁ……」

 それまで考えていたこととは全く関係の無い言葉を紡ぐ。そうでもしないと、何かがやって来そうだった。




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