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不信感

 駄目だ、何か別のことを考えよう。

 そう、たとえば、明日のこと。スーパーに行く。食材を手に入れる。段ボールも捨てる。漫画は段ボールに入ったままだけど、……そのままで、良いか。それから、残りの段ボールを片付ける。その前に一度洗濯をしようか。

 何よりまず、今日の夕飯を――



「あれ、オトイケくん?」

「あ……キタムラさん」



 スーツ姿の男性が、前方から歩いてくる。二人してピタリと足を止めた。

 先に金縛りを解いたのはキタムラだった。彼はにっこりと笑うと、「お出掛けかい? 今日はどこへ?」と一弥に訊ねた。

「特にどこにってわけじゃなくて、飯を食いたくて」

「ああ、ナルホド」

 キタムラは、ちらりと自分の腕時計を確認した。

「それなら近くにオススメのところがあるよ。一緒にどうだい?」

 しばし悩んだが、害の無さそうな笑顔に絆された。

「お邪魔で無ければ……」



 連れて来られたのは、焼き鳥屋だった。チェーン店とは違う、個人が経営をしているような店だ。


「店長、奥の席、良い?」

「ドーゾ。おや珍しい、連れがいるなんて」

「たまにはね」


 常連なのか、カウンターの向こう側にいる店長と良い意味で飾り気の無いやり取りを交わしている。


「よく来るんですか」

「会社にも家にも近いからね」

 裏野ハイツには駐車スペースが無い。通勤するなら、電車か、徒歩または自転車だ。どうやらキタムラは後者であるらしい。

 適当に頼んで良いか、と問うキタムラに頷くと、彼はメニューさえ見ずにオーダーした。程無くして、枝豆、焼き鳥が数点、それからビールと烏龍茶が運ばれてきた。

「今日も一日お疲れ様。乾杯」

「か、乾杯」

 カツン、とジョッキがぶつかる。


「キタムラさんは、裏野ハイツに来て長いんですか」

「どうだろうね。長いっちゃ長いけど、ナンヅカさんの後か、同じくらいかな」


 ナンヅカさん? 首を傾げる一弥に、「102号室の」とキタムラが答える。どうやらあの暗い印象のある男は、ナンヅカというらしい。ついでに先程、菓子折りを引ったくられたことを思い出した。

「随分と顰めっ面だなぁ。何かあったかい?」

「……や、実はさっき――」

 先程の話をそのまま伝えると、キタムラは、ほお、と目を丸くした。

「そりゃあビビるね」

「別にビビってるわけじゃないですけど」

 まるで臆病者と言われた気分になり、思わずムッとして言い返すと、ごめんごめん、と笑われる。小さな子供を宥めるような笑顔に、余計に腹が立った。


「まあ、わからんでもない。言い方はどうあれ、僕もあまり関わらない方が良いと思うね」


 人当たりの良さそうなキタムラにまで、あの失礼なナンヅカと同じことを言われ、面食らう。口を開けば必要以上に強い言葉が出そうで、慌てて放り込んだタレの焼き鳥は、やけに味が濃いように感じられた。

 咀嚼し、心を落ち着かせてから言葉を発する。


「でも、良い人でしたよ、トウノさん」

「だからこそだよ。人付き合いは程々が一番」

 遅れて、サラダの大皿がテーブルに運ばれてきた。店員に対し、どうもありがとう、と笑顔で応じるキタムラは、先程「人付き合いは程々が良い」などと言った時とはまるで別人に思えた。


「ナンヅカさんもね、昔は愛想の良い人だった。色々あって、今はあんな調子だ」


 一弥は愛想の良いナンヅカを思い浮かべようとして、失敗する。何かの間違いではないか、とさえ思った。



 キタムラが片手を挙げ店員を呼ぶ。

「ビールをもう一杯、それから……」

 彼はもうすぐなくなりそうな一弥のジョッキを一瞥した。すかさず言う。

「俺はイイです」

「そ。……焼き鳥は?」

「いや、もう」できればこの場から離れたかった。そのことを顔色から察したのだろう、肩を竦めたキタムラは、店員の方を見ると、「じゃあ焼き鳥の三種盛りを一つと、彼に茶漬けを」とオーダーした。注文を復唱した店員の後ろ姿を眺めてから、「炭水化物もとった方が良い。若いんだから」と笑う。


 そこからは、先程の話題とはかけ離れた世間話に終始した。最初からこの話なら、もう少しこの場に留まっていたかもしれないと思う程度に、興味深い話だった。

 茶漬けをゆっくりと食べ終えると、手持ち無沙汰になる。

「僕はもう少し飲んで行くから、オトイケくんは気を付けて帰りな」

「はい。えっと……お金」

「良いから良いから。これ、歓迎会だと思って」

 ヒラヒラと手を振る彼は、やはり年相応に大人に見える。財布に伸ばそうとした手の行方に困りながら、「それならお言葉に甘えて……ご馳走様です」と頭を下げる。


 店を出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。途端に冷めた頭に、キタムラの言葉が繰り返し脳内を駆け巡る。ナンヅカのように失礼な物言いなら、反発は簡単だった。穏やかに諭されるように言われると、そうはいかない。何か自分の側に落とし穴があるのではないかという気分になってくる。

(でも……トウノさんは良い人だ)

 矛盾。キタムラも、その認識に関しては否定しなかった。ならどうして。



「あー! カズヤくんだー!」

 アパート前まで来ると、弾んだ声が響いた。エイスケが、まあるいボールを抱えるようにして立っていた。どうやら一人遊びをしていたらしい。ボールを持ったまま、少しばかりふらつきながら、一弥の方へ向かってくる。

 こんなに暗いのに、一人で……?

「どうしたの、お母さんは?」

「おうちにいるよ。エイスケくん、おとーさんまってるの」

「だからって……」批判的な言葉が口から飛び出そうになって、口を噤む。子供に言っても仕方がない。


「カズヤくん、あそぼー?」

「でも……今日はもう遅いし」かといってこのまま放置して何かあっても後味が悪い。うー、と唸ってから、はあ、とため息。「じゃあ、お父さんが帰ってくるまで、な」

 エイスケの顔がぱあっと輝く。嬉しそうに、何度も何度も顔を縦に振っている。


「じゃ、何する?」

「サッカー!」

「サッカー?」


 二人ではできないし、そもそもこれはサッカー用のボールではない。困惑する一弥を他所に、エイスケはタタタッと少し離れたところに行くと、地面にボールを設置する。

「いくよー」

 えいっ、と、エイスケがボールを蹴った。ぽんぽんと跳ねながら、ボールは一弥の方へ転がってくる――とはいえ軌道は多少ズレていて、そのまま転がれば側溝に落ちていただろう。落ちる前に一弥がボールを拾った――。


「サッカーは、おててをつかうのダメなんだよ」


 エイスケがぷくっと頬を膨らませる。どうやら彼の言うサッカーは、パス練習のことらしい。野球でいうところの、キャッチボールだ。

「ごめんって。3回まで許して」

「3回も〜!?」

「兄ちゃん、下手くそだから」

「もー、しかたないなー」

 初見では人見知りをする子だと思ったが、一度顔を合わせれば、存外懐くらしい。腰に手を当てるポーズは、母親の真似か。


 ボールを蹴る。緩やかに回転しながらエイスケの足元まで飛んでいく。これでも高校の時はサッカー部だったのだ。なんやかんやあって、万年ベンチだったけれど。

 すごーい! 目を輝かせるエイスケに、悪い気はしない。


 しばらくバスを送り合っていると――結局、パスは使い果たした――、遠くから「おーい!」と若い男の声がした。若い、とはいっても一弥よりも歳上だ。キタムラやナンヅカよりも断然歳下だが。トウノと同じくらいの年齢。彼が父親だ、と瞬間的に悟る。「あ!」とエイスケが嬉しそうな声を発したことも判断材料のひとつだった。


「おかえりなさーい!」

 ボールをほったらかしにして、エイスケが男に飛び付く。全身で「大好き!」の気持ちを表現していた。

「ただいま、エイスケ。……えっと、きみは?」

「カズヤくん!」一弥より先に、エイスケが答えた。

「音池です。昨日から203号室に住んでます」

「ああ、きみが」

 自分について、どんな話が通っているのだろう。訝しむが、答えを聞き出そうとは思わなかった。



 ――それにしても。



 トウノに似て、穏やかそうな人だ。

 てっきり真逆のタイプで、だから「夫婦に近付くな」と言われているかと思ったのに。

 知らぬ間にじろじろと観察していたのだろう、男は居心地悪そうにしている。慌てて目を逸らした。

「あの、トウノさんには夕方ご挨拶に伺って……」

「ん?……ああ、なるほど、妻のことか」合点がいい、苦笑を灯してから、続ける。「俺のことはエイヤでいいよ」

 エイヤ。名前を口の中で復唱した。エイスケは父親から一文字貰ったのだろうか。


「わかりました。これからよろしくお願いします。それじゃ、俺はこれで」

「カズヤくん、いっちゃうの?」

「おー」見るからに沈んだエイスケの頭に、ぽんと手を乗せる。「また遊ぼうな」

「うん! またあそぼうな!」

 一弥の口調を真似して、にかっと笑う。素直でよろしい。今日はいろいろあって――主に『大人』から悩ますようなことを言われ――疲れていたのだが、この笑顔で一気に吹き飛んだ。


「エイスケと遊んでくれてありがとう」

「あ、いえ、俺も楽しかったので」

 首を振ってから、ふと最初にエイスケを見た時に感じたことを思い出す。エイスケには聞こえないように、こっそりエイヤに伝えた。

「でも子供一人で、こんなとこにいるなんて……」

「ああ、……わかるよ。良くないよな」

 良くない、なんて言葉では生温い。何かあったらどうするのだ。どこか他人事のような物言いに、口を尖らせる。トウノといい、エイヤといい、二人とも良い人だが、少々危機感が無さ過ぎやしないか。キタムラも言っていたではないか、この辺りは夜に一人で出歩かない方が良い、と。


「また見掛けたら遊んでやってくれ」


 あくまでも笑顔でそんなことを言うエイヤに不信感を抱きつつ、「もちろん」と答えた。


 この時にはまだ、二人は良い人だから、注意をしたら、こんな遅くに子供を一人で出歩かせる危険性に気付いて、止めると思っていたのだ。


 ……結果的には、違った。


 大学に入る前、入った後、サークルやバイトで帰りが遅くなった時も、エイスケは外で父親を待っていた。

 同じ注意をしても仕方がないと思い、初回以降は苦言を呈さなかった一弥だったが、トウノ夫妻に対する不満は募るばかりだった。

 とはいえ、誰に相談することもできない。キタムラやナンヅカが言っていた『関わらない方が良い』というのはこういうことだったのか。




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