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顔合わせ

 運び入れたベッドに身を投げ、うあー、と声を小さく上げる。遅れてゆっくりと身体が沈んでいく。慣れないことをして疲れた。目を閉じると、時計の針が動く音だけが聞こえてくる。


 ――カチ、カチ、カチ、カチ……


 等間隔でひたすら続いていく音は、睡魔を(いざな)う。身体がどんどん重くなる。




「…………ゥ」




 次に目を開くと、視界いっぱい、真っ暗だった。一瞬、何が起こったのかわからず、一弥は目を瞬かせた。ここはどこだ。問い掛け、自ら答える。自分の新しい住処だ。

「寝てた、のか……」

 相変わらず時計の音だけが聞こえる。

 針は夜中の2時を指し示していた。頭をがしがしと掻く。手探りで壁に触れ、電気のスイッチをオンにした。灯りがつくとようやく、まだ生活感の無い部屋の全体が見渡せるようになる。片付けに入る前に寝落ちたことを思い出した。

 覚醒して状況を把握したら、腹が減ってきた。部屋にはまだ段ボールが平積みされている状態で、当然ながら食材は無い。


「確か近くにコンビニがあるんだっけ」

 鞄を引っ掴む。中には財布と家の鍵が入っている。鞄の中からそれを探すことすら億劫だった。

 玄関で、雑に放られた靴を履く。

「いってきまーす」

 一人暮らし期間で、独り言が多くなるというのは道理かもしれない。一人っきりの空間では自分から積極的に音を立てなければ、世界は無音だ。無音は、怖い。


 裏野ハイツの廊下には、灯りは無い――今時どこにだってあると思うのだが、誰も問題にしないのだろうか――。真正面にある一つの街灯を頼りに進む。この時間だ、なるべく足音を立てないようにと気を付けた。ミヤコが住んでいる201号室の前を通り抜けて、階段を見下ろす。どうやら、ここにはさすがに電気が備え付いているようだった。少しだけ安堵し、ゆっくり階段を降りる。

 最後の一段に片足を乗せたところで、急に目の前にぬっと人影が出現した。



「やあ、こんばんは」

「うわあっ!」



 しーっ、と。周りをキョロキョロ見渡しながら口に人差し指を当てる男性。ドアの隙間から顔を覗かせていた男よりも歳上か、同年代か。昼間の男は陰鬱な雰囲気を持っていたので、どことなく老けて見えたのだ。逆に目の前の彼は溌剌としており、若々しく見える。

 アパートの住人か、そうでなくてもこの辺りに住んでいるのだろう、格好はヤケにラフだ。というよりも、パジャマだ。


「驚かせたみたいだね」

 確かにここに来てからはこんなことばっかりだ。そう思いながら、「いえ」と曖昧な否定を口にする。

「お出掛けかい?」

「まあ、はい。あの……」

 一弥の言いたいことがわかったのだろう、目の前の男は大きく頷くと、にっこり笑った。

「僕は101号室に住んでるキタムラだよ。よろしく」

「203号室に越してきた音池です。あの、また後日改めてご挨拶に……」

「そんなに畏まらなくても良いよ」

 断ろうとしたキタムラだったが、一弥の顔が困り顔になったからだろう――渡せなかった場合、あの菓子折りたちの処理をどうすればいいのかわからなかったのだ――、「夜の8時以降なら私が対応できると思うよ」と両手を広げた。ミヤコの言っていた情報と合致している。やはり20年以上住んでいるだけのことはあるのだろう。


「もう随分と遅い時間だけど、どこに行く予定なのかな」

「あ、ちょっと、コンビニに行こうかと」

「そうか。コンビニに行く道なら街灯も多いし大丈夫だね」


 逆説的に、そうでないなら大丈夫ではない、ということなのか。眉根を寄せる。


「キタムラさんはどうしてこんな時間に?」

「僕は階段から音が聞こえて……あと、ほら、コレだよ」

 キタムラは、胸ポケットから煙草の箱を取り出し、左右に振ってみせた。既に封が開いたソレは中身が半分は無くなっているのだろう、かなり軽い音がした。

「ま、暗いし、早く用を済ませて帰っておいでよ。あんまり夜に出歩かない方が良い。特にこの辺りでは」

 少しお節介な人だとは思ったが、悪い人ではなさそうだ。ありがとうございます、と頭を下げて、暗い夜道に繰り出した。


 コンビニまで、片道おおよそ8分。いらっしゃいませー、と怠そうな声で出迎えられた。弁当を選び、ついでだからと明日の朝飯用――起きられなければ昼飯になる――におにぎりを二つ、1リットルのお茶のペットボトル、紙コップの束を買うと、割と重くなった。

「袋、破れないよな……?」

 ビニール袋を気にしながら、アパートに戻ると、キタムラの姿は既に無かった。当然か。


 行きよりも慎重に階段を登るが、荷物を持っている為か、どうしても物音が立ってしまう。後で文句を言われたらどうしよう。さすがに気にし過ぎか。しかし、キタムラは階段の上り下りの音がしたからという理由でわざわざ深夜に部屋から出て来たし、102号室の男は気味が悪い。隣の部屋の住人は知らないが、挨拶すら交わせない程ときている。冷や汗を流しながら、二階の廊下を歩く。

 202号室の前を通る時、妙に見られているような感覚に陥り、わかるはずもないのに、思わずドアの前でぺこりと頭を下げた。



 コンビニで温めて貰った弁当を頬張る。時刻は3時を回ろうとしていた。これは明日の朝は起きれない。だからといって困ることはない。いつまで寝てるの、と布団を引っぺがされることもない。一弥はその点で、にんまりと笑った。

 大学は来週から始まる。部屋に散らばる段ボールは、それまでにゆっくり片付ければ良い。

 弁当を食べ終わると、まだゴミ箱すら無いことに思い当たった。コンビニの袋に弁当の空箱とくしゃりと潰した紙コップを入れて、台所に置く。片付けは全部明日の自分に任せよう。


 くあり、と大きく欠伸をする。だいぶ長い間寝ていたはずだが、まだ眠れそうだった。




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




 案の定、目が覚めたのは太陽が高く昇った頃だった。

 昨日購入したおにぎりをもそもそと食べて腹を満たしてから、片付けを開始する。まずはゴミ箱を設置する。ゴミ箱が無いと困ることは嫌という程学んだ。放置していたゴミを捨て、次に取り掛かったのは、服だ。段ボールを開け、タンスに移し替える。ついでに今日の服も取り出した。着替えようとして、そもそも風呂に入っていないことを思い出した。気付いてしまうと、なんだか自分が汗臭く思えてくる。

「風呂入るか。シャンプーとかは……」

 いくつかの段ボールを動かし、ようやく目的の物を見つける。風呂が沸くのを待つ間に、台所用品の設置が完了した――そもそもこれはそんなに数が無い――。


 風呂から出ると、ちょうど夕刻になっていた。少し片付いた段ボールの山を見て、まずまず順調ではないか、と自画自賛。明日はスーパーに行ってみようか。今日のところは、どこかで外食か、昨日と同じようにコンビニ弁当か。

「あー。挨拶も行かなきゃなんないのか」

 今の時間なら、真下の部屋に人がいるはずだ。それから102号室の男にも……関わりたくないが、仕方ない。

 菓子折り二つを持ち、財布と鍵を尻のポケットに突っ込むと、部屋を後にする。



 102号室からは、人の気配を感じ取れない。本当にいるんだろうか。疑いながらインターホンを鳴らす。ピンポーン、と機械音が響いた。

 …………無反応。

 気付いていない、ということはないだろう。

 さりとてもう一度押す気分にもなれないし、ドアを叩いてまで渡す度胸も無い。


 肩を竦め、103号室の前に移動する。

 こちらは押してすぐに「はあーい」と女性からの返事が来た。程無く、ドアが開く。

「どちら様?」

 現れたのは、Tシャツに七分丈のデニムという至ってシンプルな格好をした女性だった。二十代後半か、はたまた三十代前半か、その辺りに見える。目元が少し垂れた、優しそうな人だ。

「あの! 上の203号室に越して来た音池です。よろしくお願いします」

 言いながら、菓子折りを差し出す。

「ご丁寧に、どうもありがとう。トウノです。よろしくね。……若いけど、学生さん?」

「はい。来週からF大に通うんで、引越して来たんです」

「そう。一人暮らし、大変だけど楽しいと思うから、もし何か困ったことがあれば……」


 トウノはそこで言葉を遮った。彼女は自分の腰の辺りを見ている。つられてそちらを見てみれば、彼女の服をギュッと掴んだ男の子が立っていた。

「おにーさん、これから裏野ハイツに住むんだって。ご挨拶は?」

 人見知りをしているのか、こそこそとトウノの後ろに隠れながら、男の子は一弥を見上げた。

「エイスケくん、さんさいです」

 自分のことをくん付けで呼びながら、小さな指を四本立てて、一弥に向かって突き出す。

「エイくん、ちょっと多くないかな〜?」

「ん〜……」

 トウノに指摘され、恥ずかしそうに手を引っ込めてもぞもぞしていたエイスケが、再び手を突き出す。今度はちゃんと三本だ。

 よくできました! と褒められて、満更でもなさそうな顔をしている。可愛いなあ、と思わず一弥の顔も緩んだ。


「また見掛けたら遊んでやってくれるかな」

「喜んで!」


 食い気味に答えると、くすくす笑われた。何故だか恥ずかしくなって、ぽりぽりと頬を引っ掻く。

「あの、それじゃ、失礼します……」

「はーい、またね。ああそうだ、段ボール、捨てるなら近くの××ってスーパーが一番ラクよ」

「あ、ありがとうございます」

 私の時も困ったから、とトウノが笑う。この家族も最近引越しをしたのだろうか。背を向けると、背後で扉が閉まった音がした。


 下の部屋の人が良い人そうで良かった。


 ほくほく顔でいると、突然グンッと腕を引かれた。

「おい、お前」驚いて固まる。102号室の男だった。「103の夫婦には関わるな」

「は……? なんで?」言ってから、敬語が抜けていることに気付く。今更感はあったが、「……ですか?」と付け足した。

「なんでもなにも、なんでもだよ、なんでも」

 目が血走っている。話す度に飛んでくる唾に顔が歪んだが、男が腕を掴む力は予想外に強く、離れることができない。

 訳のわからない発言を繰り返す男は、「俺は言ったぞ。言ったからな。今、言った」とぶつぶつ言いながら、一弥の手元に目を留めた。次の瞬間、菓子の入った箱を奪取する。

「ちょっ……」

 バタン、と。乱暴に扉が閉まった。


 しばし静止する。

「んだよ、あれ……」

 鳥肌が立った。行動の理由が、全くわからない。それ故に恐ろしかった。


 何か妙なクスリでもやっているのではないか。でなければ、なんであんなことを言うのか。関わるな? あの夫婦に? 夫は知らないが、少なくともトウノは、102号室の男より余程マトモな人間だし、信用もできる。

 やはり、あまりここの男とは関わらない方が良さそうだ。


 思い掛けない出来事に止まっていた足を、動かす。

 トウノとエイスケと話して良い気分になったのが、一気に下がった。台無しだ。


 怒りのままに歩き出した。




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