引越し
昔から、鈍臭いと言われてきた。
筆頭は両親だ。
「あんたは本当に要領が悪いわねぇ」
「まったく鈍臭い。誰に似たんだかなぁ」
どうやらこの二つが口癖のようだった。要領が良い弟の存在も、これに拍車をかけていたのかもしれない。
どこか居心地悪く、肩身の狭い思いをしながら、十数年間生きてきた。それでも感謝はしている。大学に進学できたのも、入学金、それから授業料、更に生活費の一部を出してくれるのも有り難いことだと思う――生活費は、全額なんとか自分で工面すると言い張ったのだが、世の中そんなに甘くない、と断じられた。事実、実際に生活をするにあたり、ソレをするには相当の無茶をしなければならないと悟った――。
だが、しかし。
ここに来てまた自分の鈍臭さが露呈する事態となった。
一弥が通うことになったF大学は、とてもじゃないが実家通いができる場所ではない。いや、そのことはわかっていたのだ。それが狙いで受けていた面も、多少は、ある。しかし、入学を控えた一ヶ月と少し前、この時点で周辺のマンション・アパートが埋まるとは予想外だった。「まだ大丈夫だろう」となんの根拠も無いクセに高を括っていたらこのザマだ。考えてみれば当然だ。どれだけの人間がその大学に通うのか、そこに一弥と同じような人がどれほどいるのか。
慌てた。非常に慌てた。両親に泣き付くことだけは避けたかった。「住むところは決まったのか」「決まったら教えろよ」「引越しはいつするつもりなの」――そう言われる度に、話半分にウンウンと頷き、内心で「煩いなぁ」と悪態をついていた自分を殴ってやりたい。
「そうは言われましてもねぇ……」
賃貸ショップで窓口対応をしてくれているバーコード頭の男性職員は、パソコンから一切目を離すことなく、頬を掻いた。一弥のことを、面倒な客で、かつ経済力が無い――つまりは旨味の無い客だと思っている節を隠そうともしない。多少の苛立ちを覚えたものの、これまでに何度もあることだったので、今更怒りを露わにする程のことでもない。それよりも来年度からの住まいを見つけることの方が、余程重要だ。
「もう少し家賃の設定を上げてもらえたらねぇ」
男性職員の言葉に、う、と言葉を詰まらせる。家賃は、自分で払うことになっている。安いところでなければ、やっていけない。
脳裏に、野宿、という言葉がポンと浮かぶ。いやいや、そんなの現実的じゃない。無理だ。なら実家から通うのか?――今更過ぎる。大学在籍中の四年間を、あの突き刺すような視線を浴びながら生活するなんて、絶対に嫌だ。
「お願いします! ほんと、どこでもいいんで! 駅いくつも離れてても良いんで! あ、でも家賃は四万、いや、五万で……」
必死の形相の一弥に、多少の憐れみを覚えたのか、男性職員はちらと一弥の顔を確認し、「それなら……」とパソコンを操作し始めた。
「ここなんて、いかがでしょうねぇ」
言外に、これが嫌なら帰れ、と言われた気がしないでもない。が、一弥の耳にはそんなことは聞こえていなかった。
ディスプレイを這うように目を動かし、提示された情報を追う。
1LDK。バス・トイレ別。最寄り駅も近いし、コンビニも徒歩圏内。家賃は――ギリギリでどうにか。オマケに保証人も不要で、敷金・礼金も掛からない。おそらく築30年という条件から設けられたのだろうが、どの道、四年間の住まいだ。何より贅沢など言っている場合でも無い。
「ここからなら、最寄り駅から大学近くの駅まで、まぁ大体20分ってとこですかねぇ」
やる気の無い様子の男性職員だが、一弥の欲しい情報は全てくれた。
――不意に頭を過ぎったのは、この条件であれば、自分と同じような立場の他の人も飛び付くのではないかということだった。
とんでもないことだ。ここで逃したら、本当に野宿か実家通いの選択を迫られる。
「ここで! ここにします!」
実際の物件を確認することすらせず、一弥は即決した。
――早まったかもしれない、と思ったのは、帰ってからだった。
もう少し慎重になるべきだったのではないか。他の賃貸ショップに行くなり、ネットで調べるなりして、他の物件も探すべきだったのではないか――今更どうしようもない後悔を繰り返しながらも、ひとまずは「住む場所は決まったの?」と執拗に確認してくる親の声を振り払う術を手に入れたことに安堵する。
そうだ、この鬱陶しい声とも、あと一ヶ月でオサラバだ。
そう思いながら、手渡された物件情報に視線を落とす。
改装したのだろうか、写真を見る限り、築30年にしては綺麗に見える。多少角の辺りが煤汚れたようにも見えるが、それもそれで雰囲気があって良いではないか。
「裏野ハイツ、か」
ハイツと名が付くからには、見晴らしの良いところなのか。いや、一等地から程遠いこんな場所でそこまで期待するなんておかしい。程々で良いんだ、程々で。
一弥の口角が自然と上がった。
新しい生活。――今はそれが楽しみで仕方なかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ここ……かぁ」
ぽかりと口を開けながら、写真で見るよりもくたびれた印象を受けるアパートを見上げた。
閑静な住宅街に完全に溶け込んでいる、地味な建物だった。
「おにーさん、これ、運び入れちゃいますねー」
「あ、は、はい。お願いします!」
自力でどうにかしようとしていた引越しは、両親の判断で、正規の業者に頼むことになった。重たい洗濯機を軽々と二階まで持っていく彼らを横目に、その選択が正しかったことを知る。こんな狭いところで、あんな物、とてもじゃないが持ち上げられない。
握り締めた部屋の鍵が、手に食い込む。
結局このハイツの大家とやらにも、一度も顔合わせをしていない。良いんだろうか。それともどこもこんなものなのか。そわそわしてしまう。
二階建ての建物の、階段を登って二つの扉を通り過ぎたところにある最も奥の部屋が一弥の居城となる。空いている部屋はそこだけだったらしい。角部屋なんてラッキーだ。
「……ん?」
ふと見られているように感じて、視線を横に滑らせる。一階にある中央の部屋、そのドアの隙間から顔半分を覗かせた中年の男が、こちらを見ていた。なんだろう、と考えを巡らせるよりも先にバタンと扉が閉まる。垣間見えた目は、とても友好的ではなかった。拒絶的で、仄暗い。なんだか気味が悪い人だな、と顔を顰める。真上の部屋に住んでいる人は災難だ。少しでも物音を立てようものなら、何かしらの文句を言ってくる雰囲気を持っていた。
「ごめんなさいねぇ、根は悪い人ではないのよ」
びく、と身体が大きく震えた。目を見開いて声がした方を見ると、高齢ながら品の良さそうなお婆さんが立っていた。彼女は、あら、と頰に手を当て、「驚かせてしまったかしら、ごめんなさいねぇ」とまた謝る。
「あ、えっと……」
「ごめんなさいねぇ、名乗りもせずに。私、201号室に住んでいるの。もうかれこれ20年になるかしら。この辺りのことなら色々知っているから、困ったら相談してくださいねぇ」
ミヤコって呼んでくれたらいい、とお婆さんはころころと笑う。歳の割に喋りやすい人で、一弥はホッと胸を撫で下ろす。
「音池一弥です。よろしくお願いします」
頭を深々と下げてから、母に押し付けられた菓子折りの存在を思い出す。
「あ、あのっ……えっと、これ、ツマラナイものですが」
たどたどしく綺麗に包装された箱を差し出すと、ミヤコは「あら、ごめんなさいねぇ、気を遣わせて。若いのに偉いわね。ありがとねぇ」とにこにこ笑いながら受け取った。
「他の方々にも渡したいんですけど、いつ頃ならいらっしゃいますか」
「そうねぇ、102号室のシノさん……さっきの男性は、いつでも部屋にいるけれど、出て来てくれるかどうかはわからないわねぇ」
いつでも部屋に、って。それって無職ってことですか。口をついて出そうになった言葉を、飲み込む。ここの会話が聞こえていないとも限らない。変に目を付けられたら嫌だ。
「101号室の方は、遅くまで働いていらっしゃるから、……そうねぇ、午後8時くらいなら大丈夫かしら。103号室の方は、旦那さんは遅いけど、奥さんは夕方には部屋にいるはずよ」
自分の下の階に住んでいるのは、どうやら夫婦らしい。1LDKに夫婦で。喧嘩したら気まずいだろうなあ、といらぬ心配をしたところで、ふと疑問が頭をもたげた。
「あのぅ、202号室の人は……?」
自分の入居が決まった時、空きは一部屋だと聞いた。隣の部屋には特にお世話になるかもしれないし、しっかり挨拶をしておきたい。歳が近ければ良いなぁとも思うが、どうだろう。そこまで考え、顔を歪める――眉を吊り上げながら「隣の人と、真下の部屋の人には絶対に挨拶をしておきなさい!」と怒鳴った母の顔が浮かんだからだった。思い出したら、ムカムカしてきた。そんなこと、言われなくてもわかっている――。
「そう、ねぇ……」言い難そうなミヤコの声に顔を上げる。「202号室の人達は、あまり人に会いたくないだろうから。……もし良かったら私が渡しておきましょうか」
「えっ……?」
一弥は眉尻を下げた。挨拶を人任せにするだなんて、失礼な奴だと思われないだろうか。しかし初対面の一弥に協力的なミヤコがそうまで言う相手だ。無理に押し掛けても、それはそれで迷惑がられるだろう。
「……じゃあ、お願い、します。あの、よろしくお伝えください」
恐る恐る手渡すと、「ごめんなさいねぇ」と謝られる。何に対する謝罪なのか。
「あのー! 荷物、これでいいですかー!」
「あ。今行くんで、ちょっと待ってください!……あ、と。失礼します」
微妙な空気から逃げ出すように、会釈をしてその場から離れた。
「忙しい時に呼び止めちゃってごめんなさいねぇ〜」
後ろから、また謝罪が飛んでくる。無視することはできず、肩越しに振り返り、軽く頭を下げた。
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