夢のあとさき
入院から2ヶ月、季節は盛夏から秋へと移り、朝晩は冷え込むようになってきた頃。
「退院したいか?」
「へ?」
病室に入ってくるなりの久我の唐突な物言いに、如月は事態が分からず間抜けな声を返すしかなかった。
「内臓も問題なし、リハも順調。リハの為に通院できるなら、退院できる状態だ」
「通院って…寮ならまだしも、東京でどうしろって? ホテル住まいしてろとでも?」
「だからそれを決めろと言っている」
まったくもって分かりにくい物言いをする奴だ。如月が眉を顰めると、言いたい事に気づいた久我が先回りした。
「俺のマンションは独り身には無駄に広い3Lで、お前が居候するくらいのスペースはある。5階だが、エレベーターがあるから脚への負担はさほどないだろうし、有難いことに室内もバリアフリーだから車椅子でも支障はない。病院まで徒歩10分、回復具合から鑑みるにお前なら通えない距離でもないし、シフトによるが行きか帰りかは車で送れる」
「…で、どうしろと?」
「だから、それを決めろを言っている。富良野の世話になるならそっちの病院に紹介状を書いてやるが」
久我がなにを言いたいのか分からないなりに、如月は考える。
確かに入院していれば、不自由な身をサポートしてくれるから楽だ。楽だが、色々と不便でもある。どちらを選ぶか、そういうことなのだろう。
だが、ならば、退院したとして、どこへ。
多分、富良野の伯母宅の世話になるのが一番楽だろう。リハができる病院までは遠いだろうが、伯母も伯父も楽隠居で、車もあるから病院の送り迎えはしてくれるだろうし、上げ膳据え膳間違いなし。従兄姉ふたりも結婚して家を出ているから部屋は空いているし(半ば物置と化しているが)居場所はある。
なのだが。
母の今際の際、病室で泣き崩れたひとたちを見ていた。
富良野の伯母などは「もう永くない」と宣告されたひと月前からつきっきりで、他の伯父伯母たちもそのつれあいも仕事の都合を付け次第やってきた。病室は人で埋まった。
そして、みな泣いた。泣いてくれた。
それを思うと、親族を病院に来させたくはないと思ってしまう。自分は命に別状ないが、それでもこうしていれば自分だとて思い出してしまうのだ。かつての、病棟の色や匂いを。
そして、自分は命を絶たれたのは確かなのだ。
大会で優勝したとき。プロ入りしたとき。初ゴールを決めたとき。代表に選ばれたとき…。いつだって、もういない親の分を補おうと寄り添って喜んでくれたひとたちに、もう失う痛みを与えたくない。当たり前のように送迎してくれるだろうからこそ、待合室であの頃を思い起こさせるような時間を作りたくない。
…いや、それも詭弁だ。自分が、そんな顔を見たくないのだ。
「親戚関係はパスで…寮の部屋も3階だからまだこの状態じゃキツいよな…。となると、こっちで適当な居場所探すのが一番ってことか」
お前もいるし、とは口に出さない。気心の知れた仲でもあるし、とりあえず今は主治医だ。久我が整形外科と知ってから、実際診てもらうことはなかったとはいえ(なにせ札幌と東京という距離がある)、負傷や不調の際のケアの仕方などは事あるごとに訊いてきたのだ。ある意味、チームドクター以上に信頼していたとも言える。その久我のそばにいるというのは、確かに大きな安心材料ではあるのだが。久我からは、なにか…なんだか言い表せないものの、己の知る男とは違う気配を感じた。言ったが最後、と本能が警告する。
「こっちでリハするとしても、こっちのマンスリーマンションの家賃って幾らくらいなんだかなぁ…。無職無収入になる以上、贅沢できんし」
「だから、ウチに来ていいと言っているだろうが。別に家賃入れろとも言わん」
「…そりゃ、俺は助かるけどもよ。お前に迷惑かけるだけだろ」
「迷惑と思うくらいなら、そもそも言うか」
「…はい、そうですね」
そういう奴だ。
「…謹んでお世話になります」
「おう。敬え」
そうして退院し、久我宅への居候生活が始まった。