夢の終わり
消毒液の匂いとかすかに聞こえる電子音。白い眩しさに目を開けられない。
そこにあるのは違和感ばかりだ。目を覆おうにも手は動かず、ならば寝返りをと思っても胴も脚も動かせない。少しずつ触感が戻るにつれ、拘束されているのだと気が付いた。だが、何故。
「ようやく気づいたか」
冷たい声が聴覚を刺激して、重い目蓋を持ち上げて目線だけをそちらに向ける。
実際は向けるまでもなく分かっていた。
「…久我?」
「アタマはまともらしいな。これで記憶まで混濁してたら俺の手には負えなかったところだ」
目つきも声音も見事なまでの絶対零度。医者としてどうよ? とは思うが、小学校から高校までの腐れ縁、久我朗人とはそういうモノなのだと諦めの境地に達して久しい。
「一応、形式踏まえるぞ。名前と年齢は?」
「…如月東弥、28歳」
「現住所及び電話」
「住所は札幌市――、電話は部屋に固定なしで寮監室からの呼び出し、携帯は090――」
「親族の連絡先」
「正確には携帯でも見ないと分からんが、富良野の伯母だ。知ってるだろうが」
夏休みには何度も一緒に訪れた。なのに久我はにべもない。
「自分の身になにが起きたかは?」
「――……え?」
「そこまではまだ無理か。まあいい。ナースを呼んで、バイタルチェックしてもらう。頼むからその間だけでも正気を保っていてくれ」
……なにがなんだか分からない、というのが正直なところだ。
そんなこちらの心情など構わずに、久我はナースコールのボタンを押した。
「ああ、整形の久我です。如月の意識が戻りましたので、誰か……師長とか肚の据わったヒトを寄越して下さい。今のところ意識ははっきりしているようなので危険はないでしょうが、念のため」
「ちょっと待て、俺は猛獣か!?」
「猛獣なら近づかなければ済む。患者となればそうもいかない」
「すげぇ言われよう……」
ほどなく、看護師長らしき往年のお姉さまが姿を見せた。手際よく機器の数値をチェックし、血圧や体温なども測ってゆく。
そして、
「呆れるくらい正常値ですね。怪我さえなければさっさと追い出して病床空けたいくらいですよ」
……師長は本気で呆れていた。
還暦間近、お孫さんもいる長は強い、と久我は改めて思う。勿論、惧れが8割方を占めるから口にも顔にも出さないが。出したが最後だというのは下働き以下のインターン時代に叩き込まれている。実のところ病院内で医師のヒエラルキーは低いのだ。
「すいませんが、譫妄が落ちついたら眼科にも回しますけど、基本的にここで面倒看てやってください。足のリハもありますし」
「眼科?」
「……詳しくは後ほど」
申し訳なさそうにしながらもにっこり笑って押し通すのが久我の常套手段だ。そうと分かっているだろう熟練の看護師長すら誑かされるらしい。
(カオのいい男は得だ)
何度胸中に呟いたか知れない思いがまたも如月の裡に湧く。
小ぶりな頭、切れ長の目、すっと伸びた鼻梁、薄くも鮮やかな色を乗せる唇。白い肌に茶色がかった柔らかな髪。好みの問題はあるにせよ、造形は素晴らしいのだこの男は。……肚の中身はともかくとして。
* * *
そうして如月は、意識が戻っても夜は拘束されたまま2日を過ごした。夜間就寝時の譫妄が一夜は残っており拘束がなければいろいろ危険な状態だったし、あと一夜は落ち着いたが万全を期して、という意味で。
久我は日に何度か、時間を作って見舞いだか診察だかイヤガラセだかにやってくる。時間は不定だ。整形外科医で級友という事もあり、主治医になっているらしい。
大概は、薄緑色の術衣とやらで現れる。要は作業着だ。整形外科が肉体労働かつ力仕事なのは、如月とて職業柄世話になることが多いので分かる。仕事着がスーツネクタイに白衣、といかないのも分かる。長白衣なんぞ施術の際には激しく邪魔だろう。外来診察や病棟巡回のときは一応着ているそうだが。
分かるが。顔と合ってないとも思う。
そもそもこの男を見てひと目で整形外科医と言い当てられる人間はいないだろう。付き合いの長い如月でもいまだに疑うくらいだ。
大体、外科系医師の象徴のようなケーシーを着ていることもあまりない。なんでも、スタンドカラーは首周りが鬱陶しいとか。我侭な奴だ。ちなみに術衣はVネックで半袖だ。
……それはともかく。
「譫妄も治まったようだし、拘束を外してもいいかという話になった」
「だからそのセンモウやらいうのはなんなんだ?」
「説明したろうが」
久我の呆れを隠さない盛大なため息に、いちいち腹を立てていてはやってられない。
それでも、落ち着いてきたアタマに再度の説明をくれた。
「おまえは試合中の接触プレーで、左目の縁に肘入れられた上に酷い落ち方をして頭を打った。おそらくはそれが原因でまる1日ほど意識不明。その間、及びその後1日、意識混濁――つまり譫妄状態で、まー暴れる暴れる。代表クラスな現役プロサッカー選手の体力腕力に敵うナースなんぞいないのは分かるだろう? 弾き飛ばされて軽微とはいえ怪我人が出たところで拘束決定。ちなみに、これはおまえの為でもあった」
「なんで?」
「無意識に暴れてりゃ、あちこちぶつけたり、点滴の留置針が動いたりで、余計な怪我が増えるし、ベッドからの転落も有り得る。落ちたが最後、下手すりゃお陀仏。拘束ってのは印象悪いが、そういう意味もあるんだよ」
「……ご迷惑をおかけしました」
「まったくだ」
「いや、おまえにじゃなく、ナースの皆さんに」
「…………ま、いい。とにかく明日は、眼科の検診だ。予約時間になったらナースが迎えにくるから、大人しく指示に従え」
「へーへー。……つまりは網膜剥離か」
「――っ」
「素人舐めんな。アタマ打って目の縁ヤられて、頭部絶対安静で眼科言われたら、まずソレ疑う職業だろがよ」
「如月……」
「大丈夫、大人しくしてるさ。俺だって、好き好んで失明はしたくない。……サッカー、辞めたくはないけどな」
むしろ、本当なら目が潰れるまでボールを追いかけたい。ゴールを目指したい。最期の一瞬まで……そうしたらきっと諦められるだろうから。諦めるしかないのだと思い知れるだろうから。
けれどそれで悲しむひとがいるならば。
不本意ながらも天秤にかけなければならないのだろう。
「……少し寝るわ。おまえも仕事中なんだろ。給料泥棒の理由を俺に押し付けるな」
「ああ、戻るよ」
なにかあれば遠慮せずコールしろ、ナースはそれが仕事だから。
そう言い置いて、かつて同じ夢を追った筈の男は去っていった。
追い出した以上、引き止めることはできなかった。
* * *
――時間は少し遡る。
「師長、ちょっとお時間いただけますか」
「あらまぁ、久我先生のご指名とは光栄ですね」
如月の病室を去った後、久我は病棟廻りより如月の件を優先した。なんやかやと騒がしい詰所の入口から看護師長を探し出し、自ら近寄っていく。なんせヒエラルキー最下位だ。5年目だから下っ端もできたが、それはそれ。職種として最下位なのは変わらない。よりにもよって師長を呼びつけるなど恐れ多すぎるというものだ。
「如月の件で……」
耳元に小声で囁けば、了解したというように頷いてくれた。
「小さいカンファレンス室、使いましょうか」
「お願いします」
「で、眼科がどうとか」
5畳ほどのスペースに会議机とパイプ椅子だけの部屋にふたり腰を落ち着けて。師長が穏やかにそう切り出してくれた。
「ご連絡が遅くなってしまったことを、まずお詫びします。ただ、外傷と内臓損傷の可能性に譫妄、そして対外的な配慮がありましたから……」
「早急な処置が必要な分についてはちゃんとされておられたのだと報告を受けています。……対外的処置、が、大変だったようですが」
「正直、予想以上でした。私も経験はありませんでしたし」
「それでも。救急搬送の依頼で如月さんの名を聞くなり『理事長と院長呼び出せ、会見会場の用意も! あと、脳外と、外科はできれば待機番でなくても腹部の人を。事務は知らぬ存ぜぬで押し通させろ。それと特別個室の用意を!』なーんて言い放った先生は恰好良かったですってナースの間で評判ですよ」
……まったくもってこの師長には勝てる気がしない久我だった。
実際、TV放映されていたプレー中の事故とあって、マスコミが如月を搬送した救急車を追尾して、病院に押し寄せたのだ。搬送先が、そしてその日の外科当直が久我であったのは、病院にとっては僥倖といえるだろう。
後追いで増え続けたマスゴミを追い払うには、上の人間による会見――少なくとも連中が飽きるまでは状態説明が随時必要なクラスの選手だったのだ、如月は。
救急指定を受けている病院で、そんなハエにたかられていては業務に支障を来す。特別個室とは、そんな対外的配慮を必要とする患者の為のもので、病棟の最上階1フロアがそれに充たる。使用率は低いので全科取り混ぜて使われるが、ICUに準ずる機器が、搬入すれば使用可能。その分広い。機器がなければ付添用の簡易ベッドに加え来客用にソファセットも置けるほどだ。
それよりなにより、外来や見舞い客用の表玄関とは逆側の職員玄関前にある専用エレーベータでしか最上階へは上がれない。しかも玄関脇には警備員詰所があり、エレベータの使用にはICカードが必要なので、不審者(主にマスゴミ)はまず侵入できない。初見の見舞い客は警備員室での登録が必要で、頻繁に訪れる家族などには職員用とは別の機能限定ICカードが発行されるが、基本的に来客は警備員にキーを解除してもらわなければ扉は開かない。さすがにそれでは回診や機材搬入などの業務に不便なので、職員IDならば途中階からでも使用できるが。ログが残るので、なにかあれば当然責任を問われる。
おかげで玄関先の騒ぎはかなり減った。
久我の判断は正しかったのだ。
……その思惑は別にあったにせよ。
「で、眼科の件ですが。網膜剥離の検査をしておこうかと」
「網膜剥離?」
「落ち方、凄く悪かったんですよ。目元に肘も入ってましたし。試合のビデオ見れば分かりますが……」
上がったボールに、如月と敵DFが喰らい付くように跳んだ。
ボールは如月のヘッドで味方へ。
だがその直後、敵DFの肘が如月の目元に当たり、二人はもつれるように落下した。しかも如月よりはるかにガタイのいい敵DFが、仰向けに芝へと転がった如月の上に落ちたのだ。
結果、如月は右膝前十字靭帯断裂、右下腿開放骨折。敵DFの乗り上げ方からして内臓損傷も危惧されたので緊急検査となり、とりあえず内臓損傷は軽微で外科的治療は不要と判断されたことから、脚の手術が行われることとなった。
内臓と頭部の検査の間――整形外科医は手を出せない領域にある間に、久我は自分にしか出来ないことを数え、片付けていった。
如月の伯母に連絡を取ったのは久我だった。手術には本人か家族の同意が必須で、如月の意識が戻らない以上、連絡は久我が適任…というより久我にしかできなかったろう。試合が続いているからチーム関係者はそちらを離れられないし、球団事務に問い合わせて確認させるより、自分がやった方が早いという判断だ。
そして学生時代に両親を亡くしている如月の、最も近しい身内が富良野に住む母方の伯母で、彼女は幸い久我を覚えていてくれた。
同意書を貰う為に電話口で病状説明――説明と同意の方が一般には馴染みがあるだろう――をし始めて。
試合中の事故、というひと言で、「お父さん、今日の試合の録画つけて!」との声が上がった。伯父さんの趣味は晩酌しながらのスポーツ観戦で、ジャンル不問。たとえリザーブでも如月の出場が有り得るならと、有料のスポーツチャンネルも契約して、メンバー表に入ってさえいればせっせと録画して溜め込んでいる。今日は録画予定のないものでも観ていたのか、事故のことは知らなかったらしい。
そしてしばらくの沈黙の後。
『…アキくんのいいように。アキくんのことを信じるわ。だからハルちゃんをお願いね』
「全力を尽くします。あと、こちらへいらっしゃるなら、盆のご用事を済まされてからでいいかと思います。この時期、飛び込みで飛行機は取れないでしょうし……命に別状はないとはいえ、今はまだ意識がありませんから」
『そうね、そうするわ。代わりに、千葉の姉に連絡入れて行かせるから。今年は旦那が怪我して不自由だからってこっちに来てないのよ。同意書と一緒に、姉の名前と連絡先、一応顔写真もFAXするわね。ああ、同意書の原本も明日速達で出すけど…姉に転送して判子押したの持ってかせる方が確実かしら』
普通紙FAXに買い換えてて良かったわー感熱紙だと判子がねー、とコロコロ笑い。流した同意書のFAXも即行で署名捺印して返してくれたのだった。
そして翌日やってきた千葉の伯母さんは、中学の頃共に一度だけ訪れて、いとこの姉さん兄さんにランドやら中華街やらへと如月と共に連れて行ってもらった久我のことを覚えてくれていた。そして富良野の伯母さんと同じことを言って帰っていった。
「外傷は、本人も痛みで分かるでしょう。外から見て他者からでも分かることも多い。だけど、目は……」
「本人でさえ、知識がなければ気づけないことも多いでしょうねぇ」
情けなくも項垂れつつ頷くしかない。
「検査の結果が出るまでは、あいつが嫌がろうと頭部固定用の枕は外さないで下さい。理由は……あいつも分かってるでしょうから、強硬な抵抗はしないと思います」
「……先生は……いえ、いいです。それで眼科との繋ぎは先生が? それとも私がしましょうか?」
師長が濁した部分は気になったけれど問う気力はなかった。気遣ってくれているのだとは分かるけれど、だからこそ。
「眼科に同期がいますので、早々に空けてもらえるよう打診してます。検査して本当にマズい状態だったら、他の病院を紹介してもらうことも含めて」
「それをやったら、ウチでの先生の評判ガタ落ちですよ。ま、覚悟の上なんでしょうけど」
「そんなこんなでご面倒をおかけしますが……」
「分かりました。まぁ仮に眼科が他所の先生任せになったとしても、脚のリハはここで行うのでしょう? 詳しいことが決まったらお伝えくださいな」
力強い師長の言葉には頭を下げるばかりだ。
ああ、こんなにも自分は弱い。
* * *
そして検査の結果、如月の網膜剥離が確認された。まだ軽度、だが、だからこそ早期に処置した方がいい。そして、失明を防ぐためには、今後一切激しい接触を伴う行為の禁止――つまりは引退勧告。
如月は軽く笑って、球団に連絡を入れてくれと言った。
そして2日後、事務方が息せき切ってやってきた。盆の帰省ラッシュのピークは過ぎたとはいえ、まだまだ繁忙期、よくチケットが取れたと褒めるべきだろう。
「如月先輩……っ」
ひと言そう吐き出すと枕頭に崩れ、布団に乗った腕を枕に泣き伏した。
「あー……、大学の後輩でな」
ぽんぽんと、その頭を撫でるように叩きながら如月が言う。こんなに真直ぐに慕われて悪い気はすまい。可愛がっていたのが伺える。
後で聞いたところによれば、2年下の彼はプロになれる力量はないと自覚してもサッカーを諦められず、裏方の道を選んだのだという。それはそれで潔い。
「なんで……っなんでなんですか! 先輩ならもっとずっと……」
「……誰にでも起こり得ることだし、みんなどこかで覚悟してることだ。お前だって現役の頃はそうだったろう? 和田」
「……っ」
「そういうことだ。とにかく、諸々の手続きを頼む。枠を無駄に埋めとくのもなんだから、退団でいい。復帰は出来ないしな。年棒なんかは細かい数字出して連絡してくれ。寮は……おい、脚のリハどれくらいかかる?」
「抜糸まで1週間、ギプス固定が3週間くらい。リハは…おまえの体力や回復力からして、早くて3ヶ月といったところか」
「じゃ、部屋はそのくらい使わせといてくれ。動けるようになったら引き払いにいく。さすがにメシ代入れる気にはなれないが、家賃は払うからよ」
「そんなもん、球団に負担させます! 急がず無理せず、それからで……それからでいいです……っ」
そしてまた泣き伏してしまう。
ああ、【如月東弥】のファンだったのだろう。あの背中を追ってきたのだろう。……分かるだけに切ないが、それを切り捨て道を違えた自分に言えることはない。
「患者の負担になりますので、長時間の面会は……。諸手続きにつきましては別室にて私が」
和田とやらが頭を上げぬうちに如月を見やれば小さく頷く。この状態が和田にとってよろしくないと如月も思っているというアイコンタクト。
幸い社会人としての矜持は残っていたらしく、和田は気丈に立ち上がり侘びを述べた。
「纏まったら、またお邪魔しますね」
病室を出る際には笑顔さえ浮かべてそう言った。
自分も中高6年所属しておきながらなんだが、体育会系恐るべし、と改めて思った久我だった。
そうしてカンファレンス室に移り。
勧めた椅子に腰を下ろす前に、和田はまず頭を下げた。
「取り乱して申し訳ありませんでした。改めまして、如月が所属しますフォールスター札幌の事務局員、和田と申します。この度は如月がお世話をおかけしますが、よろしくお願いいたします」
「整形外科主治医の久我です。如月とは小中高と一緒で、中高ではサッカーやってました。少なくとも私には、畏まらなくて結構ですよ」
「え、えぇ? まさかホントにあの久我選手!?」
……アノもコノも心当たりのない久我だったが、和田はなぜか舞い上がっていた。
「先輩たちが高校の頃は夏も冬も欠かさず観戦行ってました! さすがに全国は無理でしたけど……でも、大学で何度も『なんでココに久我さんがいないんだろう』って思ってました」
「それは……ありがとう、と言うべきなのかな。そう思ってくれるひとがいたことは嬉しいけど」
「お、押し付ける気はないんです! ウチ、医学部なかったし。道が分かれるのは当然というか仕方ないことだし。ただ、寂しかった、っていう、俺の勝手な感傷ですから」
事務方がやれるだけあって、脳筋というわけでもないらしい。
「とりあえず、事務的な話を処理しましょうか。ウチの事務方も呼びますので少々お待ち下さい」
「……はい。重ね重ね申しわけありません」
* * *
そして翌々日、如月の引退が報じられた。
引退試合もウィニングランもない、静かな最期。
サッカーの申し子【如月東弥】は、ここで死んだ。