座敷わらしの怪、第三幕
それから、自らを座敷わらしと名乗った幼女、付喪神の菫は、契約について長々と延々と。
とは言っても昼休みを終える鐘の音が鳴るその直前までの、時間にして約30分程度の間、ざっくりとではあるが説明してくれた。
彼女曰く、どうやら彼女達のような付喪神や、一般的に怪奇現象の根本とされる幽霊も、いたる所に存在しているらしい。日々生まれては、日々死んでいるらしい。そして彼女は、そういった目に見えない存在は大きく分けて2種類あるという。
一つは、今の彼女のような、特殊な力をうまくコントロールする為に人間と契約し、その人間を媒介として清く正しくあろうとするもの。
もう一つは、誰とも契約せず、力を暴走させた、現代を生きる生物に害をなす存在、退治されるべき存在。
この場合幼女は契約を迫って来ているので、退治されると言うより、有り難がられるタイプだそうだ。もちろん、契約型にもいくつも種類が居て、契約して仇をなす物もあるらしいので、一概には言えないらしい。
ハルキはそれを聞き、死神と契約して新世界の神になれなかった男を思い浮かべた。
たしかに彼は契約したために人生を捨てた人間だろう。どうも嫌いになれない所が実にいやらしい作品だった。
それから彼女は契約の方法と、その内容、仕組みについても話してくれた。
契約という意味深で壮大な呼び方に対してやるべきことは単純で、別に魔法陣に血を一滴垂らすとか、契約書にサインをするだとか、大事なところを合体させて「責任取ってよね」みたいな大掛かりな契約ではなく、単なる口約束に過ぎなかった。
それに関して、花澤開は半分冗談を込め、半分本気で、契約内容を無視するかもしれないぞと訊ねてみたら、彼女は顔色一つ変えず、困るのはお前だと言ってのけた。
つまりは、二人の交わした契約は、ハルキに全てを委ねるということらしい。ハルキが約束を守ろうとしなければ、その分恩恵は受けられず、また逆にハルキがより多くの約束事に通ずる行為を行えば、それに見合った対価をもらえるということらしい。
ここまで聞くと、ただ単純にハルキが神を信じ善行を尽せば、神(すなわち座敷わらしの菫)がハルキに幸運をさずけてくれるという、ある意味一方的な流れに思われるが、どうやらそれも違うらしい。
彼女曰く、契約者が居ないうちはその力を活用しているとは言いきれないと言うのだ。
要するに、菫は別段特殊な力を生きとし生けるもの全てに注いでいるわけではなく、契約者を媒介にして力を使っているというのだ。
「よく意味がわからない」
思わずそう言ってしまったハルキに、菫は喩え話を持ち出した。
「そうじゃな。妾はオイルかの。そしてお主がライター。妾は1人では暴走し自然発火を起こし爆発する。それを人は妖怪だとか怪奇現象だとか呼ぶが、つまりそういう悪さをやって退けるのは、自然の摂理から除外された野良妖怪じゃ。本来は、妾のような妖は人と契約し、その人間を媒介に、『ちょうどいい』火を起こさねばならぬのじゃ。つまり特殊能力を人間に授けるという事じゃ。妾が特殊能力を使うのではなく、妾の特殊能力を人間に使ってもらうのじゃ」
特殊能力、この場合は『幸運』になるのだろう。ハルキという不運な人間を媒介に、本来あるべき姿として本来あるべき姿になるように、菫は幸運を授けなくてはならないのだ。そしてその幸運を生かすも殺すも、すべてハルキの手に握られているということなのだ。
「また別のもので例えると、お主は電気で動く自転車で、妾は電気じゃ。つまり人間は、生きている人間というものは、別段妾のような妖の存在を、そこまで必要とはしていない。ただそこにあると便利なだけじゃ」
別に充電しなくても、自分である程度は動くという事だろうか。
「もちろん、車やロケットかも知れんがな。行き着きたい結果に行くために、絶対に燃料が、すなわち妖の存在が必要な場合もある」
運をごっそり削ぎ落とされているハルキは、月に行くためにロケットエンジンが搭載されたアポロ11号を欲するガガーリンといったところだろう。
そしてロケットを打ち上げるためには絶対に必要な事がある。パイロットがやるべき事がある。
「ロケットに燃料を注ぎ込むのじゃ」
菫の説明は、年寄りの話を聞かされているみたいにウンザリとしてしまう程長かったので、掻い摘んで解釈してみたが、どうやらハルキがいい事をすると、そこに生まれた優しさという名のエネルギーが菫の腹を満たすのだという。それで満腹になった彼女は、消化活動を経て幸運というポイントに換算する。
「要するに、俺がいい事をしたら、それに見合うだけの幸運が手に入るってことなんだな」
理解するのに30分もかける内容では無かった気もするが、その30分の間に、ハルキは確実にこの幼女を信頼するに至っていた。嘘をついているようには思えないとか、憎めない存在だとか、話してみればいいやつじゃないか。のような信頼ではなく、ただなんとなく、彼女から漂う持ちつ持たれつの関係を築こうとする意志を汲み取り、文字通り契約者として信頼できたのだ。
「ざっくりと言ってしまえばそういう事にはなるのう。システム的にはちと違うがの。まぁ今の認識はその程度で良い。お主は良いことを重ねれば、それに見合うだけの良きラッキーに包まれる。単純で分かりやすい契約じゃろ」
確かにとハルキは頷いた。ヤンキーからは足を洗いたいと思っていたし、別段悪い事をしたくて生きてきたわけでもない。ただ人並みに安全を追い求めていただけなのだから。
「では、これより契約は成立じゃ。妾の本体、つまりは赤と黄色の暖色のみで彩られた見事な手毬をお主が持っておる限り、妾の力はお主に与えられるじゃろう」
「助かるよ。と言うか感謝してもし尽くせないよ。有り難くて土下座してお礼を言いたいよ。顔面を地中にめり込ませながらありがとうと煩悩の数だけ叫びたいよ」
やりすぎでは無い、言い過ぎではない。本心だ。生まれてこのかた幸運というものを体験したことの無い彼が、これから良いことをする度にそれに見合っただけの幸運を身にしみて感じ取れるというのだから。
それは人生で初めて宝くじの一等賞を当てた人間に相当する程の嬉しさと感謝であって、そんな幸運に巡り合わせてくれた人生と、幸運の化身である座敷わらしに、恥辱なまでの感謝を抱いているのは、当然の話なのだ。
「何も畏まることは無い。妾とて、契約者を見つけ、そやつに善行を要求せねば、空腹で死んでしまうところじゃったからな。妾こそ感謝するぞ」
「いえいえ、そんな滅相もない。俺はヤンキー初めて5年しか経ってないけど、その間にたくさん悪いことしてきて、もう神様なんぞには見放されたと思っていたんだ。そんな俺に救いの手を差し伸べてくれたストーカー幼女の神様には心底感謝だ。感激だ」
「誰がストーカーで幼女だと?」
と、ハルキが神霊だとか怪奇だとか呼ばれるオカルトに感謝し感激し雨と霰をさんざん降らしているその時に、チャイムが教室を満たした。昼休み終了の合図だ。4時間目の授業まであと5分だと告げる鐘の音だ。
「おっと、もうこんな時間か」
ハルキは母親の手作り弁当を丁寧に片付け、手提げ用の鞄にそれを仕舞いこむ。それからふと顔を上げると、まるで囚人のようにぞろぞろと教室に集まる生徒達が見えた。
彼らは定期的に鳴り響く時間という名の鎖に縛られ、規則正しく一定的な生活を送っている。一週間単位で決められた時間割を、さも当然のように頭に叩き込み、それに合わせた生活を当然のように送るのだ。
それをこなすのが当たり前のことなのかもしれないが、ハルキはそれが恐ろしく信じられなかった。中学だった頃は、チャイムが鳴っても教室に戻らないのは当たり前だったし、次の時間割が分からないのも、正直に言って当然のことだったのだ。
それなのに、この学校にいる全ての生徒は、常識のように義務教育課程の頃から、能動的に定められた通りの行動をしているのだ。
ハルキはそれが、少しばかり異常に見えた。
「お主、名をハルキと言ったか、ハルキよ。これが学校じゃ。これが規則じゃ、これが常識じゃ。その定められたスケジュールに従い行動する事も、お主に必要な善行なのじゃよ」
「分かってるよ」
分かっている。だが、体がもつかは分からない。なんだかんだで、不規則で悪循環な生活が不摂生なまでに染み付いてしまっているのだと、この時彼は感じた。
「幸運のためだ。運が良くなるなら、それがどんな世界でも京都だ。どんな世界でも天国だ」
そうだ、そうに決まっている。これまで生きてきて手の届くことのなかった世界、運という名の宝。それが倫理的にいい事をするだけで手に入る、そのためならどんな努力も惜しまない。
「ちなみに言っておくが、お主と妾が契約してから、まだお主は善いことをしてはおらぬからな。つまりは、これからは普段通り、不運な生活に舞い戻ってもらう」
「え、マジで」
契約したらその場その身で幸運が降りかかるものだと思っていたが。
「当たり前じゃろ。妾のサービスは散々受けたじゃろて。その分の善義を尽くさぬ限り、お主に幸運はありえんわい」
それはサービスではなくてただの借金ではないだろうか。幸運を前借りしたに過ぎないということなのだろうか。
「ほれ、不運が来たぞ」
机の向こう側で悪戯っぽく菫が笑ってみせる。その目はハルキの後ろを見つめたまま。彼女の向ける目線を追うように、彼はゆっくりと振り返った。
「えっと、君の名前は花澤開くんだっけ?先日はご苦労さまだよね」
そこには不敵な笑みをニンマリと浮かべた少年が立っていた。ハルキに比べてどこか細く弱そうな体質をしている。とはいえ、物心ついた頃から喧嘩ばかりしてきたハルキと体型を比べるのは間違っているのだが、たとえ周りの男子と比べても明らかに彼は細かった。
肌は白く、綺麗と言うより不健康さの際立つ色合いを持っている。そう、青白いのだ。朝その姿を見たのなら低血圧かな、と思うだろうが、昼間になってもその肌の色は、明らかに病気かヴァンパイアのどちらかにしか見えない。
整えていないのか、寝癖のような髪の毛が白い素顔の上に無造作に散らばめられている。そのくせっ毛の隙間から覗く目は、女の子かと思うほど綺麗な二重だった。なのにつり目で目つきが悪い。
女装が似合いそうだな、などとハルキが考えていると、目の前に立つ少年はため息をついた。
「おかしいなぁ、名前を間違えたらムキになるもんだと思ってたよ」
そう言って馬鹿にするように小さくイヒヒと笑ってみせる。癪に障る態度だが、ハルキはそんな彼の態度をなぜか気にしていない様子で首をかしげた。
「まぁ、昨日の自己紹介は完全に失敗したしね。ごめん、うちのクラス?」
「あれ?そんなことも知らないの?おかしいなぁ。俺、君より前に自己紹介したんだけどなぁ」
馬鹿にするようにニヤケながらも、改めて自己紹介をしてくれる。
「園女貴仁だよ。よろしくね、花澤開くん」
今度はハルキの名前を間違うことなく手を差し述べてくる。握手だろうか。貴仁と名乗った少年の態度はどこか人を小馬鹿にしたようで、不機嫌そうな態度から、あまり人と関わりを持とうとしたがらないタイプだという事が見て取れた。そういう人間がコミュニケーションを取ってきてくれたのだから、ハルキはそれを無下にする気など全くなかった。
わざと名前を間違えた上に、自分の名前を覚えてもらっていない事に対し小馬鹿にしてきた彼だが、彼という存在がハルキにとって悪質な者には見えなかった。これまで拳でしか語り合おうとしなかった人間に比べれば、いくらかマシだと思ったのかもしれない。
だからハルキはできる限り心を開いて握手をした。なんだかんだ言っても、初めて出来たであろう友人を、内心手放しで喜んでいたのだ。自分より明らかに小さく、細い指がしっかりとハルキの手を握りしめた。握手をしたのは何年振りだろうか。
そんなハルキの心を見透かしたように貴仁は口を開く。
「ところでさ、数学の授業をいきなりサボるなんて、いい度胸だね」
その言葉を耳に入れ、反射的にハルキは顔を上げた。
そこには園女貴仁の笑顔が浮かんでいる。しかしその笑顔は、友人などに対して向けるそれには程遠いものだった。
口角を釣り上げ顎をしゃくり、細長い腕を腰に当てモデルのようにポーズをしている。その大きな瞳は、全く笑っていなかった。
どこか嬉しそうにニヤけてはいるが、その表情に友好的な笑は一切感じられない。
言葉を失ったハルキに、少年は畳み掛けるようにして笑う。
「ごめんごめん、俺は何も知らないんだよ?なにも。まさか君が、入学式初日目にして先生を相手取る生徒だなんて。まさか君が、次の日になって敵対した先生の授業をサボる人間だなんて。まさか君が、その先生が学校を休んだことをいい事に遅刻をもみ消して出席扱いにするような人間だなんて。俺はなぁんにも、まったく、知らないし見ていないから。安心しなよ。」
ハルキはこの表情をようやく思い出した。なぜこの表情に警戒を抱かなかったのかも同時に分かった。彼の顔に貼り付けた表情は、いつも鏡の前で見続けてきた『勝利』の優越感だ。
普段は気分のいい時に目にしてきた、自分の表情だからだ。鏡で見てきた表情と彼の笑顔を重ねて、ハルキは1人で勝手に気分を良くしていただけだったのだ。
「ごめんごめん、冗談だよ。俺は何も知らないんだから。ありがとうね」
貴仁はそう言い捨てると握り合った手を放して、まるで粉や病原菌が付着でもしたかのように両手をパンパンと叩き、近くにあった机に手のひらを擦り付けた。満足しきったように自分の席へ戻って行く彼を、ハルキはただ茫然と見送ることしかできなかった。同時に担任が教室に入ってきた。本鈴がなるまであと三分。
「はい、席につけ」
担任が教室に入ってきたのに気付き、ハルキはようやく我に返って着席する。いつの間にか姿を眩ませた座敷わらしに、「不運の塊じゃねえか」と愚痴をこぼした。
それから教師は主席を手短に取り、全員に移動の指示を出した。
生徒達はそれを予め知っていたらしく、筆記用具を片手に、茶封筒をもう片方の手に次々と立ち上がり、あれよあれよという間に綺麗な2列を築き上げた。
ハルキはこれから何が起こるのか全く理解しておらず、ただ何も持たずに周りについてゆく。
途中貴仁と目が合ったものの、彼はすぐに目をそらした。本当に嫌味を言いたかっただけらしい。
動き始めた列の真ん中で、ハルキはキョロキョロとあたりを見渡した。みんなの手には筆記用具と謎の茶封筒。だんだんと心配になってきた彼は、隣に添って歩く女の子に声をかけた。
「あ、あの。これから何かあるの?……ですか?」
長らく使っていなかった敬語だったためか、女の子に話し掛ける事に慣れていないためか、何処かぎこちない様子だった。
そんな彼に話しかけられた少女は、一瞬信じられないといった表情を浮かべてから封筒を見せた。『月代』と書かれた苗字の下に、入学費という文字が大きく印刷されている。
「これからオリエンテーションで、これ。入学費を払うんですよ、忘れてました?」
はい。忘れていました。
とも言わず、ハルキは顔を真っ青にしてこっそりと列から抜け出した。月代という苗字の彼女は、慌ててそれを止めようと声をかけるが、反射的にハルキは口元に指を一本添える。「黙らないと殺す」の合図だ。
それからソサクサと列を抜け出し、後列の生徒から降りかかる不審の眼差しを一身に受けて教室へ向かおうとした。その一瞬、視線を感じて振り返ると、貴仁が前列の方からハルキを眺めてにやついていた。
実に嫌な気分であった。思わず「不運だ」と呟いてしまったのも無理はないだろう。
彼は教室にたどり着くと急いで机の中を漁る。ない、ない。どこにも封筒は見当たらなかった。
学校に行く前に母親から封筒を預かった記憶は確かにある。制服の内ポケットを探してみたり、教室の後ろにあるロッカーを探してみたり、教科書の間に挟まっていないか確認してみたが、出てこなかった。途中でチャイムが鳴った気がしたが、それは気にしない方向で。
結局探しても見つからなかったので、受け取り忘れたのだと判断して時計を確認した。
「もう始まってる」
思わず口からこぼれるほどに絶望した。オリエンテーションが始まる時間は机の中に入っていた日程表で分かったのだ。1時45分と書かれていた。そして今は1時46分。ギリギリアウトだ。
「デジャヴュかよ」
一瞬今朝の遅刻を思い出し、それから慌ててオリエンテーションについてのプリントに目を通した。1時45分に視聴覚室と書かれている。彼は慌てて所定の位置へと駆け出した。
ちょうど彼が到着した頃には、校長先生の説教タイムとなっていたらしい。
体育館に、小柄で白髪の校長ボイスが響いていた。
「いいですか、皆さん。時間というものはとても大切です。人は24時間という限られた時間の中で生活しなくてはいけません。ロスタイムは一生ついて回ります。無駄にした時間はどんどん積もって取り返しのつかない事態になりかねません。君たちはまだ一年生で、卒業までまだ時間があると思っているかもしれませんが、それは大違いです。時間なんてありません。たった3年しかないんです。
今の高校で習う内容は、50年前と比べれば桁違いです。大学で習っていた内容まで降りてきているんです。それ程社会の学力は高まっているのです。その分今を生きる君たちは、より多くの知識を若く柔らかな脳みそに叩き込まなくてはならないのです。これからさらに50年経てば、君たち以上に勉強しなくてはならない学生が増えることでしょう。それに比べればマシだと思ってください。それ程までに君たちは時間が無いのです。後で生徒指導部の先生から話があるとは思いますが、今の頃から、つまり1年生の頃から受験勉強を始めた生徒でも、我校では1割の生徒が国公立大学に合格出来ないのが現状です。
中学生のころ、身の回りに居たのではないでしょうか?後先のことを考えず、やるべきことを放棄して、目先のことばかり考え、そして高校受験に失敗した生徒たちが。君たちはここ『私立夕陽ケ丘高等学校』に入学できた勝ち組かもしれませんが、ここをゴールにしてはなりません。時間をうまく活用し、誰よりも効率を重んじて、よりよい大学に入ってください。君たちはそのためにこの学校に来たはずです。
いいですか、時は金なり、時は実力なり、時は権力なり、時は学力なり。時間と学力は、いくらあっても足りないのです。それを無下にすることはもってのほかですよ。特に、4組は並ぶのが遅かったです。遅刻はもってのほかですよ。ね、今来た君」
4組はハルキのいるクラスだった。どうやら彼を待っていたために全員が遅刻したらしい。反射的に腕時計に目をやると、47分。クラスが遅刻と言っても、せいぜい1、2分あるかないか位だろう。だがこの学校ではそのロスタイムすら許せないらしい。
さらに運の悪いことに、ハルキがこっそり体育館に入った姿を見つけた怒り心頭中の校長は、体育館の入口に立つ花澤開を指差して目線誘導までしたのだ。
1年生全員の目を、1クラス40人の8つ分、320人の目線を全身に受けて、喧嘩慣れしている彼も恥ずかしさで身が縮むのを感じた。
とりあえず謝ってすまそうと思い、彼は息を吸い込む。
「ち、遅刻してしまい誠に申し訳ございませんでした!」
自分でも声が大きすぎたなと反省してしまう程の大音量だったが、反省するという行為は人としていい事だという判定を受けたらしい。校長はそれ以上言い寄ることは無かった。
その代わり確実に1年生の話題の的にはなったことだろう。あちこちから小さな笑い声が聞こえてくる。
「もう帰りたい」
彼のつぶやきが誰にも聞かれなかったのは不幸中の幸いと言えるだろう。
それから彼は、ひっそりと亀のように手足を小さくして自分のクラスの列に並んだ。自分の出席番号に当たるポジションにたどり着き、そっと腰を下ろした。周りからの視線や笑い声は、案外あっさりと止んだので、身構えていた分拍子抜けした。と同時にこれが進学校なのかとも思った。分かりやすく例えると、住み慣れた街によく似た異世界に足を踏み入れた気分だった。物凄くむず痒い感じだ。自分の知っている世界なら起こるべき出来事が、この世界にはありえない。そういう感じだ。
次に、マイクを手にした司会を務める女性教師が、教頭先生の不在をお知らせした。どうやら、教頭の自宅で火災があったらしく、本人は無傷なのだが、教務を尽くすメンタルはいまだに回復していないらしい。
それもそうだろう。とハルキは思った。突然今住んでいる家が全焼し、思い出という思い出を一夜にして消し炭にされれば、たとえ無傷で済んだところで心の傷は深いはずだ。
そういう理由もあって、教頭の話はカットされた。校長先生が遅刻と時間について熱く語った分、プラスマイナスゼロだと思うが。
それから司会は集金を指示した。地べたに腰を下ろす生徒の最後尾に、立ったまま構えていた担任がここぞとばかりに動き出した。後ろの生徒から順番ずつ茶封筒を収集し始める。入学費を持ってきていないハルキは気まずいことばかりだ。幸運の神と契約したと思っていたがあれはただの幻覚だったのだろうか。
「ね、ねぇ。花澤くん」
そんなことをぼんやりと考えていたら、隣の席に座る月代が声をかけてきた。それも、誰にも気づかれないように目は合わせずに。
「は、花澤くん。もしかして集金袋忘れたの?」
何を分かり切ったことを聞いているのだろうか。340人が居る中で、唯一花澤開だけが封筒を持っていないのだ。それなのに忘れたことを問うのは、責めているためだろうか。ダメ出ししているつもりなのだろうか、しかしそんなことを思いながら睨めつけた先の少女は、心配そうな表情を浮かべていた。
「は、花澤くん、わ、私のお金使っていいよ」
「え?何を言って」
おどおどとした声色で、彼女は自分の名前が書かれた茶封筒から金を抜き取り、オリエンテーションで渡された父母宛ての知らせが入っていた茶封筒に入れ替えた。
「花澤って、この字でいい?」
何も書かれていない茶封筒に、綺麗な文字で『花澤』と書き、それをハルキに押し付けた。
「遅刻もしてこんなに顔が広まったのに、入学費まで忘れたなんて、う、浮いちゃうよ」
「え?でも」
「こ、この封筒に、私の封筒に入学費を入れて、明日持ってきてくれたら、そ、それでいいから。わ、私が入学費を忘れたって事でいいから!」
月代という名前の少女は、小声でそう訴え、ハルキの手に入学費の入った封筒と、空になった自分の封筒とを押し付けた。目を覆うように切りそろえた前髪の隙間から、涙を浮かべる瞳が見える。
「あ、ありがとう」
ハルキはそれ以上言えなかった。圧倒されたわけではなく、ちょうどそのタイミングで担任がやってきたからだ。クラス担任は、何も疑うことなく、ただハルキの手にした封筒を受け取り、月代のほうに手を差し伸べた。
「ご、ごめんなひゃい。わ、忘れましたっ。あ、明日持ってきます」
罪悪感以外の何物でもない感情が沸々と湧き出す。『ラッキー』ではあるが、『幸運』ではない。結局彼は、自分が金を忘れたのだと言い出すことができないまま彼女の行為を受け入れてしまった。
担任は何も疑う様子はなく、少女の震える体を見て安易に許可してくれた。担任が通り過ぎてから、彼女はずっと呼吸を我慢していたかのように深くため息をついた。その弱々しい小動物に、ハルキはなんと声をかければ良いのか分からず、ただ謝ることしか出来なかった。
「なんかごめんね、ちゃんと明日までには入学費持ってくるから」
「ううん、よかった。よかったよ。学校が始まって二日目で問題を重ねたら、退学させられるかもしれないんだよ。よかった」
彼女は心底そう思っているらしい。ハルキのために、見ず知らずの、ただ隣に座っただけの男のために犠牲になることが、本当に良かったと思っているらしかった。ハルキは、そんな彼女に感謝と罪悪感を抱きながら、心のどこかで恐怖を感じていた。
これは幸運ではないと、確かに感じるのであった。
「では次に部活動についてですが」
収集が終わったらしく、司会の女性教師が再びマイクを手に取って、オリエンテーションの続きが始まった。その後の話は簡単で、部活動は入らなくてもいいし、部活より勉学を優先しろだとか、いつごろから受験勉強をしたら受かるだとかを、モニターに映しながら説明して、結局その日の出来事はそれだけで終わった。
その日、オリエンテーションが終わった後、校舎内の案内を受けてからは放課後となった。
ハルキは結局、放課後になり帰宅するまでの間、月代とも園女とも会話をすることは無かった。彼らも、まるで今日の出来事がなかったかのように振る舞っていた。彼らだけではなかった。ほとんどの生徒が、それから結局ハルキに話しかけてくることは無かった。誰か一人くらい遅刻をいじりに来ると思っていたが、そんなこともなかった。
「なぁ菫、今日の出来事は幸運なのか?」
赤と黄色で鮮やかに彩られた毬を片手でポンポンと回しながら、誰もいない空間に話しかけた。
「うんにゃ。幸運と受け取るのは勝手じゃが、妾はまだ妖力を使ってはおらぬ。昼間も言ったが、お主と契約してから、お主はまだ善きことをしてはおらぬ。つまりは普段と変わらぬ通常運転じゃ」
「そうか、やっぱり今日の出来事は不運にカウントされるのか」
「それを決めるのもお主の勝手じゃが、妾が幸運を授けるときは、お主の手にあるその毬が清らかな鈴の音を鳴らす。それ以外はお主の普段と変わりない生活じゃ」
いつの間にやら菫は姿を現し、開の隣で寄り添うように歩いていた。座敷わらしと会話ができている時点で、もはや普段と段違いな生活なのだが、それは口には出さず、彼はただ溜息をこぼす。
「そうだな。まだ善いことしていないもんな。でもどうやって善いことをしたらいいんだろう。」
「それじゃが、妾もちと考えてみたわ。お主に何をさせればよいのか。それで数百年を生きた妾の天才的頭脳がひらめいての。お主よ、ボランティア部というものを作れ。顧問なるものが必要らしいが、作ったもん勝ちじゃろう。ボランティアというのは対価を求めることなく善いことをするのじゃろ?ならばピッタシではないか」
そんなことをドヤ顔で話すもんだから、ハルキは思わず笑いながら彼女の案を採用した。
「そうだな、部活もどうせ入るつもりなかったし、ボランティア部を作っちゃうか」
帰り道もすでに暗くなっていたし、人の気配何てものは感じなかったものだから、ハルキはいつの間にやら大声を出していたらしい。
「へぇ、知らなかったよ。君ってボランティアとか興味あるんだ。いいね、俺もその部活入らせてよ」
彼の独り言に近い発言を、不運なことに園女貴仁に聞かれていたのだった。