旅立つ日
朝露が光る若草に、女は足を下ろした。その冷たさゆえか、女は白い素足を一度は引き戻す。
しかし、躊躇ったのは一瞬のこと。女は再び前へと歩を進めた。山里なれしていないのか、幾分おぼつかぬ足取りである。
決してなだらかな坂ではなかった。女は少し肩を上下させながらも、休むことなく歩く。そして……やがて女は開けた場所に出た。
春の息吹の中にも、どこか冬の香りが残っている。そよぐ風は肌寒く、女は小さく身震いした。
汗で顔に張り付いた黒髪をかきあげながら、女は眼下に広がる景色を眺めた。
それは初めて目にする光景であった。女が生まれた町も、暮らした家も、すでに視界の中には捉えられなくなっていた。
女は一本の樫の木の下に腰を下ろした。薄い桃色の唇からほぅ、と息を漏らす。それから、疲れた体をほぐすため、脚を伸ばした。しなやかに伸びた脚についた朝露の雫がするりと地に落ちる。
身じろぎをした女の視界の端に映る影が一つ。
先客がいることなど思ってもいなかった女は、驚いた様子で目を丸くした。だが、すぐに居ずまいを正すと、目を細め、にこやかに会釈をした。
*****
お休み中のところ、失礼致します。
隣、よろしいでしょうか?
ここからの眺めは絶景ですわね。私の住む町はこんなにも広かったのだと思い知らされます。
あら、ここはまだ、この山の中腹なのですか? お恥ずかしいですわ……てっきり私、もう頂上だとばかり、勘違いしておりましたのね。
一休みしたら、また歩かなければなりませんね。日和も好いですし、ふふふ、楽しみですわ。
……このまま、お話していても構いませんか? ああ、嬉しい、聞いて下さるのですね。ここで会ったのも何かのご縁ですもの。
今日は、私にとってとても特別な日ですのよ。
実は私、家出をしてきたのです。
ああ、勘違いなさらないでくださいね。辛いことがあったわけではありませんわよ。
そうですね、旅立ち、と呼んだ方がしっくりくるかもしれません。
言うなれば、今日は私の独立記念日なのです。
*****
私が生まれたのは、今から二十年前のことです。うっすらとですが、その瞬間のことを覚えています。
おぼろげな母の輪郭、そして、私を抱き寄せてくれたその体温。私はまだうまく動かすことのできない手で、必死に母の乳房を掴みました。
生まれた時のことなど、誰も覚えてはいないでしょう、ですって? でもね、何故でしょうか……私、ぼんやりと覚えているのですわ。
ただ、覚えているのはそこまででした。
母は私を産んだ直後、他界したそうです。兄弟もいましたが、母の死後、皆離れ離れになりました。
父のことは全く知りません。私が産まれる前に亡くなったのかもしれませんし、母を捨てて行ったのかもしれません。
私には最初から父という存在はなかったものですので、特に恨み辛みもありませんでした。
そんな中、私を引き取ってくださったのは、磯貝家の方々でした。
私が磯貝の家にやって来た日の写真が残っているのですが……何せ、まだ赤子でしたので、あまりはっきりとした記憶はございません。
磯貝家は三人家族でした。
家長の亨様、奥方の三枝様、そして長男の悟様です。
亨様と三枝様はまだ名のなかった私に名前をつけてくださいました。
あかり、という名です。
ええ、私、たいそう気に入っております。私がやって来てから、家がとても明るくなったからだ、そうおっしゃっていました。
あら、善い名だと……あなたもそうおっしゃって下さるのですか? ありがとうございます。
亨様と三枝様は私を本当の娘同然に扱ってくださいました。お二人が実の両親であると何度錯覚したでしょうか。
亨様は少々頑固なところもありましたが、心根は優しいお方でした。
三枝様は、そんな一本気な亨様を陰ながら支える、妻の鑑のようなお方でした。
悟様は気さくで人懐こいお方でした。私などにも分け隔てなく接してくださりましたよ。ご学友も多く、自宅におまねきになっては、勉学や流行のお話をされておりました。
……ええ、素敵な方々でしょう。
私、本当に磯貝の皆様のことが大好きでした。
このまま大切な家族で済めば、私は苦しまずにいられたのかもしれません。
ですが、私も恋をする年齢になり……あろうことか、悟様に好意を抱いてしまったのです。
きっかけは……悟様の何気ない一言でした。
確かその日、亨様と三枝様は、ご旅行で留守でした。泊まりがけで紅葉を見に行くとのことで、私は悟様と二人きりで夕餉をいただいておりました。
大学へと進学された悟様は、毎日お忙しそうでした。お疲れなのか、悟様は口数が少なく、黙々と目の前の食事を口になさいます。
早々に食事を終えた悟様は、居間を後にしようとお立ちになりました。
何とお声をかけてよいのか分からず、私は悟様の背中を見つめることしかできませんでした。私が悟様にして差し上げられることなど、ほとんどありはしないと……分かっておりました。
ところが、何故か悟様は不意に振り返ると、私のところへいらっしゃったのです。
そして……私を背後から強く抱き締められたのです。
予測していなかった事態に、私は体を強張らせました。悟様の手を振り解こうとしましたが、さらに強く抱きすくめられ、とうとう身動きできなくなってしまったのです。
悟様の吐息が、私の耳元を撫でました。悟様の心の臓が、とくん、と鼓動を刻んでおりました。
何か言わなければ……。悟様、と呼ぼうとしましたが、喉がからからに乾いて声が出ません。
どれほどの間、そうしていたでしょうか。ほんの一瞬であったかもしれませんが、私にとっては永遠にも感じる時間でした。
悟様は私に囁いたのです。
――あかり、いつもありがとう。
そう告げると、ようやっと悟様は私から体をお離しになりました。
私は正面を向いたまま微動だにせず、ただただ自分の身に何が起こったのか、困惑するばかりでした。
とん、と静かに扉が閉まり、居間に一人取り残された私は、大きく息を吐きました。
私の心が悟様のものになるのは、その一瞬で十分でした。
どれほど恋い焦がれても、悟様は私のものにはなりません。
悟様にとって、私は大切な家族であり、恋の対象とはなり得ないのです。まして、一人の女性として見ていただけることなど……。
切なくときめいたのは束の間のこと。直後に狂おしいほどの痛みが渦を巻き、私の胸を襲いました。私はがんじがらめになりながら、そこから逃れようと必死でもがきました。決して許されぬ恋、そして決して実を結ぶことのない思い。胸を掻き毟り、この思いごと心の臓を捨て去ってしまえれば……。幾度そう思ったことでしょうか。
誰か、他に素敵な殿方が現れないものか。この恋を簡単に忘れてしまえるほどの誰か……。この身も心も奪い去ってくれるような力強いお方……。
ですが、そのようなお方は待てど暮らせど現れません。
悟様以上に逞しいお方も、優しいお方もたくさんいらっしゃるはずですのに、私の目に映るのは……悟様だけでした。
密やかな私の恋心が粉々に打ち砕かれたのは、穏やかな陽気の、春の日のことでした。
桜の花が散り始め、ところどころ青々とした葉が見え隠れしていたのを思い出します。
悟様が一人の女性をお連れになられたのです。
肩口で揺れる淡い茶色の髪が、なんとも可憐なお嬢様でした。ゆるく波打つ髪がよくお似合いで、散り行く花弁のような清楚なお召し物を身に纏う姿は、まるで春の妖精でした。
お二人ともほんのりと頬を桜色に染め、玄関に並んで立っておられたのです。
悟様は、そのお嬢様を私たちに紹介してくださいました。お二人はお付き合いをされているとのことでした。
お嬢様は悟様よりも一つ年が下でした。お二人は大学の勉強会で知り合ったのだそうです。
とても朗らかで、気持ちの良いお方でした。亨様も三枝様も、たいそうお嬢様のことが気に入られたようで、始終和やかな雰囲気で会話が進みました。
お嬢様は、橘明里様とおっしゃりました。
奇しくも、悟様が好意を抱いた女性は、私と同じ名前だったのです。
今だからこそ、こんな風に笑って話せますが、その時の私は失意のどん底におりました。
ええ、笑わないで聞いてくださいまし。本当に、絶望しておりましたのよ。
それから度々、明里様は磯貝家に遊びに来られました。
悟様は、何とも言えない、嬉しそうな表情で明里様をお迎えになられました。
――いらっしゃい、明里。
そう声をかけてもらえる明里様が羨ましかった……憎らしいとさえ思う程に。
目を瞑っていれば、まるで私に向かって話しかけてくれているようでした。
ですが、瞼を開けようものなら、厳しい現実が私を待ち受けているのです。
愛された明里と、愛されなかったあかり。
同じ「あかり」なのに、こうも違うものか……。
私は自らの不運を嘆きました。
私の方が先に悟様をお慕いしていたのに。
私の方がずっと悟様と長い時間を過ごしているのに。
いくら嫉んでも無駄なことです。
私などには付け入る隙はございません。
私は仲睦まじく戯れるお二人をずっと見ているほかなかったのです。
お恥ずかい話ですが、嫉妬に狂い、荒れた時期もございます。
そんな時は亨様か三枝様が優しくなだめてくださいました。もちろん、私の悟様への秘めたる想いはご存知なかったでしょうが。
その間、私は決して明里様には近づくまいと必死でした。
差し伸べてくださった手を払いのけた時の、明里様の表情は今でも忘れられません。
傷つきながらも、私と打ち解けようと微笑んでくださって……本当に申し訳ないことをしました。
とは言え、あの頃の私にとってはどうしようもなかったのです。
しかし、時というのは不思議なものですね。
あれほど憎くて仕方のなかった明里様を、次第に許している自分がいることに気付き始めました。明里様を拒絶していた私は、徐々に消え失せていったのです。
幸せそうに過ごすお二人を見て、これでよかったのだと思えるようになりました。……いいえ、そう思うように決めましたの。
決して、悟様への愛が消え失せてしまったわけではありません。
なんと申し上げたらよいのでしょうか。
岩を打ち砕かんばかりの奔流が、川下で穏やかな流れに変わっていくのに似ておりました。幼子でさえ跨げる川幅も、あらゆる流れを飲み込む広さになったと言うのでしょうか。
激しい恋慕は、静謐な愛情へと変化していきました。
悟様の幸せこそが、私の幸せでした。
初めて明里様が磯貝家にお見えになってから四年後、明里様が大学を卒業された春――お二人は夫婦となられたのです。
明里様をお迎えし、四人家族だった磯貝家が五人になりました。
ですが、明里様がこの家で住まう際、一つ問題がありました。
それは、私の名前もあかり、だと言うことです。
家人が「あかりちゃん」と呼ぶ時、どちらの名を呼んでいるのかさっぱり分からないのです。
あかりちゃん、ちょっといらっしゃい……などと三枝様が言おうものなら、まあ大変。私と明里様が一挙に部屋へ押しかけるのですから、三枝様は面食らってしまうのでした。
ですので、亨様が独断で、私たちの呼び名を決めてしまわれました。
私は今まで通り、あかりちゃん。
明里様は、親しみを込めてあっちゃん。
これで、あかりちゃん問題は一件落着となったのです。
けれども、悟様は、夫婦お二人で過ごす時だけは、明里と呼びました。
それを私はこっそり、くすぐったい思いで聞いておりました。……私のささやかな愉しみとなっていたのです。
その時だけは、私は明里様と自分を重ね合わせ、悟様の腕で眠る夢を見るのでした。
本当に私ったら……いけない女ですわね。
私が結婚しているか、ですって? ……しておりませんよ。
もちろん、そのようなお話はありました。
亨様が、見合いの相手を探してきてくださるのです。母は由緒ある家の出身だったようで、私を妻に迎えたいという男性は少なくありませんでした。
磯貝家でお世話になっている手前、亨様のお顔を立てて、一度は相手の方とお会いするのですが、なかなかその後までは続きませんでした。
妙齢の女性であれば誰しも心揺さぶられる口説き文句も、私の心には大して響いてきません。空っぽの言葉ばかりを並べたてたところで、私の心を満たすなど到底できはしませんのに……。
あかり、と呼びながら優しく私を抱く悟様の囁きには、遠く及ばなかったのです。
結婚六年目の夏、明里様が妊娠されました。身籠って三月目とのことでした。
磯貝家の面々の喜びようと言ったら……あれほど歓喜に沸き立つ皆様を、後にも先にも見たことがありません。
悪阻の酷かった明里様は、お勤めをお休みになり、家にこもりきりでした。水と果物しか口にできない状態で、日に日に痩せていくのが分かります。側で見ていることしかできないのがもどかしいくらいでした。
私には、明里様の苦しみが我が身のことのように感じられました。
子を産んだことのない女が、何を知った風なことを、と笑われるかもしれませんね。
それから、夏が終わり、秋が過ぎ、凍えるような冬がやって来ました。
その翌年の二月、明里様は玉のような男の子を出産されました。
冬の雪山でじっと春を待つ大木のごとく、忍耐強く、また絶えず春を持ち続けていて欲しい。そのような願いを込め、赤子は「冬樹」と名付けられました。
それからは毎日が目まぐるしく過ぎていきました。
出産後、実家にお帰りになられていた明里様が、一月振りに磯貝家にお戻りになったのです。
慣れない赤子の世話に、私も明里様もてんやわんやでした。亨様も悟様も、おそるおそる身構えながら冬樹様を抱くものですから、お二人が触れた途端、冬樹様は火のついたように泣き出す始末でした。
私もできる限りのことはお手伝い致しましたよ。と言っても、冬樹様をあやすことくらいしかできませんでしたけれども。
私には子はおりませんが、冬樹様のことは我が子のように愛おしく思っておりました。
磯貝家の皆様の愛情を一身に受け、冬樹様はすくすくと成長なされました。
男の子ですから、やんちゃなものです。私の頬をつねったり、耳を引っ張ったり……生傷が絶えない毎日です。
ですが、たどたどしい口調で「あーたん」と私を呼ぶ冬樹様を見ていると、傷の一つや二つ、何でもないことに思えるのでした。
この感覚……もしかしたらこれが母性、というものかもしれませんね。
毎日、磯貝家の皆様と、幸せな日々が続くのだと、私は信じてやみませんでした。
ところが、ふと耳元で囁く声が聞こえるようになったのです。
――こちらへいらっしゃい。
こちら、とはどこのことだろう、と私は首を傾げました。私にとっての世界は磯貝家の人々であり、またこの家でした。それ以外の場所は、私の概念にはありません。
その声の大きさは日に日に強くなっていきました。
初めはただの幻聴だ、冬樹様のお世話で疲れているのかもしれない……そう思っていたのでしたが、次第にその声を無視できなくなっていきました。
ふと窓の外を見やると、青い空が広がっています。
その時、私は思い至ったのです。
そう言えば、二十年生きてきましたが、外へ出たことがなかったのだ……と。いえ、少しくらいならありましたが、庭を散歩する程度のことです。
磯貝の皆様に頼りきりで、一人で立って歩いたことがなかったのです。
声に促され、この家以外の世界を見てみたいと思い始めました。
世界とはどのような所なのでしょうか?
暖かいのか、寒いのか。
柔らかいのか、硬いのか。
優しいのか、厳しいのか。
私にはさっぱり見当がつきません。
ですが、おそらく、大変素敵な場所なのでしょう。
悟様が明里様を見つけた世界、そして、冬樹様がこれから生きていく世界。素晴らしいに決まっています。
そして、私は決意しました。
私も自分の世界を見に行こう。私にとっての素敵な何かを見つけに行こう。
私を呼ぶ者の正体を、探しに行こう。
旅立つのなら、これ以上ない恵まれた日和がいい。
そう思った私は、その日を今か今かと待ちました。
今朝、目が覚めた時、私の中の声が言いました。
今日ほど旅立ちに相応しい日はない。さあ、皆に別れを告げなさい……と。
まだ外は暗く、家の者は誰も彼も眠っていました。私はそっと頷き、素直にその声に従いました。
まず亨様と三枝様の寝室に向かいました。お二人が横たわる布団の傍らへ行き、深く深く頭を下げました。
お二人が私を救って下さらなければ、私はきっと路頭に迷い、明日をも知れぬ生活をおくっていたことでしょう。
私が幸福に生き、生まれてきた幸運を噛みしめることができたのも、お二人のお陰でした。
声をかけたいという衝動を抑え、私はその場を後にしました。振り返れば、心が揺らいでしまいそうです。
何とかその思いを振り切り、悟様たちの寝室へ歩を進めました。
そこでは、家族三人、仲良く川の字になって眠っておられました。
両端に悟様と明里様、そして真ん中に冬樹様。
やんちゃ盛りの冬樹様は、寝相の悪さも一級品です。布団を蹴り、お臍を出して寝ていました。
まず、私は悟様の側へ参りました。
初めてお会いした時より、年を重ね、すっかりお父さんになっておりました。
かく言う私はすっかりおばあちゃんですけれど、と私はくすっと笑いました。
短い間でしたが、私はこの方に強い想いを寄せていました。私の生涯で、ここまで誰かを愛せることはないという程に。
私の心はあなたへの愛で満たされていたのですよ。
今までもこれからも、変わらずあなたをお慕いしております……。
私は悟様の唇に、自分のそれを重ねました。
これで、私の内なる想いは報われた気がしました。
次に、私は明里様の枕元に座りました。
この方を恨んだこともありました。
しかし、今はそのような思いは微塵もありません。同じ男性を愛した女性として、妙な連帯感を感じていました。
この方は悟様を幸せにしてくださる。私にはできないことを、叶えてくださる……そう思うと、安心しました。
悟様をお願いしますね。
私は胸の中で呟きました。
最後に、冬樹様です。
あどけない表情で眠る冬樹様を、私は精一杯、瞼に焼き付けました。
目を瞑ると、冬樹様の様々なお顔がちらついては消えていきます。
生まれたばかりの頃、お顔をしわくちゃにして大泣きしておられました。
初めて自分一人の力で立ち上がった時、私の顔を見て笑ってくださいました。
歩けるようになり、あなたは私を連れ、家中を探検しましたね。
あーたん大好き、と私の首筋に腕を回し、力一杯抱きついてくれるあなたが愛おしくて仕方ありませんでしたよ。
私がいなくなっても、泣かないで、強く生きていってくださいね。
声にならない声で冬樹様に別れを告げる間、私の視界は涙で霞んでいました。
涙が出るだなんて……そんなわけあるはずないのに。それでも確かに涙が出たのです。
そうこうしている内に、外が白み始めました。
行かなければなりません。
私は悟様の寝室を後にし、居間へ向かいました。壁にかかっているカレンダーの日付を確認します。
今日は三月七日。二十年前、私が磯貝家に引き取られた日と同じ日でした。
これも何かのお導きなのでしょうか。
すっかり気分も晴れやかに、私は玄関の扉を押し開けました。
旅立ちの、第一歩でした。
*****
今日は、私に家族ができた日でもあり、旅立ちの日でもあるのです。
三月七日は私にとって特別な記念日なのですよ。
……あぁ、すみません、長々と自分の話ばかりしてしまいましたね。
え? どうして私のような取るに足らないものに、そんなお話をしてくださるのですか、ですって?
蝶々さん、あなたは取るに足らない存在ではありませんよ。その素敵な翅、お似合いですわ。
なぜ、と言われましても深い理由はないのです。少し休もうとした所に、あなたがその花でお食事をしてらっしゃったのです。それだけですよ。
ただ、どなたかに聞いていただきたかったのです。
私という……女の一生を。
あら、すっかり話し込んでしまいましたね。そろそろ私、参りませんと。
蝶々さん、ありがとうございました。またいつか、どこかでお会いできたらよろしいですわね。
では、御機嫌よう……。
*****
「母さん! 朝からあかりが帰ってきてないんだけど、どこにいるか知らないか?」
「あかりちゃん? お外をお散歩してるんじゃないの」
「いや、いつも朝飯の時間には戻ってきていたはずなんだけど……」
台所で食器を洗っていた三枝に、悟が問いかけた。
餌の時間には必ずいるはずのあかりがどこにもいないのだ。
「裏口の猫用玄関あたりは? よくそこで日向ぼっこしているわよ」
「探したよ。ちょっと外も回って見てきたけど、どこにもいない」
居間のテーブルを拭いていた明里が、ふと顔を上げた。
「そういえば、私、今朝方、変な夢を見たんですよ。あかりちゃんがありがとう、って私に言ってくれたんです」
「偶然だな、俺も見たよ」
「あら、私もよ」
「え……悟さんとお義母さんもですか?」
「お父さんも見たと言っていたわ。猫なのに、ちゃんと言葉を喋っていたんですって」
居間のソファで遊んでいた冬樹が、明里に駆け寄る。
「ママ! 冬くんも!」
足元にまとわりつく冬樹の頭を、明里はそっと撫でた。
「そう……じゃああかりちゃんはみんなにバイバイしたのかもしれないね」
「バイバイするの?」
悟が腕を組みながら、うーん、と唸る。
「あかりも相当長生きしてるからな……。猫は飼い主に死ぬ姿を見せないって言うし。あいつにはいつも支えられてばかりだった」
写真立ての並ぶ棚に、悟は近寄った。その中の一枚を手に取り、繁々と見つめる。
あかりが磯貝家にやって来た時、記念に、と残した写真だった。悟の腕に抱かれるあかりはまだ幼く、あどけない顔立ちをしている。
思えば、いつも苦しい時はあかりが側にいた。ただそれだけのことが、悟にとってどれほどの救いになっていたことだろうか。
悟は写真の中からこちらを見つめるあかりに、そっと指を這わせた。
「あーたん、どうしたの……?」
冬樹が心配そうな瞳で明里を見上げた。その目は潤んでいる。
明里は首を横に振り、冬樹の目の高さにしゃがみこんだ。
「ううん、大丈夫。あかりちゃん、旅に出たんだよ」
冬樹の柔らかな髪をくしゃ、と撫で、言葉を続ける。
「こんなに天気がいいんだもん。あかりちゃんにとって、最高の旅立ちの日になったんだよ」
明里がにこりと笑う。
開け放たれた窓の向こう、そのどこかであかりがニャアと鳴いている……明里には、そんな気がした。
……ナァ……