2 広大な掌の上
空気の色を変えた張本人は室内の2人の視線を奪う事になっていた。
狙っていたのか、たまたまだったのかはハッキリしないが、このタイミングを考えれば前者の可能性は高い。
「おねえちゃん……」
幼い姫から漏れ出た言葉には色んな感情と疑問を含んでいた。
ただ、どこまで、どれだけ、どの質問をするべきなのかの迷いから言葉が続かない。
「ナナちゃん。よかったわね。”大きなプレゼント”をもらえたじゃないの」
多くの答えに結びつく一言が室内に響いた。
少なくてもナナカにとっては迷惑でしかないプレゼントだった。それは以前に姉にも話した覚えがあるはずである。自身には王座を争う意思はないと。にも関わらず、姉はそれをプレゼントと評して「よかったわね」と喜んでいるのである。つまり、自身の希望に近い結果を得られた事に満足している。自然と裏で何か動いていたと見るのが当たり前ではないだろうか。
「まさか……甲殻竜の事について先代王に話したのは、レイア様なのですか?」
「あら、カジル。私の大事な妹の輝かしい功績を家族で分かち合うのは当然の事じゃないの?」
驚きで声の出ない少女に代わり、質問をするカジルに質問で返してくるレイアからは楽しそうな笑顔しかない。
それは全く”大事な妹”の心情などは気にしていない、己の満足出来る結果だけを求める人間の顔。今回の結果は正しい道なのだと信じて疑ってなどいない。
「しかしそれは姫様の望む道ではないはずです」
「一執事が家族の問題に口を出すのはどうかと思うの。それに折角の功績を隠しちゃもったいないじゃないの」
一執事がと言われてはカジルもこれ以上は言葉を挟めない。
つまり、ここからは自らが前に出るしかない。
それに――
「望んで手に入れた功績ではない! 私はただ平穏に暮らせるだけでよかったんだ!」
「そうね。ナナちゃんが権力を欲するような、くだらない人間だとは私も思ってないのよ。でも、その平穏を継続する為には力が必要な事は魔物の襲撃で経験したんじゃないの?」
姉の言葉は重かった。
確かにあの時、十分な戦力が自身にあったとしたら傭兵に被害は出たのか?
時間稼ぎの為に命を餌へと変えられた奴隷達は必要がなかったのではないか?
――間違っていない――
平穏な暮らしを求めているのはナナカ自身の我儘と言われても仕方がない。
自分こそが己の満足だけを重視しているのかもしれない。
しかし――
「確かに平穏になんていうのは単なる願望なのかもしれない。でも、そんな過剰な権力を望んでなんかいない!」
夢の世界で平和な暮らしを続けていた記憶が争いへの道を拒否している。それが現実の世界で通用しないというのはナナカとて理解していないわけではない。自ら渦中に飛び込む気にはなれないのは仕方がないのではないだろうか。
特に表向きの権力は一気に十倍以上の力を与えられた事になるのだ。裏に大きな問題を添えられて。恐らく平穏とは程遠い未来があるようにしか思えない。
「ナナちゃん、何を”恐れている”の?」
「!?」
姉の言葉はナナカの表情を凍らせる。
自身の深層にある思いが掘り返されるような感覚。
最初の頃は出来れば面倒事や不釣り合いな地位を避けたかっただけだった気がする。
しかし、何時の頃からだろうか。避ける事から拒絶に近いものへと変わったのは。
「ナナちゃんは、あの時の犠牲を自分のせいだと思っているんじゃない? 他の人間だったらもっと上手くやれていたかもしれない。誰も死ななかったかもしれない。自分の選択が間違っていたんじゃないかと」
「そんな事は……」
言葉が続かない。
違うと否定するだけの材料が集まらない。
確かにあの時、力があればと思っていた。だが、自分でなければ、もっと救えていたのではないかという疑問も心の奥にあった。もしかすると、それと正面から向き合う事に怖さを覚えていたのかもしれないと。
「やっぱりね。おねえちゃんはお見通しよ。ナナちゃんは優しいから、きっと自分を責めているんじゃないかってね。でもね、その判断で助かった命もあるの。もちろん命だけでなく財産や思い出が詰まった物も守られたの。それに……おねえちゃんは最善の選択と結果だったと思っているの。恨んでいる人間がいないとは言わないけど、感謝の数に比べれば圧倒的少数のはずなの。それとも全員が幸せな結果にならないと納得できないのかしら?」
全員が幸せ。
そんなものはありはしない。大きな矛盾の言葉。不幸があるから幸せがある。これは真理だと言っていい。でも――
「死んだ人間に恨みを言う口はないんです。100の人が感謝を1度口にする間に、死者は呪いと恨みを万の数だけ彼の世で繰り返しているかもしれません。それが聞こえてこないだけではないのでしょうか」
「ええ、でも現世は生きている人間の為にある。なら聞こえる言葉だけを聞き入れればいいの。聞こえないはずの死者の声に左右されていたら前に進めないのよ」
正論。
きっと姉は正しい。100人いたら99人までが同じ考えをしているかもしれない。自分は残りの1人なのだろうか。
それでもナナカは過去になってしまった人間を無視するような道を進みたくない。屍の上に出来上がった道を歩くのは”怖かった”のだ。そこに辿り着いたときに姉へと返す言葉が失われた。
蒼髪の美女は赤髪の少女の視線が静かに地面へと落ちる姿を確認すると「ナナちゃんなら、やれるわよ。おねえちゃんが保証してあげる」という言葉を最後に、部屋から姿を消したのだった。
彼女が出て行った後もナナカは悩み続けた。
カジルも何かを言って部屋を後にした気がする。
それを気にする余裕もないくらいに深く重く。
疲れ果てて眠りにつくその時まで。
世界と人々は小さな赤髪の姫に希望と期待を積み上げ、英雄へと祭り上げようとする。
闇に差し込む光に群がろうとする蟲のように。
それがまだ小さな灯で何かの拍子に消え去る可能性があるとしても。
本人の意思を無視するように周囲は騒がしくなる。
今、冷たい風が幼い少女に向き始めていた。




