死んだ虫の声
蒸し暑くてセミさえ鳴かない、そんな暑さのなかでうだうだとしながら停止していく思考回路でうすぼんやりとした何かの残像を見ていた。
意識が遠退いていく感覚、赤子はそれを死んでしまうと怖れて生きようとすべく泣くらしい、それと同じ感覚なのか、単に脱水症状なのか、視界が白んで、ふと、「あ、私は死ぬのかな」などとアホなことを考えてそのまま意識がとんだ。
猛々しいまでのセミ声と体に張り付くような服の気持ち悪さに気がついたとき、私は学生服で帰宅路についていた。
あぁ、そうか、今は夏かぁなどとどうでもいいことを思いながら照り返しの強いアスファルトの上をのそのそ歩く。
このままじゃ私、家に行き着く前に倒れるな、と思いながらそこのかき氷屋まで、と足を伸ばすも残金の少なさを思い出し、やはり足取りが重くなる。
膝まである長いスカートが足にへばりつく。それでも男子制服のズボンよりましなのだと言い聞かせて進むより他がなかった。
この季節、家に帰ると急いでリビングに駆け込む習慣は相変わらずで両親がいないにも関わらず冷えた部屋で一息ついてから、室内を見渡すと、ゲーム機を手放そうとしない弟を見つけて、「お帰りぐらい言えないの」と憎まれ口を叩く。
ゲーム画面から目をそらさずに「自分だって言わないだろ」とかえす弟は私に負けず劣らず憎たらしい。
ふーんといいながら制服を脱ぎ捨てワイシャツ姿になり、うちの随分と大きいカタカタ音がするシルバーの冷凍庫から取り出したチューペットアイスをくわえると、いつゲーム画面から顔をあげたのか弟はいきなりあわてふためき、「服ぐらいちゃんと着ろよな、バカ姉貴!」とわめきながらアイスをとりに走ってきた。多感なお年頃なのだと思って「そんなに気になるわけ、すけべちゃん?」と返すと「誰が、お前なんか見たくて見るか!まな板女!」とこっちを極力見ないようにゲームの場所へ戻る。
誰がまな板だ、まな板にこんな丘はないわ!と思いながら面白くない私は蒸し暑い自分の部屋に行き、そのまま横になった。カーテンのオレンジ色が余計に暑い。特に何もないこざっぱりしているのに雑多で小汚ない部屋は妙に落ち着いてそのままうとうとすると、気づけば随分と日が傾いて聞いたこともない虫が鳴き始めた。
・・・・・・あ、と思う。最近身の程知らずの虫が近所で鳴き始めたのだ。
昭和に栄えていただろう商店街の残片が残地域はこの辺ではまだ土がある区域だった。最近その土の上にうるさいからという理由で捨てられた虫なのではないかと勝手に想像している。
身の程知らず、というのも、全く姿は見えないのに人間が近づくと猛々しい・・・・・・いや、騒々しく鳴くのである。いろんな人がやはり気になるらしく覗くのだが葉が生い茂った場所からその虫を見るのは難しいようでくすぐにその場を離れるのだ。たぶん、長時間覗いて探す人がいないのは、ずっと近くであの鳴き声を聞くのも辛いという理由もあると思う。
虫を人と言うのは些か語弊があるかもしれないが、当人からすればあれが名一杯の威嚇行動なのだろう。ご飯の接種の仕方も知らない、場所を移動することもない、人間に庇護されていた故に人間から逃げることもせず鳴き、わめく様を井の中の蛙、そのものなのだろうと思った。というより、虫なので蛙より下等動物にあたることは間違いないのだが。
あの虫が鳴き始めて一週間になる。この夕方頃から夜に入るまでの数時間やつは鳴くのだ。声は日増しに短く、絶え絶えになり、当初鳴きはじめのような猛々しさはなくなっていた。
終わるのだ、と聞くたびに思う。断末魔なのか、命の灯火なのか。人間は長生きだから、様々な年を越す。虫は越せるものの方が少ない。だからこそ別段餓死しかける、というその状態が特別残酷なものとも思えない。それに、長生きであることがいいことなのかどうなのかもわからないのだ。命のわびさびなどわかるほどまだ大人ではない。
何となく天井を見上げ、横たわったまま上へと手を伸ばした。
自分の細くて浅黒い腕が目に入る。いかにも固そうだった。思春期の体は未熟さが大いにまだ残る体で歪に膨らむところだけが勝手に出っ張っていく。山とまでは贅沢は言わない、けれどまっ平らではなくなった胸や腰回り。それらには目もくれず、細いままの腕や足。独りでに腕をゴボウ、と思いながら下ろすと、時刻は多少まわり、家の中が騒がしくなってきたようだった。
薄暗くなっていく部屋の中で、何年の記録だったかはすっかり忘れたが、人類は、人口が10人に一人増えているのだと誰かがいった。また、別の場所で別の誰かが4秒に一人餓死していくのだと伝えた。そしてまた全く別のどこかで別の誰かが、この国は3秒に一人自殺未遂をするのだと伝えた。
全部、誰かが生きたかった一秒を奪って私たちは生きている。
死にたがっている一秒を生きたがっている一秒に変換ができたらどれほどの時間が作れるのだろう、と考えているうちに下から「ハルーご飯の準備手伝いなさいー」というそれこそ騒がしい声が聞こえ始めた。
「ハルー・・・・・・ま、服ぐらいちゃんと着なさい!」
「おかーさんハヤトとおんなじこと言うー」
「多感な男の子がいるの、ハルも自覚持ちなさい!」
「大丈夫だよー、私の体に欲情なんてしないってあいついったからー」
「そういう問題じゃないの!」
・・・・・・くだらないやり取りと夕食がはじまり、終わる。
一日が終わる、一瞬一瞬が死んでいく、そうやって今を生きている。当たり前に繰り返されるこの情景も当たり前にすれ違うどっかの知らない人たちも一瞬の瞬きで消えてしまう。
子供のままでいたい、かってに膨らんでいく体も捨て去りたい、大人になるとはなんだろう?わけがわからないまま適当に引っ付かんだ服でお風呂にも入らないまま外へと飛び出した。
ミニスカートとダボダボのTシャツ。スカートの中が丸見えになるのもお構いなしに全力疾走で走って叫び続けた。
走れなくなってくたくたになって人目も気にせず地面に横たわると空は綺麗な星空だった。
今日までのもやもやした私は死んだ、と直感的に思った。
夜の生ぬるくもひやりとした、風が体を撫でる。明日からはなにも変わらなくても、何一つ同じだとしても新しい私だと思った。
翌日騒々しい虫は鳴かなかった。静かな静かな夜だった。
頬に冷ややかな感覚を覚えて目が覚めた。開け放した窓の外はもう紺色の空が広がっていて、細いオレンジ色の月が上っていた。
何かとても、懐かしいものを見ていた気がする。一人暮らしで狭くなった部屋の壁に立て掛けられた等身大の鏡に自分の姿が写り込む。
真っ赤な口紅をし、髪の毛を結い上げれば到底若い女の子などには見えなくなった自分の姿がそこにあった。
唐突にチューペットアイスが食べたくなって小さな飾り気のない白い冷蔵庫へ向かった。
冷凍庫を引き出してみてもそこにチューペットアイスは入っていなかった。仕方ない、買いにいくか、最近は百均にもおいている、と思い、素っぴんで飾り気もおしゃれのおの字も見当たらない格好で鍵と財布だけをひっつかみ外へ出た。