その6
上の階からは良い匂いがしていました。
リーナがバルコニーに降り立ち開いていた窓から部屋を覗くと、でっぷりとしたお腹の中年の髭男が、オーブンを開ける所でした。
オーブン皿には香ばしく焼きあがったアーモンドがずらりと並んでいます。
「おはよう、パティシエ」
「やあ、おはようリーナ。これからアーモンドがたぷり入ったチョコケーキを作るところだよ、食べていくかい?」
窓枠に腰掛けてリーナはちょっと悩みました。
良い香りにつられてついここに来てしまいましたが、今日こそはパパを探しだそうと思っていたので、ケーキを食べている暇はありません。
何故ならこの愛人の搭には大体100人ぐらいが住んでいて、リーナは自分の父親が誰なのかを知ってはおらず、パパを探すには一人一人を訪ね歩かねばならなかったからです。
「巻き毛や絵描きとルーも呼んでお茶にしようか?」
リーナが黙り込んでいるのを見て、パティシエは丸い目を細めて笑いました。
きっとリーナが皆でわいわい楽しくお茶したいのだと思ったのでしょう。
リーナは胸が締め付けられるような気持ちになりました。
パティシエはたぶんこの搭の中で一番年上です。
リーナが赤ちゃんの頃からこの搭にいるので、他の愛人のこともよく知っており、リーナが困っているとさりげなく助けてくれるのもこの男でした。
リーナは何度、この人がパパだったら良いのにと思ったことでしょう。
パティシエの禿げかかった丸い頭もカエルのようなでっぷりしたお腹もどれもこれもリーナは大好きなのでした。
窓枠を飛び降りパティシエの柔らかいお腹に抱きついて、リーナは唇を噛みました。
でも、パティシエは絶対にパパではないのです。
パティシエは早くに奥さんを亡くしてこの搭に来たけど、子供の作れない身体だと他の愛人から聞いて知っていました。
なにより、パティシエは絵描きの青年と同じで幾らでもお菓子を作って良い、という条件でここに住んでいるだけであって、前の奥さんをずっと愛しており、ママを愛しているわけではありませんでした。
そしてママも、パティシエの作るお菓子は愛しているようですが、パティシエを愛しているわけではないのです。
「あなたが私のパパならいいのに…」
「急にどうしたんだい?」
突然抱きついてきたリーナに驚きながらも、パティシエはリーナの頭を撫でてくれました。
見上げると茶色い丸い瞳が優しく見返しています。
「ハイスクールの冬休みの宿題、パパの絵を提出しなきゃならないの」
話している見る見るうちにリーナの青い瞳は涙でいっぱいになりました。鼻がツーんとするのを我慢すると胸が余計に痛みます。
「もうすぐ冬休み、終わっちゃうのよ。私はパパの顔を知らないのに」
パティシエは可哀想にと言ってリーナを抱きしめました。
「ちゃんとママに相談してごらん。それで駄目ならパティシエおじさんの顔を描けばいいよ」
「本当? いいの?」
「もちろんだよ。おじさんはリーナのパパみたいなものだから」
リーナはにっこりと笑ってくれたパティシエに手を振って急いでバルコニーを飛び出していきました。
ぐんぐん箒のスピードを上げてママとリーナの住む最上階へと戻ります。