終の棲家
『あなたは愛するもののために死ねるか』
── 問われて彼は鼻先で笑う。
「冗談? 相手を置いて自分だけ逝くなんて、最低の自己満足だ。ぼくはどんな形だろうと、二人で生きて行きたいね。相手も生かして、自分も生きる。それこそ『愛』というものだろう?」
+ + +
── 君がここに辿り着く頃、ぼくはもうここにはいないだろう。
それは彼がわたしに残した、数少ない手掛かり。
汚いと流暢の、微妙な境目にある文字で書かれた短い言葉達。
── ここならばと思ったが、ここではなかったらしい。
彼が旅立ってから、一体どれだけの月日が過ぎ去った事だろう。
しくしくと痛む胸を押さえ、食い入るように文面を追う。
── 必ず、見つける。君も最後まで諦めないで欲しい。
…ああ、あなたは諦めていない。
この世の何処にも、わたし達の楽園はないかもしれないのに、まだ足掻いて求めてくれている。
それだけで、わたしもまた歩き出せる。
いつか会える、そう信じる事が力をくれる。
── それこそが、彼の目的なのかもしれないと、薄々感じながら。
彼の後を追いかけ続ける事で、わたしは一歩ずつ過去から遠ざかる。一歩ずつ未来に進む。
その先に奈落が待っていようとも、わたしは歩み続ける事だろう。この足が動き続ける限り。
そう、たとえこの旅の終焉に彼の亡骸が待っていようとも。
+ + +
『追いかけっこをしないか?』
ある日、突然彼が言いだしたゲーム。
『君はぼくを追いかけて、ぼくは追い着かれないように先へ進む。先に目的地にぼくが着けばぼくの勝ち、その前に追い着く事が出来れば君の勝ち。…どうだい?』
それは、まるで子供が遊びを提案するような気軽さで。
『いいわよ』
わたしはまた彼のおふざけが始まったと、さほど深く考えずに頷いた。
── まさか、それがこんな事になるなんて夢にも思わずに。
思えば、あの時の彼の笑顔は、思惑通りに事が運んだ事に対するものだったのだろう。
『わたしが勝ったら何があるの?』
『そうだな…じゃあ、何でも言う事を聞くよ。あ、もちろん出来る範囲でだけどね』
『前もって予防線を張るなんて、相変わらず変な所で抜け目がないのね』
呆れたわたしに、彼は普段とは違う真剣な顔で答えた。
『約束というのは、守る事を前提にするものだろ? ぼくは出来ない約束はしない主義なんだ』
その頃、何に対しても興味が薄かったわたしに、その言葉は特に響いた訳ではなかった。
ただ、何となく頭の隅に残っていて── 彼がゲームを始めた後になって、聞き流した事をひどく後悔した。
翌日、予想もしていなかった重装備を身に着けて現れた彼は、特に緊張した様子もなく、ぽかんと事態に置き去りにされているわたしへゲーム開始を告げた。
『じゃあ、待ってるから』
『ちょ、ちょっと待って、何処に行くのよ?』
『何処って特には決まってないけど…でも、大丈夫。ちゃんと手掛かりは残して行くし』
『そういう問題じゃないでしょ!?』
流石にその時点で、彼がただの『追いかけっこ』をするつもりでない事はわかった。
何をしようとしているのかも。…そこまで浅い付き合いでもない。
混乱するわたしをじっと見つめ、彼はゆっくりと首を振った。
『ゲームに乗るといったのは君だよ?』
『それはそうだけど…だからって!』
『…そう言えば、ぼくが勝った場合の事を決めてなかったね』
『人の話を聞いているの!?』
『君こそぼくの話を聞いてくれよ。…わかっているんだろう? このままじゃ…ここに居続けたら、近い将来、君は…死ぬ』
『…──!』
それは事実。
自分で伝えた訳でもないのに、何故それを彼が知る事になったのか今でもわからない。
目を背けていたその事を突き付けられ、わたしは言葉を失った。
強引に手渡されたのは小さな端末機。それは追跡用のもの。
あまりの展開の早さに呆然と立ち尽くせば、現実を拒否する意識の向こうから彼の声が届く。
『だから行くよ。そして、ぼくがゲームに勝ったら──』
そこで初めて、彼は言葉を躊躇った。
腕が延ばされ、そのまま抱き竦められる。乱暴な抱擁。けれど、何故か振りほどく気にはならなかった。
やがて、耳元で苦しげな言葉。まるで泣くのを堪えるような。
『…君に、最後まで生きてもらうんだ。いつか死ぬにしても、こんな壊れた場所でなくて…もっと、違う場所で。笑って、生きてて良かったって言える場所で── 絶対に、見つけるから』
そして── 彼とわたしのゴールのない『追いかけっこ』は始まった。
+ + +
少しずつ蝕まれてゆく身体。内側からゆっくりとゆっくりと腐れて行く。
どうしようもないほどに壊れてしまったこの世界は、人だけでなくあらゆるものが少しずつ腐食してゆく。
── 完治は不可能。
その進行を抑える為には、汚れない大気と大地が必要で。
広い世界の何処かに、そんな場所がまだ残っていると彼は信じた。そして行く先々で道標を残し、わたしを導く。
追いかけておいで、そう彼はわたしに言った。
一緒に行こう、ではなく、自分一人の力でついておいでと。
…彼はきっと気付いていたのだ。わたしが口ではいろいろ言いながら、最初から生きる事を諦めていた事を。
足掻く事すら、しようとしていなかった事を。
だって── 仕方ないでしょう?
近い将来訪れる『終わり』を前に、何を足掻けばいいと言うの。一秒でも長く生きて、それが何になる? ただ、苦しみが長引くばかりだ。
わたしは…弱い。
いつ『終わり』が訪れるのか怯えているくせに、その場に立ち止まって、何でもないような顔をして── 自分を騙して。
そのくせ、一人ではいられなくて。
怖くて怖くて、耐えきれないから、彼の側にいた。
自分と正反対の彼の側は、とても居心地が良かったから。
他愛のない会話。時々喧嘩をしては仲直りして。
触れ合った体温は自分がまだ生きてる事を教えてくれた。
けれど、わたしは受け取るばかりで彼に対して何も返そうとはしなかった。言葉すら。
感情を殺せば周囲を騙せるのだと勝手に思い込んで。彼の目に自分がどう映っているのかなんて、気にもしてなかった……。
彼は強い人。一人で生きてゆける、一人で何処へだって行ける。…わたしとは違う。
けれどそんな人でも、未開の地を行く危険はその後を追うわたしの比ではない。
命がけで道を拓き、その土地を調べ、また次へ── 一体その力は何処から来るのだろう?
端末を開き、発信機の光が先へと移動している事で彼が無事である事を知る。少しずつ少しずつ、縮まる距離。
背後を振り返れば、そこは崩壊した世界。
空も大地も壊れ果てて、多くの人が死に、今も死に瀕している場所。
そこから抜け出そうと旅立った人は数知れない。そして、彼等が新天地を手に入れられたのかも、不明のまま。
何処かで野垂れ死んでいるさ── 多くの人が鼻で笑った彼等を、わたしは心から称賛する。
死を甘受する事は勇気ではない。彼を追う旅の中、わたしはその事を学んだ。
やり方はどうであれ、彼等は生きる事を諦めなかったのだ。そう、彼と同じように。
行く先々に何かしらの形跡を残し、彼は何処まで行くのだろう。
わたしは何処まで、追う事が出来るだろう。いつまで、この足は言う事を聞いてくれるだろうか。
── ああ、生きたい。
一日でも長く、一分、一秒でも長く。
彼の思惑とは少し違うだろうが、ゲームを始めてから確かにわたしは生きる事を渇望するようになった。
願わくば── どうか、一目だけでも。一言だけでも。
そう、わたしが彼を追うのは、勝敗をつけたいからではない。命が惜しいからでもない。
ただ、…── ただ、彼にもう一度会って、わたしの思いを伝えたいだけなのだ。
今まで一度として、形にしなかった想いを彼に伝えたいのだ。
その為にわたしはここまで来た。
出来ない約束はしないと言った彼は、いつかきっと楽園を見つけ出せるだろう。そこにわたしが辿りつけなくても、彼ならきっと──。
だからこそ追い着いてみせる。
彼に勝ったその時、わたしは彼に願うのだ。
わたしの為でなく、今度は彼の為に楽園を追い求めて欲しいと──。
彼が命がけでわたしをあの場所から連れ出したように、その為にわたしはこの命をかける。たとえ燃やし尽くしても、何かが残せると今は信じられるから。
+ + +
『あなたは愛するもののために死ねるか』
── 問われて彼女は鮮やかに笑う。
「ええ、もちろん。それはなんて最高の人生。たとえ一緒に生きられなくても、あの人を守られるならわたしの命なんて惜しくはない。相手を第一に想う事こそ『愛』でしょう?」
+ + +
あなたが好き。
この壊れた世界で、愛せるものはあなただけ。
信じるものはあなたの足跡。
約束は── 守る前提で交わすものと彼は言った。だからわたしは追いかける。
あなたはきっと、約束を守ってくれるでしょう? だからわたしも守る。
最後の一瞬まで、わたしは生きる。そして他でもない、あなたに看取られて死ぬの。
『生きてて良かった』と笑いながら。
…それは幸せ。
そしてあなたは、いつか辿り着く本物の楽園で死の影に怯える事なく生きて行く。
…それは喜び。
彼と一緒に生きる事が出来なくても。わたしは彼に生きていて欲しい。
そして、もしも。
もしも、追い着いたあなたがこの世のものでなくなっていたとしたら……。
それでもわたしは彼の願い通り、呼吸が止まる瞬間まで生きる事を諦めない。
彼の亡骸の側で、彼を想って生き続けよう。そしていつか、同じ場所で眠ろう。
行く末にあるのが、楽園などでなくてもいい。
終わりを迎える場所が、あなたの側であるならば。
そこが── わたしの終の棲家。
初めてにして最後(になりかねない)企画参加作品です。
お題は「あなたは愛するもののために死ねるか」 (曽根綾子)。
当初はこの問いかけは文中では出してなかったのですが、試しに登場人物に問いかけてみたら見事に正反対の事を答えたもので追加してみました(笑)
本当は『彼』視点も入れたかったのですが、短篇じゃなくなるので『彼女』視点のみとなっております。
元々はお蔵入りする予定だった作品なので、こうして公開する機会で得られてわたしも嬉しいです。
最後に素敵な企画を立ち上げて下さいました、桜庭 春人さまに感謝を。
そして参加者の方々と読んで下さった方々の元にも、たくさんの「アイあるコトバ」が届きますように。