死事は回る。
死んでほしくなかった。
死神の僕が、こんなことを言うなんてばからしいけれど。たくさんの命を刈り取っておいて、自分のお気に入りだけは、なんて。傲慢にもほどがあるけれど。でも、いくらなんだってこれはない。
その子は、まさに不幸と言う言葉をそのまま擬人化したような人だった。
生まれたその瞬間に彼が浴びたのは、愛の言葉ではなく機械的な”計算”だった。これで畑の収穫がいくつ増える、だの、いざって時には奴隷に出せばいい、だのと。そして、隣に座る両親の微笑みは自らの赤ん坊にではなくその”計算器”に向けられている。彼の言葉に怒る様子すらもない。それは、悪意ですらない、人間として扱われてすらいない、あまりにもむごい人間の業だった。
でも、そんなことはこの世界ではありふれていた。周りを見渡せば、老若男女みんな同じ。顔ににじむ感情が、喜びが、悲しみが、すべて一枚の紙の上の黒インキに塗りつぶされる。いや、一人にひとつ数字があればいい方で、中には紙に書かれることすらない人もいた。そして、それが当然のことだと誰もが受け入れていた。それ以外の生き方を知らないだけなのに、自分たちはその苦境を受け入れているんだと、本人たちですら思っていた。
だけど、彼の受難はそれだけでは終わらなかった。
まず、両親が死んだ。流行り病だった。彼がやっと乳離れができるようになったころだった。
彼は奴隷になった。村に身寄りのない子供を育てる余裕はない、むしろ売り飛ばした方が金になる。村長はそう判断したのだ。小汚い木箱に入れられ、奴隷船に荷物として積み込まれた。鳴き声を出すたび、他の奴隷たちの神経を逆なでして、はげしい言葉をかけられた。そんな日々が続いて数週間が経つころ、小さな空気穴から漏れる光だけが唯一の頼りとなる汚らしい木箱の中で、彼は生まれて初めて意味のある「言葉」を発した。一歳と七か月のことだった。だが、それを聞くものは、箱の中の虫たちを除いて誰一人いなかった。
彼が売られたのは、生育地から遥か東にある富裕国の”ペットショップ”だった。犬と猿と小鳥と人間がみんな仲良くショーケースに入れられて、街を行くブルジョワたちに媚びるように、ガラス越しの目線を遣っていた。彼もまた、そんな獣たちの一人だった。たまに派手な色の服をした人が来ると驚いたようにその人に這い寄って、毎度の様にガラスに顔をぶつけていた。おかげで、彼の鼻頭は人よりも少しばかりひしゃげてしまった。店主は何とかその癖を治そうとしたが、いくらムチを入れても、彼は怖がるばかりでその意図を理解できなかった。彼は頭が悪かった。彼に買い手がつかないのは、それも原因の一つだった。
そしてさらに残念なことに、このペットショップはあまり売り上げがよろしくないようだった。一週間に一度、パンパンに肥えた腹を黒いスーツで押し込んだいかにも金持ちそうな男がやってくると、エプロンを着ても隠せないほどに痩せぎすの店主は毎回ペコペコと頭を下げた。緊張しているのか、なんどもハンカチで顔の汗をぬぐっていた。何を言っているのか幼い彼にはわからなかったが、男が机を強くたたくたび、店の動物たちがギャアギャアと騒ぎだし、それに呼応するように彼も泣いた。それがさらに男の苛立ちを加速させ、そのたびに机をたたき、そしてそのたびに泣き声は大きくなった。
ある日、突然彼はペットショップから捨てられた。あるいは、彼の知らないところで何かしら計算が行われていたのかもしれないが、彼にそれを把握するすべはなかった。裏口の鉄扉を閉める直前に店主がこぼした理由は、育ちすぎてしまったから、だった。彼は、限られた語彙とはいえ言葉を話せるようになっていた。一人で立つことができるようになっていた。排泄物をまき散らすようなこともなかった。顔つきは、もはや赤ん坊と言えるそれではなくなっていた。ただでさえ人間は飼育に金がかかるのに、これではますます買い手がつかないという判断だった。
この時、彼にとって最大の不幸は、実は「外の世界に放り出されたこと」ではなかった。彼にとっての不幸は、彼が奴隷ではなくなっていたことだった。
店主は彼を奴隷として買い、そして売却することなく「所有権を放棄」した。故に、法律上彼はすでに一人の人間だった。しかし、身分もなければ知識もなく、独りで生きていく力はなかった。そして、国民ですらなかった。国民ならば、福祉の手が伸びることもあっただろう。奴隷ならば、道具として再び誰かに拾われることもあっただろう。けれど、彼はそのどちらでもなかった。文字通りの裸一貫で、彼は外の世界に放り出されてしまった。
勿論、彼には何もすることができなかった。都合の良い奇跡も、逆に都合の悪い不運も起こらなかった。ただ、自分に何が起こったのかもわからず、泣きながら大通りを歩いた。とにかく、店の前にはいられないと思った。なぜいられなかったのか、未熟な彼には説明することができなかった。胸を締め付けるような痛みが何を意味するのか、そもそも何かを意味するのか、彼は知らなかった。教えてくれるはずの人は、店に現れなかったから。教えてほしかった人は、すでに鉄扉の奥だったから。
泣きはらした瞳が、次第に汚らしく膿んできた。彼の細い瞳はあつぼったい瞼と涙袋に隠れてしまった。叫び疲れた声帯は夏の湿気も構わずに乾き、荒れ、鳴き声はしゃがれた老人の様な声に変化していった。全身は汗でぐっしょりと湿っていた。髪の一本一本にも水滴が付着し、まるで体そのものが泣いているかのようだった。そして、そんな身の毛もよだつような醜形の稚児を目の前にして、街を行く大人たちは彼から逃げていった。警察官が駆け付けたものの、彼はそれを無視して歩き続けた。バケモノのようになった彼にわざわざ触ろうとするもの好きはおらず、また何か犯罪を犯しているわけでもないので、警察官はみな彼が自分の管轄区域から出るのを見届けると、少しの罪悪感という免罪符を抱えて持ち場へと戻っていった。彼が泣き止んだのは、日もすっかり沈み誰も通りを歩かなくなったころ、ふと通りかかったよっぱらいが「うるさい」と言って路地裏に殴り飛ばした時だった。それが、彼にとって初めて自身へと直接向けられた、計算ではない「感情」となった。
その衝撃で、彼はいくつかの骨が折れていた。特に不幸なことに、足の骨が折れていた。青みがかった足首は風が吹くだけでも絶叫するほどで、彼はその場から一歩も動けなくなった。そして、手だけではい回れるほどの筋力は、彼にはなかった。ケースの中で何百日も過ごした弊害だった。
路地裏には、少しの明かりもなかった。はい回る虫たちの足音だけが響いていた。立つこともできず、地面に耳を押し付けていた彼には、その音がいっとう透き通って聞こえた。奴隷船で聞き続けた音だったので、彼はその慣れ親しんだ音に少しばかりの安らぎを感じた。けれど、それが事態を好転させることはなかった。ケガのせいで、彼の体は少しずつ弱っていた。息はとぎれとぎれになり、めはうつろで、きっと死体だと言われても違和感がないだろう様子だった。ただ一つ、彼を未だ生者だと証明するのは、何かを求めるようにして伸ばされた、その短い右腕だけだった。
────そして、その右腕の先には、僕がいたのだ。
今まさに仕事を果たさんとする、死神の僕が。
死を避けられないものだ、と言う人がいる。けれど、実はそれは正しい表現ではない。
死は、全て僕たち死神が引き起こしている。人間一人につき一人、僕たちはとりついて、その生涯を見守り、適切なタイミングで魂を抜き取る。そうすることで、彼らは「死ぬ」のだ。逆説的に言うなら、僕たちが手を下さない限り死がおこることはない。
とはいえ、事はそう簡単ではない。天網恢恢にして疎にして漏らさず、とでも言うべきか。死神がいる限りは、どれだけの時間生きようと彼らは死ぬ可能性がある。その瞬間の死は回避できても、遠く未来までの死の可能性からは逃げられない。そして、無限の時間の中で、いつかそれは現実となる。だから、何も知らない現世の人間はつい「死は避けられない」と早合点してしまうのだ。
そう、早合点である。
死は、避けられる。僕たちが手を下さない限り。
そして、僕は考えている。この子を、僕はどうするべきか。
答えを求めるように、僕は死神の業務用マニュアルを開く。
そこにはこんなことが書いてある。
《殺す前にチェックしよう!》
Q.その人ははここで死ぬのが適切か?
────イエスだ。すでに肉体はボロボロで、医学的には限界が近い。通例なら、ここで死ぬのが適切だろう。
Q.その人はここで死ぬべきか?
────イエスだ。運命値を見ても、彼には幸運と言う才能が全くない。この後奇跡が起こる可能性は0だ。苦しみを長引かせるのは神道に反する。
Q.その人はここで死んでもいいか?
────イエスだ。彼には大切にする人も大切にしてくれる人もいない。彼の死はこの世界に何も影響を及ぼさない。
全部に当てはまったら、業務を執行しましょう!
ふざけるな。
ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。
ありえない。だって、ありえないだろう。こんなことがありえていいはずがない。不運なんてものではない。ご都合主義なんてものではない。こんなバカの考えた悪趣味な劇みたいな人生で、何一つことを為せずに死ぬなんて、こんなふざけたことがあるか。僕が彼の隣にいたこの数年はいったいなんだ。彼が生きたこの数年は何だ。今もこうして生きようと必死に手を伸ばしているこの子は何だ。生まれて初めて彼自身の意志で動こうとしているこの瞬間が、その意志が、感情が、こんなシステマチックに処理されるのか。そんなにもこの子の人生は空虚だったというのか。そんなことはないはずだ。そんな残酷なことはないはずだ。名前すらないこの子が、この世界の誰にも記憶されていないこの子が、ほんの小さな尊厳すら踏みにじられていいはずがない。
死なせたくない。死なないでほしい。死ぬな。生きろ!
ああ、そうだ。やっと言えた。やっとわかった。僕は彼を殺したくないのだ。生きてほしいのだ。なぜって、君はなにか、なにかはわからないけれど、とにかくなにか、ここまでの苦労に見合うだけの幸福を────いや、見合うだけでなくたって、なにか一つくらいでも幸福を受け取る権利があるはずだ。いや、義務だ。義務がある。彼に幸福を授ける義務が世界にある。そしてそれを受けとる義務が彼にもある。ほんの数年も生きることができなかった君が、まともな人生を一秒だって歩んでない君が世界とはこんなにも汚らしいものだと貶めることは許されない。犯罪的だ。世界を生きるあまねく者への侮辱だ。
なのになんで、なんでなんだ。なんでこうなる? 何故彼は僕の前で死にかけている。何で僕だ。僕じゃなければ。いや、そんなことは関係ない。むしろ僕でよかった。僕の担当がこの子をいじめるようなことがあれば僕はそいつを許せない。ああ気持ち悪い。そうだ、あいつら一人一人にも死神がついているんだ。なんで殺さない。殺せばいい。死ね、死んでしまえ。この子を迫害する世界が気持ち悪い。何も知らずに生きている幸福な人間全てが気持ち悪い。この子の不幸を知りながら自らのために見捨てた人間には一層吐き気がする。それを傍観していた死神だって同じくらい気持ち悪い。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い! そして、何より———
なにより、何もできない僕自身が、この世で一番気持ち悪い。
……でも、無駄だ。死神は「取り憑いた人間を殺す」以外の機能を持たない、神様のお人形。当然自殺だったできないし、現世に干渉してこの子を助けるなんて夢のまた夢。
本当に、酷い話だ。
ギラリ、と。音もなく手の中で大鎌が光る。サビ一つない、艶やかな鉄の鈍色が、街の暗闇から嫌に浮いている。反射する僕の顔はこんな夜だからぼんやりとしか見えなくて、それでもまともな顔はしていないだろう、という想像はつく。
そんなしみったれた顔を打ち切るように、僕は大きく鎌を振り上げる。
そして業務は、今日も滞りなく済まされる。
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この物語が、どうかあなたの心に残りますように。




