雨音のレクイエム
雨音のレクイエム
「ビデオランド西川口」の店内に流れるBGMは、いつも同じ昭和の歌謡曲だった。
田中聡は慣れ親しんだメロディを聞きながら、返却BOXに溜まったDVDケースを一つずつ取り出していた。
二十六歳になって三年目のアルバイト生活。
大学を出てから正社員の椅子を掴めずにいる間に、世の中はどんどん動画配信サービスに移行していった。
店の売り上げは月を追うごとに落ち込み、三ヶ月後の閉店が決まったのは先月のことだった。
「また知らない作品が混じってる」
手に取ったDVDケースのタイトルを見て、田中は首をかしげた。
『夕暮れの約束』と書かれたケースは、確かにうちのレンタル店の分類シールが貼られているが、見覚えがない。
パッケージのデザインも古く、1980年代の邦画のような雰囲気だった。
バーコードを読み取り機にかざしても、在庫管理システムには該当作品が表示されない。
田中は映画好きで、特に日本映画には詳しい自信があったが、このタイトルは聞いたことがなかった。
「店長、このDVD知ってます?」
奥の事務室から顔を出した店主の西川は、眉間にしわを寄せてケースを受け取った。
「うーん、見たことないなあ。
でもウチのシールが貼ってあるってことは、昔仕入れたものかもしれない。とりあえず棚に戻しておいて」
田中は素直に従ったが、気になってパソコンでタイトルを検索してみた。
しかし、インターネット上にも『夕暮れの約束』という邦画の情報は一切見つからなかった。
夜の十時、最後の客を見送った後、田中は好奇心に負けてそのDVDを店内のプレーヤーで再生してみた。
画面に映ったのは真っ暗な映像だった。
時々砂嵐がちらつき、かすかに人影のようなものが見えるような気がする。
音声もほとんど聞こえず、ただ微かな雑音が続くだけだった。
「なんだ、不良品か」
田中は早々に再生を止めて、DVDを棚に戻した。
しかし、その夜は妙に寝つきが悪く、夢の中でさっき見た暗い映像がちらつくような気がした。
翌日、田中は重い頭痛とともに目を覚ました。
昨夜は結局あまり眠れず、なんだか体調も優れない。
しかし仕事を休むわけにはいかず、いつものように店に向かった。
昼過ぎ、常連客の山田老人が来店した。
七十五歳になる山田さんは、週に二回は必ず店を訪れる。
時代劇と昔の邦画を好む、数少ない若い常連客の一人だった。
「田中くん、体調悪そうだね」
「ちょっと寝不足で」
山田さんは心配そうに田中を見つめた後、いつものように店内をふらふらと歩き回り始めた。
しかし、昨日の『夕暮れの約束』が置かれた棚の前で足を止めた。
「これ、懐かしいタイトルだね」
「ご存知なんですか?」
「いや、正確には覚えてないんだけどね...昔、この辺りにあった映画館でこんな感じの映画を見た気がするんだ」
田中は興味を示した。
西川口に映画館があったという話は、店主から聞いたことがある。
「西川口東映のことですか?」
「そう、そう。もう四十年も前のことだけどね」
山田さんは『夕暮れの約束』を手に取り、じっと眺めた。
「借りてみてもいいかな?」
「どうぞ。でも、中身がちゃんと映るかどうか分からないので」
「構わないよ」
山田さんはそのDVDを借りて帰っていった。
田中はその後も頭痛に悩まされながら仕事を続けた。
夕方になって返却BOXを確認すると、また見慣れないDVDが入っていた。
『雨音のレクイエム』
今度のタイトルも聞いたことがない。
パッケージデザインは前回と似たような古い邦画風で、やはりうちのレンタル店のシールが貼られている。
在庫システムで検索しても、該当作品は見つからなかった。
田中は再び店内のプレーヤーで再生してみた。
画面は前回と同様に暗く、砂嵐がちらつく。
ただし、今度は微かに雨音が聞こえた。静かで単調な雨音が、延々と続いている。
十分ほど見続けたが、映像に変化はない。田中は再生を止めて、DVDを棚に戻した。
しかし、その後も頭の中で雨音が響いているような感覚が続いた。
三日後、山田さんが再び来店した。
しかし、いつもの元気な様子とは違って、顔色が悪く、足取りもおぼつかない。
「山田さん、大丈夫ですか?」
「実はね、あのDVDを見てから調子が悪くて」
山田さんは『夕暮れの約束』を返却しながら、困ったような表情を浮かべた。
「中身、ちゃんと映りました?」
「暗い画面で、よく分からなかったよ。
でも、なんだか懐かしいような、悲しいような気持ちになって...それからずっと眠れなくなってしまった」
田中は心配になった。
自分も同じような症状を感じていたからだ。
頭痛とめまい、そして妙にリアルな悪夢。
「病院に行かれた方が」
「そうしようと思ってるんだ。
でも不思議なことに、あのDVD、うちのプレーヤーじゃ最後まで見られなかった。
途中で画面が真っ暗になってしまってね」
山田さんが帰った後、田中は気になって西川口東映について調べてみることにした。
市立図書館で古い新聞の縮刷版を探すと、1983年11月15日の記事に小さく載っていた。
『西川口東映で火災、3名死亡』
記事によると、午後八時頃に映画館で火災が発生し、避難が遅れた観客三名が死亡したという。
火災の原因は調査中とあったが、続報は見つからなかった。
田中は奇妙な符合を感じた。
『夕暮れの約束』も『雨音のレクイエム』も、どちらも午後八時頃に返却BOXで発見していた。
ただの偶然だろうか。
翌日、田中は店主の西川にその話をしてみた。
「ああ、東映の火災ね。俺もよく覚えてるよ。
あの時はまだ子どもだったけど、大騒ぎになったからな」
「何か関係があるんでしょうか?」
「さあね。でも、あの事故の後、しばらくこの辺りに変なウワサが流れたことはあったな。
夜中に映画館の辺りで人影を見たとか、焦げ臭いにおいがするとかさ、まあただの噂だよ」
西川は苦笑いを浮かべたが、田中には笑えなかった。
その日の夕方、また返却BOXに見慣れないDVDが入っていた。
今度は『さよならの詩』というタイトルだった。
田中は恐る恐るプレーヤーで再生してみた。
やはり暗い画面に砂嵐。
しかし、今度ははっきりと映画館の座席が映っているのが見えた。
古い赤いビロードの座席が、暗闇の中に浮かび上がっている。
画面の奥で、何かがゆらゆらと動いているような気がした。
田中は慌ててDVDを止めた。
心臓が激しく鼓動している。
振り返ると、店内の奥で何かの気配を感じた。
しかし、誰もいない。
山田さんは結局入院することになった。
原因不明の体調不良で、検査をしても特に異常は見つからないという。
他の常連客数人からも、最近体調が悪いという話を聞いた。
共通点はあの不明なDVDを借りた人たちだった。
田中自身も日に日に体調が悪化していた。
頭痛とめまいが続き、夜は悪夢にうなされる。
夢の中では、いつも暗い映画館にいる。
座席に座って、スクリーンを見つめているが、映っているのは砂嵐だけだ。
店主の西川も心配してくれたが、田中は体調不良の原因がDVDにあるとは言えなかった。
そんなことを言っても信じてもらえないだろうし、自分でも確信が持てなかった。
ただの偶然かもしれない。
季節の変わり目で、みんな体調を崩しやすい時期なのかもしれない。
不明なDVDも、誰かが悪戯で紛れ込ませているだけかもしれない。
しかし、田中の中で不安は日々大きくなっていた。
あのDVDを見た人たちに、本当に何かが起きているのではないか。
最後の不明DVDが返却BOXに入っていたのは、閉店まで残り一週間という日だった。
タイトルは『さようなら』。
田中は迷った。
これまでのDVDを見て体調を崩している以上、これ以上変なDVDを見るべきではない。
しかし、好奇心と、これが最後かもしれないという思いが田中を駆り立てた。
夜十時、店を閉めた後、田中は意を決してDVDを再生した。
画面に映ったのは、燃え上がる映画館の内部だった。
座席が炎に包まれ、スクリーンが溶けている。
煙の中で、人影が動いているのが見えた。
三つの影が、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
田中は震えながら画面を見つめた。
三つの人影は、だんだんはっきりと見えるようになった。
男性が二人、女性が一人。みんな、田中を見つめている。
そして、彼らの口が動いた。音声はないが、なぜか田中には言葉が分かった。
「一緒に来て」
田中は慌ててDVDを止めようとしたが、プレーヤーが反応しない。
画面の中の三人は、さらに近づいてくる。
田中は立ち上がって後ずさりしたが、足がもつれて倒れてしまった。
その時、店内の電気が突然消えた。
真っ暗闇の中で、田中は床に座り込んだまま震えていた。
しばらくして電気が戻ると、DVDプレーヤーは停止していた。
田中は急いでDVDを取り出し、ケースに戻した。
手が震えて、うまく戻せない。
もうDVDをむき出しにして机の上に放置し、その日は走って家に帰った。
翌朝、田中が出勤すると、昨夜のDVDは消えていた。
『夕暮れの約束』『雨音のレクイエム』『さよならの詩』『さようなら』、謎のDVDがすべてなくなっている。
西川に聞いても、何も知らないという。
防犯カメラを確認したが、夜中に誰かが侵入した形跡はなかった。
田中は安堵した。これで一件落着かもしれない。
しかし、体調の方は一向に改善しなかった。
それどころか、昨夜のDVDを見てから、さらに悪化している気がした。
頭痛とめまいに加えて、今度は幻覚のようなものまで見え始めた。
店内で作業をしていると、時々客席の向こうに人影が見える。
振り向くと誰もいないが、確かに誰かがいたような気がする。
山田さんは未だに入院中で、他の常連客たちも姿を見せなくなった。
みんな体調を崩してしまったらしい。
そんなことを考えていると、閉店の日が近づいてきた。
田中は次の職場を探さなければならなかったが、この体調では面接を受けるのも難しい。
「田中くん、大丈夫か?顔色がひどく悪いぞ」
西川は心配そうに声をかけてくれる。
田中は曖昧に微笑んで答えた。
「少し疲れてるだけです」
しかし、実際にはもう限界に近かった。
夜は全く眠れず、昼間も集中力が続かない。
時々、自分がどこにいるのか分からなくなることもあった。
そして、閉店の前日。
田中が最後の返却BOXの整理をしていると、また一枚のDVDが入っていた。
『青春映画館』
田中は震えた。
あのDVDはまだ終わっていなかった。
これを見たら、きっともう戻れない気がした。
でも、好奇心にまけて見てしまいそうな自分もいた。
答えを知りたいという気持ちと、もう楽になりたいという気持ちが混じり合って、田中の判断力を鈍らせていた。
結局、田中はそのDVDを持ったまま店を出た。
家に帰って、再生するかどうか一晩考えてみることにした。
翌朝、閉店の日。
田中は体調不良で起き上がれず、店に行くことができなかった。
西川から心配の電話が入ったが、田中は「風邪をひいた」とだけ嘘をついた。
昨夜、結局『青春映画館』を見ることはなかった。
しかし、そのDVDは朝になると消えていた。
テーブルの上に確かに置いたはずなのに、跡形もなくなっている。
田中は、自分の記憶があいまいになっていることに気づいた。
昨夜、本当にDVDを持ち帰ったのだろうか。それとも、すべて幻覚だったのだろうか。
数日後、田中は体調不良が続くため病院を受診した。
しかし、検査結果に異常はなかった。
医師は「ストレスが原因かもしれない」と言ったが、田中にとって納得のいく答えではなかった。
山田さんとも同じような状況らしい。
原因不明の体調不良が続いているという。
ビデオランド西川口は予定通り閉店した。
田中は新しいアルバイトを見つけたが、体調の問題であまり長続きしなかった。
時々、田中は西川口の商店街を歩いてみることがある。
ビデオ店があった場所は、今はコインランドリーになっている。
そして時々、その前を通りかかると、昔の映画館の匂いがするような気がする。
あの不明なDVDが何だったのか、田中は今でも分からない。
ただ一つ確かなのは、あの体験の後、田中の日常は少しずつ変わってしまったということだった。
そして、同じような体験をした人たちが、きっと他にもいるのだろうということだった。
答えの出ない疑問を抱えながら、田中は新しい日々を過ごしている。
【完】




