第三章:始動
シャーロットがジャックの無事を確認すると、安心して医務室を後にした。ジャックは椅子に座り、先ほど起こった出来事について思考を巡らせていた。すべてがあまりにも現実離れしており、どうにかして夢として片づけようとするが、その夢はあまりに鮮明で、信じがたいほどの現実味を帯びていた。
ふと、彼は扉の外に誰かが立っていることに気づいた。静かにこちらを見つめているその人影に、ジャックは戸惑いながら声をかけた。
「……何か御用ですか?」
その謎の人物は懐中時計を取り出し、しばらく眺めた後、不意にジャックを指さして言った。
「運命の輪は、すでに回り始めている。」
もっと詳しく聞こうとした瞬間、その人物の姿は突如として掻き消えた。そこに残されたのは、床に落ちた懐中時計のみ。
ジャックは急いで追いかけようと外へ飛び出したが、先ほどまで目の前にいたはずの男の影はどこにもなかった。落ちていた懐中時計を拾い上げたが、彼の手の中で時計は次第に崩れ、最終的には一握りの灰となって消えてしまった。
ジャックは驚きと困惑を抱えながら、消えていく時計を見つめ続けた。頭の中には無数の疑問が渦巻いていた。自分に何が起こっているのか、そしてこれから何が待ち受けているのか──それが全く分からなかった。
「デスティニー(運命)、ダスト(塵)、アース(土)……」
再び、ジャックの意識はあの奇怪な空間へと引きずり込まれていった。無数の鎖、時計、牢獄が混在する異様な空間。脳内に響き渡る呪文のような言葉が頭を締めつけるような痛みを伴って繰り返され、まるで頭蓋骨が砕けそうなほどの激痛に襲われた。
鉄鎖が揺れ、空間全体が震え始める。上空からはジャック自身の時計が降りてきた。鎖に絡め取られたそれの背後では、歯車がゆっくりと動き出し、ガリガリと異様な音を立て始めた。発条の軋む音が、空間に不気味に響き続ける。
ジャックは、またしてもこの不可解で不安を掻き立てる出来事に巻き込まれていることを悟った。
その身は無数の鎖に縛られ、時計の前に磔にされる。まるで十字架にかけられた彫像のように、微動だにできない。絶望と無力感が胸を締め付け、なぜ自分がこのような状況に置かれているのか理解できず、もがいてももがいても、鎖はびくともしなかった。
歯車は回り続け、時間はねじ曲げられていく。ジャックの意識は次第に曖昧になり、巨大な力に引きずり込まれるような感覚に襲われる。その力は彼を、謎に満ちた深淵の奥底へと引きずり込もうとしていた。
……
目を覚ましたジャックは、今度は叫ぶことなく、ただ貪るように息を吸い込んだ。あの空間の圧迫感により、息すらまともにできなかった感覚が、まだ身体に残っていた。
夕陽が窓から差し込み、頬にやわらかく触れる。微風が髪を揺らし、現実の感覚が少しずつ戻ってくる。夢だったのか、現実だったのか──ジャックは頭の中を整理しようと努めた。
そのとき、シャーロットが彼のカバンを持ってやって来た。額に汗をかいているジャックの様子を見て、心配そうに問いかけた。
「どうしたの? 大丈夫?」
ジャックは軽く首を振り、「ちょっと暑かっただけ。平気だよ」とだけ答えた。
時刻は放課後。二人は連れ立って学校を後にした。
夕陽が沈み、街路には人々が足早に行き交う。ジャックは平静を装いながら歩いていたが、心の奥では、夢とも現実ともつかぬ体験の影にまだ囚われていた。
シャーロットはそんなジャックの様子に気づいていた。幼馴染として、彼の心の動きには誰よりも敏感だった。何があったのかまでは分からずとも、不安と動揺に満ちた彼の心を感じ取っていた。
二人はそれぞれの家へと戻った。家が近く、家族同士も親しいため、互いの家を行き来することは日常茶飯事だった。ジャックは両親に挨拶だけ済ませると、自室へと戻り、今日見た夢の内容を冷静に思い返しはじめた。
彼は記憶に残る言葉を紙に書き起こした。一語一句、鮮明に脳裏に刻まれていた。起きたことも、すべて丁寧に書き記した。
夜になり、夕食を簡単に済ませたジャックは、再びアーサー王と円卓の騎士に関する調査に没頭した。歴史書、伝説、小説、さらには学術論文まであらゆる資料を読み漁り、夢で見た出来事や登場人物に関係する手がかりを探そうとした。
夢だと分かっていながらも、そこには確かな「意味」があるような気がしてならなかった。
夜が更け、部屋には書物とパソコンのかすかな光だけが灯っていた。ジャックは夢の真実と、その背後にある何かを求めて、伝説の深淵へと意識を沈めていった。
ふと、何かに引き寄せられるように窓の外を見た。脳裏には全く別の景色が浮かんだ。
深夜の街角──そこでは二つの影が戦っていた。銀色の刃と、鋭く光る鉤爪が闇の中で交錯し、鋭い光線となって空を裂いていた。誰なのかは分からないが、その間に流れる緊張感と命を懸けた戦いの気配は、はっきりと伝わってきた。
不思議な衝動に突き動かされ、ジャックは部屋を飛び出した。心の導きのまま、彼は静まり返った夜の街を駆け抜けた。点滅する街灯が、より一層の孤独と不安を煽る。
小路をいくつも抜け、どれほど走ったかも分からない。たどり着いたのは、人気のない公園だった。辺りには異様な冷気が漂い、ジャックは思わず身震いした。
直感に従い、公園の奥へと足を進める。鼓動は高鳴り、不安が胸を締めつける。まるで何か重大な出来事が待ち受けているかのようだった。
そして、公園の奥に入ったそのとき──
そこには二人の人影があった。一人は貴族のような装い、もう一人は黒のロングコートに身を包み、首からは月光に照らされた黄金の十字架が輝いている。
貴族風の男は、月明かりの中で青白い肌を浮かび上がらせ、赤く光る瞳と口元の鋭い牙を覗かせていた。
──ヴァンパイア。
ジャックはすぐに悟った。英国人なら誰もが伝説として知っている存在。
対峙する黒衣の男は、そのヴァンパイアを狩る者──ハンターだった。
ヴァンパイアは唸り声を上げて一気に飛びかかる。ハンターはすぐさま拳銃を抜き、何発も連射。さらに、閃く銀の刃を手に、目にも止まらぬ速さで斬りかかった。
戦いは一瞬にして激化。ヴァンパイアは闇に紛れて弾丸をかわし、ハンターも素早く爪の攻撃を躱して応戦する。互いの動きは超常的で、ひとつひとつが命を懸けた殺意に満ちていた。
ハンターの弾丸がヴァンパイアに命中し、傷口から白い煙が上がる。だがヴァンパイアの肉体はすぐに再生し、唸りながら再び襲いかかった。彼の鋭い牙がハンターの喉を狙う。ハンターは咄嗟に斬撃を繰り出し、ヴァンパイアをはじき飛ばすが、自身の肩にも深い傷が刻まれた。
血と汗が飛び交う激闘の中、ハンターは血塗れの手で十字架を掲げ、呟くように祈りを捧げた。
「主よ、我が名はヴィエル・ツィベリン。
この穢れを断つべく、我ここに在り。
塵は塵へ、灰は灰へ……」
(※原文:"My lord, I, Vyre Zeppelin, come to rid the world of its filth, Dust to Dust, Ashes to Ashes...")
彼の声は静寂の夜に響き渡り、威厳と神聖な決意に満ちていた。
十字架を高く掲げる彼は、ヴァンパイアの赤い眼をまっすぐ見据え、次の瞬間、稲妻のごとく斬りかかった。
その剣が、彼の信念そのものであるかのように──
ジャックはただ呆然とその戦いを見つめていた。現実とは思えない光景が目の前に広がり、彼はただ祈ることしかできなかった。
――この戦いが、彼の運命に何をもたらすのかを知る由もなく。