第26章 前夜 その二
カルラの屋敷の地下室は、ジャックの想像以上に静まり返っていた。
冷たいわけでも、湿っているわけでもない。
そこにあったのは、人為的に保たれた――「隔絶感」だった。
分厚い石壁が外界の音を完全に遮断し、壁灯の中でかすかに燃える青い炎だけが、壁面に安定した影を落としている。
地下室には数多くのワインが並べられており、ボトルを見るだけでも、その一本一本が高価なものであることが分かった。
カルラはジャックに着席するよう目配せし、自身はワインを一杯注ぎに向かった。
長いテーブルの片側にジャックが腰を下ろすと、カルラは手にしていた赤ワインを、彼の前に静かに置いた。
「そんな顔をしないで。」
テーブルの向かいに立ち、腕を組んだままカルラが言う。
「どうしたの。まさか――お酒が飲めない、なんてことはないでしょう?」
「……あまり、好きじゃないんです。」
ジャックは軽く咳払いをし、視線を逸らした。
「……それで、わざわざここに連れてきた理由は何ですか。カルラさん。」
カルラはすぐには答えなかった。
壁際へと歩み寄り、刻まれた紋章の一つに指先でそっと触れる。
次の瞬間、防音結界が完全に閉じられた。
盗聴の心配がないことを確認してから、彼女は再び振り返る。
カルラは、それ以上の説明をしなかった。
ただ手を上げ、ゆっくりと手袋を外す。雪のように白く、しなやかな指が露わになった。
銀色の小刀が、彼女の指腹をわずかに裂く。
大げさな傷ではない。
ほんの細い切り口――だが、そこからすぐに温かな血の雫が滲み出した。
その赤は、彼女の肌の上で異様なほど鮮烈に映っていた。
「……飲みなさい。」
カルラは指先を彼の前へ差し出した。近すぎる距離に、ジャックの顔が一瞬で熱を帯びる。
彼は視線を逸らしたが、その香りに引き寄せられ、結局完全には目を背けられなかった。
血の匂いは想像していたよりもずっと柔らかく、かすかでありながら確かな存在感をもって、ゆっくりと空気に広がっていく。
カルラは、彼の動揺に気づいていた。
「……どうして赤くなってるの?」彼女はわずかに目を細め、からかうとも取れる声音で言う。
「今さら、必要だって知らないわけじゃないでしょう。」
「それと……慣れるかどうかは、別です……」
ジャックは小さく呟いたが、伸ばした手はなかなか彼女に触れられなかった。
カルラは小さく息を吐き、ふいに一歩前へ踏み出す。
次の瞬間、彼女はジャックの手首を掴んだ。
「顔を上げて。」
命令口調に、ジャックは反射的に従う。
直後、彼女の指先が、そっとジャックの唇に触れた。
温度。吐息。そして、あの赤――
無視できないほどの近さだった。
カルラは低く言う。
「これは、あなたが正気で生き続けるためよ。」
ジャックのまつ毛が、わずかに震えた。
やがて彼は、何かを抑え込むように、そっと顔を伏せる。
触れたのは、ほんの一瞬。
血の味が、舌先に静かに広がった。
淡い。
だが、それだけで、体内のざわめきが徐々に鎮まっていくのが分かる。
ジャックはすぐに離れ、呼吸を乱しながら後ずさった。
耳まで真っ赤になっている。
カルラは手を引き、明らかに戸惑っている彼の様子を見て、わずかに口元を緩めた。
「……本当に、手のかかる人ね。」
「あなたの体質が人間より優れているのは事実よ。」
「でも忘れないで。あなたの体内には、吸血鬼の毒も確かに存在している。」
カルラの視線は冷静で、まるで事実を解剖するかのようだった。そこに感情的な評価はない。
「普通の吸血鬼は、完全に血に依存するか、長期の抑制によって精神が崩壊するか、そのどちらか。」
「……でも、あなたは違う。」
彼女は、血の滲む指を再びジャックの口元へ差し出す。
「あなたは普通の人間のように、通常の食事から栄養を摂取し、身体機能を維持できる。」
「だけど、吸血鬼としての側面は、やはり少量の血液を必要とする。」
「そうでなければ、毒素が精神を侵食するわ。」
「必要なのは、ほんのわずか。」
彼女の声が、少しだけ厳しさを帯びる。
「吸血鬼は、血を吸うことで飢えを満たし、力を高める。」
「でもあなたの場合は違う。目的は“空腹”じゃない。」
「精神への侵食を抑えるためよ。」
「だから――遠慮なく、飲みなさい。」
ジャックは一瞬、ためらった。
だが先に、指先がカルラの手に触れる。それが幻ではないことを確かめるように。
彼女の肌は、想像していたよりもひんやりとして、そして滑らかだった。冷たすぎることはない。
カルラは手を引かなかった。むしろ、わずかに指を曲げ、あの小さな傷口をよりはっきりと晒す。
血の雫が指腹を伝い、灯りの下で柔らかな光を帯びる。
ジャックは顔を伏せる。
急ぐことはなかった。
それは、慎重というより――ほとんど祈るような触れ方だった。
最初は、ほんの短い接触。
吐息が彼女の肌を撫で、確かな震えを生む。
そして彼は、ゆっくりと、カルラの指を吸い上げた。
とても、軽い。
それでも――
血の気配が、確かに口の中へと広がっていくには十分だった。
カルラは、ゆっくりと語り始める。
「吸血鬼の毒素は、身体に作用するだけじゃない。」
「それは常に精神へ圧力をかけ続ける――暴力性、渇望、そして制御不能へと導くものよ。」
「あなたが今も“あなた”でいられる理由。」
「それは、あなたの体質が三つのシステムを内包しているから。」
彼女の視線は、揺るがない。
「ハンターの血清。」
「吸血鬼の毒素。」
「そして……まだ完全には目覚めていない、第三の要素。」
一拍置いて、カルラは続けた。
「それらは互いに均衡を保ち、抑制し合っている。」
「でも――どれか一つでも変数が限界を超えれば、その瞬間に“暴走”が起きるわ。」
空気が、わずかに張り詰める。
カルラは手を引き、携えていたハンカチで傷口を押さえた。
その表情は終始冷静だったが、視線だけが、ほんの一瞬だけジャックの顔に留まる。
「……よくできたわ。」
淡々とした声だった。
ジャックは息を吐き、ようやく鼓動が落ち着いていくのを感じる。それでも、彼女と目を合わせることはできなかった。
「だから。」
カルラは彼を見据える。
「明日の選抜に出るなら、重要なのは“力”そのものじゃない。」
「感情の管理よ。」
「……明日?」
ジャックは思わず聞き返した。
「正式な選抜試験。」カルラは頷く。
「あなたは、すでに名簿に載っているわ。」
彼女はテーブルの傍へ歩み寄り、まるで軍紀を読み上げるかのように告げる。
「選抜試験は、トーナメント形式の淘汰制。」
「各試合ごとに、候補団員の中からランダムに二名が選ばれ、対戦する。」
「勝敗は結果だけでは決まらない。」
「戦術、判断力、制御能力、そして実戦での対応力――総合評価よ。」
その声は、鉄の規律のように揺るがなかった。
「各騎士団の団長が、全試合を観戦する。」
「能力を認められれば、その場で入団資格が与えられる。」
一瞬、間を置いてから、カルラは言葉を継ぐ。
「もちろん、あなたはランスロット騎士団の人間よ。」
「私の裁量で、直接入団させることもできる。」
そして、ほんのわずかに口角を上げた。
「でも――私はね。」
「騎士団の“老骨たち”にも、あなたの実力を見せておきたいの。」
ジャックは眉をひそめ、問いかけた。
「もし……複数の団長が、同じ候補団員を評価した場合は?」
「その場合――選択権は、その団員本人にあるわ。」
カルラは一切の迷いなく答える。
「どの騎士団に入るかは、自分で決めていい。」
一瞬、言葉を切り――
彼女は、最も重要な条件を付け加えた。
「選抜試験では、魔法、武器、特殊能力の使用は自由。」
「ただし――」
カルラの視線が、急激に冷え込む。
「唯一のルールは――」
「人命を奪うことは禁止よ。」
そのときだった。
地下室の反対側から、かすかな足音が響く。
扉が開き、ヴィエル・ツィベリンが姿を現した。
夜間行動用のコートを肩に掛けたまま、その表情はいつもより引き締まっている。
「全員、連れてきた。」
彼はそう言ってから、短く付け加えた。
「……信用できる連中だ。」
彼は身体を横にずらし、背後の空間を空けた。
最初に姿を現したのは、細縁の眼鏡をかけた少女だった。淡い色の長髪はきちんと後ろで束ねられている。
「フェニス・ローラ」
彼女は軽く一礼し、上品な口調で続ける。
「推理と情報統合を専門としています。」
「推理能力には、自信があります。」
フェニスは小さく微笑み、特に否定はしなかった。
次に入ってきたのは、背の高い少年だった。
細身の体躯に対し、足取りは驚くほど静かで、ほとんど音を立てない。
「ケント・アーサー」
彼は簡単に頷き、淡々と告げる。
「追跡、潜入、痕跡の回収を担当します。」
「面倒事が嫌いでね。」ヴィエルは肩をすくめる。
「一つのルートで済むなら、絶対に二つ目は使わないタイプだ。」
ケントは何も言わず、ただ静かに壁際へと移動した。
そして――最後の少女は、ほとんど“跳ねるように”部屋へ入ってきた。
「カロル・マティルダ!」
手を振りながら、眩しい笑顔を浮かべる。
「初対面なんだから、そんなに緊張しなくていいよ~!」
「情報、交渉、調整担当。」
カルラは軽く手を打ち、淡々と述べた。
「誰とでも話せるし、誰からでも話を引き出せる。」
「いい人選ね、ヴィエル。」
カルラは全員を見渡し、低く、しかし確固たる声で告げる。
「あなたたち四人は、全員――ランスロット騎士団の正式団員よ。」
「そして、ここからが本題。」
彼女の視線が、ジャックへと向けられる。
「あなたたちの調査――いや、任務は一つ。」
「明日の選抜試験の裏が、本当に“クリーン”かどうかを確認すること。」
「そして、ジャックを襲撃した事件の真相を突き止める。」
「理解した?」
四人は同時に背筋を伸ばし、直立する。
視線は正面。
余計な動きは一切ない。
一拍の間もなく、声が重なった。
「GOT IT!」




