第25章 前夜 その一
細雨は夜明け前の空気とともに静かに降り始め、廃墟に残った灰を濡れた泥へと溶かしていく。爆発の焦げた匂いはまだ消えず、どこか焚き火のような余熱が漂っていた。冷たい雨の中、そのわずかな温もりが、びしょ濡れのジャックの身体を辛うじて包んでいた。
巡回騎士による封鎖線の外、黒い車が停まる。
ドアが開き、カルラがゆっくりと降り立った。傘を差すのは随伴する老執事。年老いてなお、その動きには淀みがない。
低いヒールのブーツが泥を踏みしめる音。カルラは、爆風で骨組みだけになった小屋を一瞥すると、その目元に宿る冷気は、降りしきる雨よりも人の肌を刺す。
巡回騎士たちは整然と礼を取り、状況を報告した。カルラは黙って聞き、無言のまま煙草に火をつけ、最後に静かに尋ねる。
「ジャック・ケイルは?」
「後方におります。……かなりの重傷です。」
「案内しなさい。」
応急用のテントの中、ジャックは地面に座り込んでいた。治療班の者たちは彼に近づけず、誰も身体に埋まった銀の破片を取り出していない。血液の再生は強く抑えられ、ジャックは歯を食いしばり、ただ痛みに耐えていた。
幕がめくられ、カルラの姿が現れる。
彼女は傷だらけのジャックと、怯えたように距離を取る医療班を見渡し、何も言わずに煙を吐いた。
空気は一瞬で凍りつく。カルラが放つ威圧は、声を出さずとも周囲を従わせる。
治療班は震えながらもジャックへ駆け寄り、銀の釘と弩の破片を引き抜いていく。取り出された破片は、なお白い煙を上げていた。
ジャックは痛みに悲鳴を漏らす。カルラはわずかに眉を寄せたが、声はいつも通り冷静で、そして絶対的だった。
「ここには、もう置いておけない。」
ジャックは目を見開いた。「カルラさん……」
「拒否権はないわ。」
カルラは遮り、言い放つ。
「あなたは私の邸に移る。あそこなら、容易に侵入はできない。」
冷たい言葉なのに、不思議と温かい。命令ではあるが、それ以上に“守るための判断”だった。
ジャックは何か言おうとして、彼女の冷ややかな瞳に射抜かれ、言葉を飲み込む。
「……ありがとうございます。」
カルラは視線をテントの外、まだ燻る黒煙へ向ける。
「あなたの存在は……あなたが思うよりずっと危険なのよ。」
——
ジャックの移送を決めると、カルラは数名のハンターを呼び出した。
「ヴィエル・ツィベリン。すぐにここへ。」
およそ10分後、息を切らしたヴィエルが駆け込んでくる。湿った金髪が頬に張り付き、焦りそのままの顔で叫ぶ。
「ジャックは!? 無事なんですか!」
カルラは一瞥をくれ、静かに答える。
「生きているわ。あなたを呼んだのは調査のため。ジャックのことを一番よく理解しているのは、あなたでしょう。」
ヴィエルは背筋を伸ばし、声を張る。
「了解です! カルラ教官! 全力を尽くします!」
彼の前へ、カルラは爆破現場から回収された破片を並べた。
銀の釘、聖銀の矢じり、規格品の爆薬外殻、そして細い銀線。
「獣の仕業ではないし、事故でもない。」
一瞬だけ言葉を切り、冷たく告げる。
「これは……計画的な“殺し”よ。」
ヴィエルの瞳が大きく揺れる。
「ジャックは……ハンターに襲われた、ってことですか?」
「ジャックの証言では、選抜試験の候補者の一人。」
カルラは候補者一覧を見せ、淡々と言う。
「証拠は揃っている。動機も合理的。」
ヴィエルは拳を握りしめ、悔しげに震える。
「……ライバルを、先に消そうと……!」
カルラは頷き、指示を出す。
「ランスロット騎士団長として、内部調査を開始する。ヴィエル、あなたが主導しなさい。信頼できる者を付けるわ。」
「……了解しました。」
「その前に、一度ジャックのところへ行きなさい。」
「僕が? なぜです?」
「爆発から生き延びた。それだけで、彼は揺らいでいる。」
カルラの声は珍しく静かだった。
「彼のそばに立てるのは……いま、あなたしかいない。」
ヴィエルは胸に手を当て、深く頷いた。
「……はい。」
——
ランスロット騎士団・カルラ邸。重厚な大理石の壁、厳格な庭園、隙のない警備。空気ですら鋼の匂いがする。
ジャックは屋敷の奥へ通され、簡素だが温かい部屋が与えられた。なにより“安全”だった。
夜雨がおさまり、部屋に柔らかな灯りが落ちる。
コン、コン。
「ジャック、俺だ。」
ジャックが振り向くと、ヴィエルが扉を押し開けた。金髪はまだ湿っている。走ってきたのだろう。
彼はジャックの姿を見るなり、ようやく息をつく。
「……よかった。死んでなくて。」
ジャックは苦笑する。
「その言い方どうなんだよ。」
「だってさ、来る途中で『体中穴だらけで煙噴いてた』って聞かされて……」
ジャックの腕を取り、怪我を確認する。
「本当に重症じゃないか……」
「……まあ。めちゃくちゃ痛い。」
「銀製の傷だな。」
ジャックは黙って頷く。
ヴィエルは怒りを押し殺したように息を吐く。
「そんな傷……あと少しで……お前、死んでたんだぞ……」
言葉が続かない。
張り詰めた沈黙が二人を包む。
ジャックは視線を逸らし、軽く笑う。
「でもまあ、慣れてきたよ。訓練の時だってお前、いつも容赦しないし。」
ヴィエルの喉が上下し、彼は隣に腰を下ろす。
「いいか、ジャック。」
「これは事故じゃない。誰かが……お前を殺しに来た。」
ジャックは眉を寄せて黙った。
「俺が調べる。」
ヴィエルの声は鋼のように強く、揺らぎがない。
「絶対に、そいつを見つける。」
ジャックは彼を見上げ、微笑を浮かべる。
「ヴィエル……お前、心配してる?」
ヴィエルは息を呑む。
否定はしなかった。
「……当たり前だ。お前は……俺の“仲間”だ。」
ジャックの瞳が柔らかく揺れた。
二人の距離は近い。互いの呼吸が触れるほどに。
ヴィエルは立ち上がり、いつもの調子に戻ったように肩を叩く。
「治ったらまた訓練だ。まだ俺に勝ってないんだからな。」
「……ふふ、分かったよ。」
「それと——」
ヴィエルは気になっていたことを口にした。
「お前の体質……人間と吸血鬼の中間だろ?」
ジャックはカルラから言われたことを思い出し、頷く。
「ハンターの血清も吸血鬼の毒も入ってる。太陽も平気で、食事もできる……なのに吸血鬼扱いなんて、おかしいよな?教授の授業……寝てなきゃ聞けたのに。」
ジャックは困ったように笑い、ぽつりと言う。
「食べても……なんか腹が空く。満たされない感じがあるんだ。カルラ教官に相談したけど——」
「それで?何て言われた?」
ジャックは思い出すだけで顔が熱くなる。
「……カルラさんが、指を……切って……
俺に……その……血を……吸わせて……」
二人の耳まで赤く染まった。
そのとき——
コン。
部屋の外から、冷えた声がした。
「その話、続けてくれる?」
扉の前に立っていたのは——カルラだった。




