第23章:ケイル 其二
黒き闇がケイルを呑み込んだ瞬間、森の奥深くの空気が裂けたように震えた。それはもはや人間の呼吸ではなく、古き深淵が低く呻くような“何か”の息づかいだった。
ケイルはゆっくりと立ち上がる。
その動きは、もはや“人”のものではなかった。
背骨はしなり、伸び、四肢は異様な角度に歪む。黒い血管が皮膚の上を這い、まるで無数の細蛇が身体を覆っていくかのようだった。
双眸は灼けるような深紅に染まり、瞳孔は溶け落ちそうなほどかすんでいる。
彼が目を開いた瞬間——周囲の敵兵たちは、一斉に後ずさった。
ただ一人。
アーサー王だけは、退かない。
目の前の“怪物”を見据えながら、それでもその名を呼んだ。
「…ケイル。」
怪物がゆっくりと顔を上げた。
ほんの刹那——その瞳の奥に、まだ消えきらぬ人間の光が宿る。それは、消えかけの焔のように弱々しい光だった。
その一瞬が、アーサー王の胸を鋭く締め付ける。
「アアアアアアアアアアア————————ッ!!」
森にケイルの咆哮が響き渡る。
魂さえ引き裂かれるような悲鳴だった。
それは怒りではない。
悲嘆と痛苦の叫び。
まるで、追い詰められた獣。
まるで、泣き叫ぶしかできない弱い人間。
敵兵たちの膝が震え、陣形が崩れる。
次の瞬間——
ケイルの足元の大地が砕け散った。
赤い影が消える。残ったのは、空気が破れたような衝撃音だけ。
敵兵が顔を上げた、その瞬間。
「……?!」
紅い彗星が、彼らのただ中へ落ちた。
鮮血が爆ぜ、悲鳴を塗りつぶす。
ケイルの右腕は怪物の鉤爪のように膨張し、その一振りで十数名の兵士が紙のように斬り裂かれた。
鎧など、指先で触れれば壊れる玩具のようだった。
「撤ッ——撤退だ!!」
叫びが終わらぬうちに、ケイルの喉奥から黒い霧が噴き上がる。
無数の牙を思わせる獰猛な咆哮。
彼は敵陣へ突っ込んだ。
狂風が草原を薙ぎ払うように。
一撃ごとに、骨が砕ける音がした。
動くたび、地面が割れた。
咆哮するたび、森の鳥獣たちが一斉に逃げ去る。
誰一人、三秒と持たない。
血霧が森を漂い、悲鳴は闇に飲まれた。
最後の兵が倒れても、ケイルは荒く息を吐き続けていた。
身体のすべてが黒い闇に蝕まれて。
……。
森に、不気味な静寂が降りた。
アーサー王はそっと剣を構え、血まみれのケイルを見つめる。
彼は悟っていた。
——もう目の前にいるのは、自分の騎士ではない。
——自分を慕い、星空の下で笑っていた少年でもない。
——左腕となると誓った、あの純粋な少年でもない。
「ケイル……戻って来い。」
祈るような声だった。
ケイルが顔を上げた。
その瞳は深淵。万物を呑み込む闇。
次の瞬間、ケイルは地を蹴った。
アーサー王は歯を食いしばり、剣を握り直す。
衝撃。衝撃。衝撃。
二つの影が森中でぶつかり、轟音が木々を震わせた。
アーサー王は押し込まれ、地面が砕ける。
受けるたび腕が痺れ、握力が削がれていく。
「ケイル!!! もうやめろッ!!! お前を殺したくなんて……ないんだ!!」
叫びは泣き声に似ていた。
彼は失いたくなかった。
己と似た孤独を抱えた少年を。
忠誠を捧げた唯一の臣を。
だが、ケイルには届かない。
ケイルはもう、たった一つの願いしか持たない“獣”だ。
――力。
――血。
――救われぬ悲しみ。
凶爪が迫る。牙が鳴る。肉が裂ける音。
アーサー王は追い詰められた。
「……ここで……終わるのか。」
ケイルの瞳が紅く灼け、地獄の鬼神のように迫る。
アーサー王は剣を見た。
剣身に映るのは、もはや人とは呼べぬケイルの姿。
その姿が――胸を裂いた。
アーサー王は目を閉じ、静かに息を吐いた。
「……ケイル。
お前の……最後の誇りだけは……王である私が守る。」
そして、別れを告げるように呟いた。
「ケイル……さようなら。」
ケイルが飛びかかった、その瞬間——
アーサー王は身を沈めた。
鋭爪が肩甲を裂き、血が溢れる。
だが、彼は怯まない。
剣光が夜を割く。
刃がケイルの心臓を刺し貫く。
「——ッ!!」
アーサー王は全身の力を込めて踏み込み、巨木に激突するまで剣を押し込んだ。
剣はケイルの体を貫き、さらに背後の大樹をも穿った。
ケイルの爪は、アーサー王の頬に寸分届かず止まった。
赤い瞳に——再び瞳孔が宿る。
その奥に、微かな“人間”の光。
「……わたしの……王……?」
「ケイル……。」
「ご無事で……本当に……よかった……。」
痛みと安堵の入り混じった笑み。
ケイルは、少年の頃のように微笑んだ。
「王……ぼく……少しは……お役に……立てましたか……?」
身体が冷えていくのを、アーサー王は腕の中で感じた。
彼は剣を離し、ケイルを抱きしめる。
「王……どこに……います……? もう……見えません……」
ケイルの手が力なく落ちた。
ケイルは——アーサー王の腕の中で息を引き取った。
……。
夜。
空から雨が落ちる。
雨はアーサー王の頬を伝い、涙のように地へ消えた。
王は泣けない。
己に課した誓いがある。
だからこそ——雨が代わりに泣いた。
アーサー王は傷だらけの身体でケイルの墓穴を掘る。
土は冷たく、手は血がにじむ。
それでも、止まらない。
彼はケイルを静かに寝かせ、マントをかけた。
全てを終えると、泥に額をつけて跪く。
「王たる……私が……守れなかった……。」
風に消えるほどの、弱い声。
「星の下で笑っていたお前が……こんな別れを選ぶなんて……。」
雨と風が、アーサー王の悔恨を洗い流した。
立ち上がり、墓に手を置く。
まるで少年の頭を撫でるように。
「ケイル……お前の願いは、私が継ぐ。
大ブリテンの光は、必ず守り抜く。
十二円卓の騎士の名も、お前の名と共に記す。
国と、私と、そして未来と——共に歩む。」
背を向け、静かに去っていく。
残されたのは、墓の前を通り抜ける風だけ。
……。
沈黙した土の下で——
ケイルの指が、かすかに動いた。
黒い血脈が再び蠢く。
土が、微かに盛り上がる。
ケイルはゆっくりと——
静かに——
自らの墓穴から這い出した。
深紅の双眸が闇に灯る。
怒りの色はない。
獣の歪みも消え、外見は若い青年そのものだった。
だが、瞳は猫のように細い縦長の光を宿していた。
ケイルは自らの手を見つめる。
血の気のない白い肌には、抑えきれない力が溢れていた。
「これが……吸血鬼……か。」
雨が彼の身体の泥を流し落とす。
ケイルの胸に残ったのは、ただ一つ。
——王のもとへ、帰りたい。
その思いだけだった。




