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血を狩る者、宿命の輪に抗う  作者: Asutorufu
第二巻:騎士団選抜編
23/28

第23章:ケイル 其二

黒き闇がケイルを呑み込んだ瞬間、森の奥深くの空気が裂けたように震えた。それはもはや人間の呼吸ではなく、古き深淵が低く呻くような“何か”の息づかいだった。


ケイルはゆっくりと立ち上がる。


その動きは、もはや“人”のものではなかった。

背骨はしなり、伸び、四肢は異様な角度に歪む。黒い血管が皮膚の上を這い、まるで無数の細蛇が身体を覆っていくかのようだった。

双眸は灼けるような深紅に染まり、瞳孔は溶け落ちそうなほどかすんでいる。


彼が目を開いた瞬間——周囲の敵兵たちは、一斉に後ずさった。


ただ一人。


アーサー王だけは、退かない。


目の前の“怪物”を見据えながら、それでもその名を呼んだ。


「…ケイル。」


怪物がゆっくりと顔を上げた。

ほんの刹那——その瞳の奥に、まだ消えきらぬ人間の光が宿る。それは、消えかけの焔のように弱々しい光だった。

その一瞬が、アーサー王の胸を鋭く締め付ける。


「アアアアアアアアアアア————————ッ!!」


森にケイルの咆哮が響き渡る。

魂さえ引き裂かれるような悲鳴だった。


それは怒りではない。

悲嘆と痛苦の叫び。


まるで、追い詰められた獣。

まるで、泣き叫ぶしかできない弱い人間。


敵兵たちの膝が震え、陣形が崩れる。


次の瞬間——


ケイルの足元の大地が砕け散った。


赤い影が消える。残ったのは、空気が破れたような衝撃音だけ。


敵兵が顔を上げた、その瞬間。


「……?!」


紅い彗星が、彼らのただ中へ落ちた。


鮮血が爆ぜ、悲鳴を塗りつぶす。

ケイルの右腕は怪物の鉤爪のように膨張し、その一振りで十数名の兵士が紙のように斬り裂かれた。


鎧など、指先で触れれば壊れる玩具のようだった。


「撤ッ——撤退だ!!」


叫びが終わらぬうちに、ケイルの喉奥から黒い霧が噴き上がる。

無数の牙を思わせる獰猛な咆哮。


彼は敵陣へ突っ込んだ。

狂風が草原を薙ぎ払うように。


一撃ごとに、骨が砕ける音がした。

動くたび、地面が割れた。

咆哮するたび、森の鳥獣たちが一斉に逃げ去る。


誰一人、三秒と持たない。


血霧が森を漂い、悲鳴は闇に飲まれた。

最後の兵が倒れても、ケイルは荒く息を吐き続けていた。

身体のすべてが黒い闇に蝕まれて。


……。


森に、不気味な静寂が降りた。


アーサー王はそっと剣を構え、血まみれのケイルを見つめる。


彼は悟っていた。


——もう目の前にいるのは、自分の騎士ではない。


——自分を慕い、星空の下で笑っていた少年でもない。


——左腕となると誓った、あの純粋な少年でもない。


「ケイル……戻って来い。」


祈るような声だった。


ケイルが顔を上げた。

その瞳は深淵。万物を呑み込む闇。


次の瞬間、ケイルは地を蹴った。


アーサー王は歯を食いしばり、剣を握り直す。


衝撃。衝撃。衝撃。

二つの影が森中でぶつかり、轟音が木々を震わせた。

アーサー王は押し込まれ、地面が砕ける。

受けるたび腕が痺れ、握力が削がれていく。


「ケイル!!! もうやめろッ!!! お前を殺したくなんて……ないんだ!!」


叫びは泣き声に似ていた。

彼は失いたくなかった。

己と似た孤独を抱えた少年を。

忠誠を捧げた唯一の臣を。


だが、ケイルには届かない。


ケイルはもう、たった一つの願いしか持たない“獣”だ。

――力。

――血。

――救われぬ悲しみ。


凶爪が迫る。牙が鳴る。肉が裂ける音。

アーサー王は追い詰められた。


「……ここで……終わるのか。」


ケイルの瞳が紅く灼け、地獄の鬼神のように迫る。


アーサー王は剣を見た。

剣身に映るのは、もはや人とは呼べぬケイルの姿。


その姿が――胸を裂いた。


アーサー王は目を閉じ、静かに息を吐いた。


「……ケイル。

お前の……最後の誇りだけは……王である私が守る。」


そして、別れを告げるように呟いた。


「ケイル……さようなら。」


ケイルが飛びかかった、その瞬間——


アーサー王は身を沈めた。

鋭爪が肩甲を裂き、血が溢れる。

だが、彼は怯まない。


剣光が夜を割く。


刃がケイルの心臓を刺し貫く。


「——ッ!!」


アーサー王は全身の力を込めて踏み込み、巨木に激突するまで剣を押し込んだ。

剣はケイルの体を貫き、さらに背後の大樹をも穿った。


ケイルの爪は、アーサー王の頬に寸分届かず止まった。


赤い瞳に——再び瞳孔が宿る。

その奥に、微かな“人間”の光。


「……わたしの……王……?」


「ケイル……。」


「ご無事で……本当に……よかった……。」


痛みと安堵の入り混じった笑み。

ケイルは、少年の頃のように微笑んだ。


「王……ぼく……少しは……お役に……立てましたか……?」


身体が冷えていくのを、アーサー王は腕の中で感じた。

彼は剣を離し、ケイルを抱きしめる。


「王……どこに……います……? もう……見えません……」


ケイルの手が力なく落ちた。


ケイルは——アーサー王の腕の中で息を引き取った。


……。


夜。

空から雨が落ちる。

雨はアーサー王の頬を伝い、涙のように地へ消えた。


王は泣けない。

己に課した誓いがある。

だからこそ——雨が代わりに泣いた。


アーサー王は傷だらけの身体でケイルの墓穴を掘る。

土は冷たく、手は血がにじむ。

それでも、止まらない。


彼はケイルを静かに寝かせ、マントをかけた。


全てを終えると、泥に額をつけて跪く。


「王たる……私が……守れなかった……。」


風に消えるほどの、弱い声。


「星の下で笑っていたお前が……こんな別れを選ぶなんて……。」


雨と風が、アーサー王の悔恨を洗い流した。


立ち上がり、墓に手を置く。

まるで少年の頭を撫でるように。


「ケイル……お前の願いは、私が継ぐ。

大ブリテンの光は、必ず守り抜く。

十二円卓の騎士の名も、お前の名と共に記す。

国と、私と、そして未来と——共に歩む。」


背を向け、静かに去っていく。


残されたのは、墓の前を通り抜ける風だけ。


……。


沈黙した土の下で——


ケイルの指が、かすかに動いた。


黒い血脈が再び蠢く。


土が、微かに盛り上がる。


ケイルはゆっくりと——

静かに——

自らの墓穴から這い出した。


深紅の双眸が闇に灯る。

怒りの色はない。

獣の歪みも消え、外見は若い青年そのものだった。


だが、瞳は猫のように細い縦長の光を宿していた。


ケイルは自らの手を見つめる。

血の気のない白い肌には、抑えきれない力が溢れていた。


「これが……吸血鬼……か。」


雨が彼の身体の泥を流し落とす。


ケイルの胸に残ったのは、ただ一つ。


——王のもとへ、帰りたい。


その思いだけだった。

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