第22章:ケイル 其一
ヴィエルが部屋を出ていったあと、ジャックはベッドに身を横たえ、すぐに疲労に引きずられるように深い眠りへ落ちていった。
意識が沈み込む、その刹那——彼はどこにも存在しないはずの場所へと引き寄せられる、得体の知れない力を感じた。
音のない霧海。
底の見えない闇。
踏みしめたはずの足元は虚無で、音すら生まれない。
身体がどこかへ導かれるように、ジャックは迷いなく霧の奥へ歩みを進めた。
気づけば、彼はすでに霧を抜けていた。
微風が木々の葉を揺らし、静寂の森にかすかな寂しさの音を添えている。
耳元で、ごく小さな薪の爆ぜる音がした。
パチ…ッ。
炎が薪を舐める微かな音。
森の中央で、夜風に揺れる小さな焚き火が灯っていた。
その焚き火の傍らに、一つの背中が静かに座していた。
ひび割れと乾いた血で覆われた、擦り切れた甲冑。
布のようにぼろぼろに裂けたマント。
だというのに、その背筋は山のように揺らぎなく、世界が滅びようとも決して屈しないと告げていた。
頭上には、一面に広がる深い星河。
撒かれた砂粒のような星々が夜空を満たし、遠い光がジャックの胸の奥にまで届くようだった。
ジャックは息を呑んだ。
その背中の人物がゆっくりと顔を上げる。
金色の髪が焚き火に照らされ、瞳には星々が映り込んでいた——そこに王者の威圧はなく、長い年月を越えた静けさと慈しみだけがあった。
「来たのか……ケイル。」
その声は、遠い昔から吹いてきた風のように優しく、それでいて胸を締めつけるほど重かった。
「……王よ。参りました。」
その言葉を口にした人物は、片膝をつき王の前に跪く。
ジャックは思わず口元を押さえた。
視界が急に傾き、体は冷たく重い。全身に古傷の痛みが走る。
手を動かそうとするが、指一本思うように動かない。
その腕は、彼のものではなかった。
荒く、戦いの傷跡だらけの手——別の誰かの身体。
心臓がどくりと跳ね、ジャックは悟った。
——自分はただの「傍観者」。
この身体を操ることはできない。
静寂が落ちた。
「少し……遅かったな。」
アーサー王は責める色を見せず、ただ戦火を越えてきた者だけが持つ諦観をにじませた声で言った。
「申し訳ありません。途中で敵兵の残党と遭遇しました。」
その声は低く、掠れ、空気を震わせるほど重かった。
アーサー王はゆるく首を振った。
「無事に辿り着いてくれただけで……十分だ。」
焚き火が揺れ、夜風が木々を鳴らし、白昼の戦いの匂いが未だこの森に残っていた。
アーサー王は肩の傷口を押さえた。
鎖帷子の裂け目から血が滲み出ているのに、まるで痛みを感じていないかのように淡々と続けた。
「ケイル……今の状況、お前はどう見る?」
ケイルは一瞬黙し、深く思考しているようだった。
ジャックにも、この身体の心臓が速く打ちながらも冷静を保とうとするのが伝わってきた。
「敵の数は多いですが、我らの援軍ももうすぐ到着するはずです。夜明けさえ迎えられれば、突破は可能でしょう。」
アーサー王はその言葉に、静かに笑った。
それは優しく、それでいてどこか儚い笑みだった。
「夜明けまで……もつかな、私は。」
ケイルの動きが止まった。
焚き火が照らした王の横顔は、傷と疲れにまみれ、それでもなお山のように強く在り続けようとする者の顔だった。
だが彼の次の言葉には、戦場の王ではなく、一人の男の願いがのっていた。
「……ケイル。戦が終わったら、故郷に帰りたいんだ。」
アーサー王は夜空を見上げた。瞳に星が揺れている。
「子どもの頃に通った小川を歩きたい。
木の下で私に泣かされても、笑ってついてきたあの子に会いたい。
そして……母に、会いたい。」
その声は風に溶けそうなほど柔らかかった。
「戦が終われば……共に帰りましょう、王よ。」
ケイルは静かに、しかし確かな決意を込めて言う。
アーサー王は目を細め、どこか懐かしい明るさを帯びた笑みを浮かべた。
「……ああ。皆で帰ろう。円卓の皆も連れて……のんびり、休もう。」
焚き火が暖かさを増したかのようだった。
しかし——平穏は長く続かなかった。
鉄の擦れる音。
最初はほんのわずか。
次第に、それは潮のように四方から押し寄せてきた。
敵兵だ。
ケイルが鋭く剣を抜き、アーサー王も満身創痍の手を剣に結びつけるようにして構える。
「……見つかったようだな。」
アーサー王は静かに、しかしどこか疲れた声音で呟いた。
ケイルは辺りを見回し、木々の影に潜む光を見た。
無数の甲冑の反射——完全な包囲。
「王……援軍は? 彼らは半刻前には着くはずでした……!」
焦りを隠しきれず、声が震える。
アーサー王は目を閉じた。
「……おそらく、足止めされた。」
ケイルの呼吸が止まる。
つまり——
彼ら二人で、軍勢を相手にしなければならない。
矢はすでに番えられていた。
殺意が夜気を刺すように迫る。
ケイルは振り返った。
焚き火に照らされた王の顔——限界まで疲れ果て、傷にまみれ、それでもなお立ち続ける男の顔だった。
「ケイル。退け。ここは私が——」
「嫌です!!」
アーサー王は眉をひそめる。
「命令だ、ケイル。」
「王の剣は……常にあなたと共にあります!!
私はあなたの部下で、腕で、盾で……命そのものです!
王……私たちは、生きて帰るのです!!」
しかし、現実は残酷だった。
敵兵が動き出す。
アーサー王はすでに限界。
ケイルもまた、この状況を理解していた。
——突破は不可能。
だからこそ。
ケイルは息を止めた。
禁忌の力が脳裏をよぎる。
触れてはならない、誓いで封じられた力。
闇。堕落。代償は自我の喪失。
だが同時に——
唯一「王を救う」可能性。
ケイルは冷たい空気を吸い込んだ。
「……王よ。」
その声に、アーサー王の表情が強張る。
「ケイル。何を——」
振り向いたケイルは、揺るぎない瞳をしていた。
「あなたを、生かします。」
「やめろ——!」
アーサー王が踏み出した瞬間、ケイルは初めて王を突き飛ばした。
「すみません……王。
私は円卓で一番若く……
幼い私を見守り、育ててくださったのは……あなたでした。
なら……どうか、この身で……恩に報いさせてください!!!」
剣を掲げる。
その刹那。
ケイルの胸を、自らの剣が貫いた。
「ケイル!!!!!」
アーサー王の叫びは夜を裂いた。
血が大地へ流れ落ち、呪文と共に黒く滲む。
地面から黒の符が浮かび上がり、空気が歪む。
深淵が、応えた。
ケイルの身体が痙攣し、内部から引き裂かれるような痛みに震える。
「やめろ……! お前は……何を失うか……わかって——!」
「わかって……いますよ。」
ケイルは笑った。
悲しく、優しく。
「……あなたのためなら……何だって……失えます。」
次の瞬間——
黒が、彼を喰らった。
四肢が歪み、筋肉が膨れ裂け、瞳は深淵の色へと沈む。
最後に残った“人”の光が、揺らぎながら王を見つめた。
「王……ごめ……んな……さ……い——」




