第十八章 休止
「この話はここまでにしましょう。いくら議論しても結論は出ないわ。さあ、食事に行きましょう。」
カルラは手元の本をパタンと閉じ、ようやく昼の時間に差しかかっていることに気づいた。
「賛成!言われてみれば、確かに腹減ったなぁ。」
ウィールは思わずごくりと唾を飲み込み、食事という提案に目を輝かせた。
ジャックも頷き、その提案に同意した。
三人は図書フロアを後にし、食堂へと向かった。時計塔の中には静寂と神秘が漂っていた。
霊降ろしの儀式についての議論はひとまず脇に置き、まずは腹ごしらえ。しっかり食べてこそ、謎を解くための活力が湧くというものだ。
カルラは自分のお気に入りのレストランへ二人を連れて行った。
だが席に着こうとしたその時、周囲の客から異様な視線がジャックに注がれた。
「教官、やっぱり僕、外に出ます……」
ジャックは周囲の視線に不快感を覚え、店を出ようと踵を返しかけた。
だがカルラがそれを制し、首を横に振ってから二人を店の中央の席へと導いた。
「食事っていうのは、自分が一番好きな店で、一番快適な席に座って楽しむものよ。
周囲の不満そうな視線の中で、あえて楽しそうに食べる。これも一つの醍醐味ってもの。」
カルラは優雅に椅子に腰かけ、周囲のざわめきを意にも介さずに言った。
「紳士の皆さん、お座りなさい(Gentlemen, take your seats.)」
彼女の口調はあくまで冷静で、堂々としていた。
ジャックはその瞬間、ほっと胸を撫で下ろした。彼とウィールはカルラの後に続いて席に着いたが、まだ注文すらしていないうちに、店内の一人が立ち上がり、ジャックに対して「ここから出ていけ」と要求してきた。
「まったく……ジャック、あなたの評判はすごいわね。出自も分からない若造にまで顔を知られてるなんて、まるで蟻の巣を踏み潰したかのよう。」
カルラはテーブルのナプキンで手元のカトラリーを拭きながら淡々と言った。彼女はその男に対して、最初から一瞥もくれなかった。
その男は憤りをあらわにしてカルラに身を乗り出し、彼女の手からカトラリーをはたき落とした。
「自分が誰に口をきいてるのか分かってるのか?お前みたいな無礼な……」
しかし、その言葉が終わる前に、男はバタンと床に倒れ込んだ。
彼には何が起きたのか分からなかった。周囲の客から見ても、誰一人彼に触れてはいなかった。それなのに突然の出来事に、店内は一瞬にして静まり返った。
だがジャックの目には、はっきりと見えた。
カルラは座ったままだったが、彼女の手から霧のような虚影がふわりと飛び出し、人の形をとった。それが男の首筋に手刀を叩き込み、彼を昏倒させたのだ。
この騒ぎに気づいた店のマネージャーが笑顔で駆け寄ってきた。
だがカルラの顔を見るなり、その笑顔はさらに柔らかくなり、何も問わず、ただ一つの視線をスタッフに送った。
すぐに数人の店員が男を引きずるようにして店の外へと連れ出し、「今後一切の来店を禁ずる」と通告した。全ての動きは無駄がなく、実に整然としていた。
「カルラ様、先ほどの無礼者について心よりお詫び申し上げます。
当店は、喧嘩を売る者、そして差別的な言動を取る者を一切歓迎いたしません。どうかご容赦ください。」
マネージャーは深く頭を下げ、丁寧に謝罪した。
「大丈夫よ。あの程度の雑音では、上品な育ちと教養で磨かれた私の心を乱すには程遠いわ(The chatter of such insignificance fails to disturb the serenity cultivated by a refined upbringing and genteel disposition.)」
カルラは微笑みながらそう答えると、彼女の隣に立っていたマネージャーを紹介した。
そのマネージャーの名はヘンリー。
洗練され、経験豊かな紳士であった。彼は精緻なスーツに身を包み、真っ白なシャツにきちんと締めたネクタイが、彼の細部へのこだわりと上質な趣味を物語っていた。
髪型もきっちりと整えられており、その姿からは成熟した落ち着きとプロフェッショナリズムがにじみ出ていた。
彼の話しぶりは自信に満ち、ひとつひとつの言葉がはっきりと力強く、それでいて穏やかであった。
歩く姿も優雅で、彼の一挙手一投足がまるで店内の空気の流れを調律しているかのように見えた。
先ほどの騒動でも、ヘンリーはまったく動揺する様子を見せなかった。彼の目には揺るぎない自信が宿り、決して侵犯できない威厳すら感じさせた。
彼の采配のもと、スタッフたちは速やかに行動し、問題を見事に処理してみせた。その動きは、まさに一流のマネジメントであった。
カルラはそんなヘンリーの手際に、心からの敬意を抱いていた。
彼の老練さ、優雅な立ち振る舞い、そして料理とサービスに対する情熱は、まさに中年英国紳士にしか出せない気品を纏っていた。
「ヘンリー、今日の料理はあなたにお任せするわ。」
カルラは手元のメニューをヘンリーに渡しながら言った。
ヘンリーはそれを丁寧に受け取り、穏やかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、カルラ様。皆様に、最高の料理をお届けできるよう努めます。」
その声は落ち着きがありながらもどこか心を和ませる響きを持ち、料理への愛情と客人への敬意を感じさせた。
そのとき、カルラがふと思い出したようにジャックへと声をかけた。
「そういえばジャック、ウィールが一つ、あなたに伝えていないことがあるの。」
「えっ?僕、何か言い忘れたっけ?」
ウィールは首をかしげながら問い返す。
「ええ、とても大事なことよ。」
カルラは水を一口含んでから、静かに続けた。
「すべての騎士団には“選抜”というものがあるの。選抜とは、いわば闘技場でのバトルロワイヤル。新人たちはそこで力を競い合い、あらゆる“許された手段”を使って対戦相手を打ち負かす、またはリング外に叩き出す。つまり、"血を見るのは避けられないということ"。」
「その試練の中で、団長たちの目を引くか、圧倒的な実力を示すことができれば、晴れてその騎士団に入団できる。でも、そうでなければ――選抜に敗れた者は、“ここでの記憶”をすべて消去されることになるのよ。」
「私はランスロット騎士団の団長として、君を直接入団させることもできる。……でもね、私は君自身の“力”を見てみたいのよ。」
カルラは静かにそう言うと、グラスの水を一口含んだ。
「ウィールは以前の選抜では、決して優秀とは言えなかったわ。でも、彼の【体系】の特異性、後天的な努力、そして生まれ持った才能があってこそ、団に残ることができた。そして今では、私の教官の一人として立派にやっているの。」
「だからこそ気になるのよ――吸血鬼の血とハンターの血清を併せ持つ君が、この選抜の場で一体どんな舞台を見せてくれるのか。歃血の儀では体系を確認できなかったけれど、その特異な肉体は、選抜で確実に光るはず。」
ジャックは席に座ったまま、俯いて何かを考え込んでいた。
その様子を見たウィールが、そっと肩に手を置き、柔らかく声をかける。
「心配しないで。選抜まではまだ時間があるし、僕がしっかりサポートするからさ、大丈夫だよ!」
そう言って親指を立ててみせたが、ジャックが抱いている不安は“選抜に受かるかどうか”ではなかった。
彼の不安は、自分の身体が、あの場で取り返しのつかない何かを起こしてしまわないか――それに尽きていた。
彼の頭をよぎったのは、あの日、自分を失いかけた記憶。
そしてカルラの口から発せられた「血を見る」との言葉。
それは、彼にとって試練の始まりであり、自身の存在への問いでもあった。
「……カルラ教官。俺は、絶対に暴走したりしません。」
ジャックはまっすぐにカルラの目を見て、力強くそう言った。
その言葉を聞いたカルラは、微かに笑みを浮かべた。満足そうに――まるで、ジャックが“言葉の奥にある意味”まで汲み取ったことを見抜いたかのように。
「え?ジャック、何の話?」
ウィールはきょとんとして尋ねたが、カルラはそれに応えず、ただウィールの方へ静かに目を向けた。
「……な、なんでもない!」
ウィールは小さく震えながらそっぽを向くと、黙って食事に集中するしかなかった。




