第十七章 穢れし者
「カルラ教官、もう一時間が経ちました……」
ヴィエルは牢の中のジャックを見つめながら、不安げに言った。
「問題ないわ。これだけ時間が経っても身体に異変が現れていないってことは、精神力がかなり強いってことよ。」
カルラはいつの間にかコーヒーを淹れており、それをゆったりと飲みながら答えた。
彼女の様子からは、ジャックの状態についてまったく心配していない様子がうかがえる。まるで、こうなることを最初から予測していたかのようだった。
牢の中では、ジャックはいまだ降霊儀式の最中にあり、カルラはその変化の瞬間をじっと待っていた。
すべては、まるで精神の奥深くで繰り広げられる戦いを観察するかのようであり、この牢獄は静謐なる観測所と化していた。
カルラは、ヴィエルが彼の周囲をそわそわと歩き回るのを見て、ため息をつきながら言った。
「そんなに心配しなくてもいいじゃない。あんたなんて、自分の時は二時間もかかってたじゃないの。私なんて一度も心配しなかったわよ?」
「教官、それは言い過ぎですよ……!それに、ジャックは僕の友達です。心配するなって言う方が無理ありますよ。」
ヴィエルはムッとした表情で答えた。
自分の儀式が二時間も続いていたことは意外だった。たしかに、彼の降霊儀式は至って穏やかで、呼び出された英霊も妙にフレンドリーだった。
――ただ、どういうわけかその英霊は、儀式中に「一緒に飲もう」と無理に酒を勧めてきて、ヴィエルはひたすら困惑していたのだった。
カルラは首を振りながら、その時のヴィエルの戸惑いを思い出して微笑んだ。
彼女には分かっていた――降霊儀式は誰にとっても唯一無二の体験であり、予想外の展開に満ちているのだ。
目の前のジャックもまた、一つの謎。
それは闇の中から現れた、新たなる問いだった。
「この儀式……勝ったのはお前だ、小僧。オレの力、好きに使え。」
開膛手は鎖に縛られ、目隠しをされ、自由を奪われたまま、そう口にした。
「だが、覚えておけ……お前もオレも、“不純(インピュア)”な存在だ。お前の末路がどうなるのか、楽しみにしているぞ。」
そう言って、彼は再び狂ったように笑い声を上げた。
ジャックは、目の前で縛られた開膛手を見つめながら、その言葉の意味を何度も反芻した。
彼の言葉は不可解で、不安を掻き立てるものであった。
――「不純」という言葉、それがジャックの胸に重くのしかかる。
勝利のはずの儀式。しかし、それは解放ではなかった。
むしろ、新たな幕開け、新たな深淵の入り口だった。
ジャックは開膛手から授かったその力を静かに受け入れながら、胸の奥に渦巻く言葉にならない感情に、ただ黙して向き合うしかなかった。
「そろそろ終わりのようね。」
カルラは何かを感じ取ったのか、手にしていたコーヒーをそっと置き、立ち上がった。
その言葉を聞いたヴィールはすぐさまジャックに視線を向けた。焦りの色が濃く浮かぶ彼の表情には、もし可能であれば今すぐにでも儀式の中へ入り、精神の奥からジャックを引き戻したいという衝動が滲んでいた。
そして――ジャックが静かに目を開けた。
その表情には混乱も動揺もなく、まるで何事もなかったかのように落ち着いていた。
目の前の二人を見つめ、彼は少し間を置いて、静かに言った。
「お二人とも……ただいま戻りました。」
「うおおおおおおおっ!!!」
突如、ヴィールが大声を上げ、カルラが驚いて肩をすくめる。
ジャックとカルラが反応する間もなく、ヴィールはそのままジャックに向かって突進した――どうやら抱きしめるつもりだったらしい。
「おい!バカッ!触っちゃダメ!!」
カルラが慌てて止めようとするも、すでに手遅れだった。
ヴィールは牢の鉄格子に抱きついた――その牢は英霊との降霊儀式のため、全体にルーンが刻まれている。
これらのルーンは、儀式中の英霊を封じ込めるための「結界」であり、さらにもう一つの機能を持っていた――すなわち、第三者の介入を拒む「防壁」としての役目だ。
儀式者が牢を出ない限り、このルーンは常に機能し続ける。
そして今――ヴィールは、まさにその「第三者」となってしまった。
「ぐわあああああああっ!!」
次の瞬間、凄まじい光とともに悲鳴が響き、ヴィールの身体は勢いよく吹き飛ばされ、壁に激しく叩きつけられた。
ジャックとカルラは、思わず顔を見合わせ、驚きと心配の色を隠せなかった。
「このバカめ!」
カルラは額を撫でながら、頭痛そうに言った。
ジャックも恥ずかしそうに頭をかき、やがて大笑いした。
ヴィールは激しくぶつかったものの、幸い重傷ではなかった。彼はゆっくりと地面から這い上がり、悔しそうで申し訳なさそうな顔をしている。
「ごめん、ごめん、ちょっと嬉しすぎただけなんだ。」
ヴィールは頭を撫でながらやってきて、少し照れくさそうに言った。
ジャックは肩を叩いて笑いながら言った。
「大丈夫だよ。これも全部順調すぎたせいで、急にこんなことが起こるから、逆に面白く感じるんだ。」
カルラはヴィールを一瞥し、次にジャックを見て言った。
「もう自由に動けるはずよ。どうやらこの儀式は本当に成功したみたいね。」
ジャックは頷き、体の変化を感じ取った。確かに何か力が湧き上がっているのを感じたのだ。
この儀式は多くの予想外の出来事に満ちていたが、最終的には成功を収めたようだった。さらに、彼は何か新たな力を手に入れたように思えた。
だが、あの切り裂きジャックの言葉はまだ彼の頭の中でこだましており、未来に対する疑念を残していた。
「つまり、この儀式で出会ったのは、切り裂きジャックだったというのか?」
ヴィールが尋ねた。
「そうだ、彼はそう名乗っていたし、僕は彼の記憶も見た。間違いないよ。」
ジャックは頭を支えながら、儀式の間に起こったことを思い返し、ゆっくりと語り始めた。
「カルラ教官、なぜそうなるのか分かりますか?」
ヴィールは首をかしげ、カルラに問いかけた。
カルラは少し考えた後、ジャックたちに続くよう合図し、二人を時計塔の図書室へ案内した。
たくさんの本棚の間を探し回り、カルラはようやく求めていた書物を見つけた。ページをめくりながら説明を始めた。
「まず、降霊儀式は、既に逝った者の霊魂を再現することが根本だ。しかし、大魔導師マーリンや皇廷魔術師の研究により完成度が上がった。彼らは、人類史に重大な貢献をした者、または英霊と呼ばれる者だけが再び現世に姿を現すように研究した。ただし、その存在が実際にあったことが前提だ。」
「だが、切り裂きジャックの過去は誰も知らない。唯一確かなのは彼が存在したことだけだ。しかし彼がしたことから考えて、僕は彼が英霊の名にふさわしいとは思えない。」
「降霊儀式のミス、つまりバグじゃないのか? プログラムってバグは付き物だろ?」
ヴィールが手を挙げて質問した。
カルラはすぐにその考えを遮り、続けた。
「違うわ。まず、この儀式は千年以上続いているが、一度も失敗したことはない。強いて言えばバグは一つだけある。」
カルラは手を伸ばし、ジャックを指差した。
「唯一のバグ、それがジャックなの。」
「え?」ジャックは疑問そうに言った。
「どうして僕がそのバグなんだ?」
カルラは本を閉じ、ジャックを見つめて言った。
「降霊儀式はまるで宝くじのように、英霊を抽選するものよ。誰も自分が引き当てる英霊が誰かはわからない。でも、その英霊の聖遺物があれば話は別。もしその遺物がその英霊の所有物であれば、聖遺物となり得るの。例えば、アーサー王を例にとると、もし儀式の中にアーサー王のマントや冠を一緒に持ち込めば、100%アーサー王に出会い、契約を結べるのよ。」
「さっきあなたが言ったように、切り裂きジャックがあなたと同じく“インピュア(不純)”だと言ったわね。私の考えでは、その答えはここにある。あなたは人間の肉体を持ちながら、吸血鬼の血と狩人の血清を混ぜ合わせている。普通なら互いに排斥し合うはずのものが、あなたの身体では完璧に融合している。それが今のあなたの非常に複雑な状況を作っているの。生き物でも人間でも吸血鬼でもない、まさに中間の存在よ。」
「切り裂きジャックについては、大量殺人を繰り返し血に飢えた男だから、魂が汚れている。多くの命を屠ったほど、その魂はさらに汚されるの。だからあなたが儀式でジャックを見たのはそのせいだと思うわ。」
カルラは深く考えながら答えた。




