第十三章:ロンドンの傷
ジャックは静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
彼の身体は、暗闇の中に浮かんでいた。
周囲には黒紫色の謎めいたエネルギーが渦巻き、その力はまるで彼の内面と繋がっているかのようだった。
そのエネルギーは、彼の視点を「観察者」に変えた。
――そして、彼の眼前に映像が広がっていく。
見えたのは、十九世紀末のロンドン。
通りや路地が静けさに包まれ、どこか幻想的な霧が漂っている。
「……ここは……ロンドン……?」
ジャックは戸惑いながら周囲を見渡した。
彼の視界に、一人の金髪の少年が現れる。
少年は飢えをしのぐために食べ物を抱え、街の人々から逃げるように走っていた。
その姿は、周囲の喧騒とは不釣り合いなほど、必死で孤独だった。
だが、その記憶はジャックと無関係なようにも思えた。
それでも黒紫の力は、彼の視界を導いていく。
場面は変わり、ロンドン東部へと切り替わる。
そこは貧困に覆われた地域――狭く、汚れた通り。
人々は必死に生きる術を探し、目の光を失いかけていた。
一人の女性が現れる。
彼女は幼い子供を抱えながら、手作りの工芸品を道端で売っていた。
生活の苦しさに耐え、希望のかけらを掴もうとするその姿には、母としての強さと愛情がにじみ出ていた。
彼女の声なき叫びは、ジャックの胸に深く突き刺さる。
十九世紀のロンドン――その不平等と苦しみが、静かに語られていた。
視界は再び転じる。
先ほどの金髪の少年が、混雑する市場の中にいた。
空腹を満たすため、警備の目を盗み、食べ物を盗もうとしている。
その目は、哀しみと飢え、そして生きたいという本能に満ちていた。
少年は人波をかき分け、いくつもの通りを駆け抜ける。
最終的に彼は、暗い裏路地へと逃げ込んだ。
誰にも見つからないようにと周囲を確かめ、ようやく安堵の表情を浮かべながら座り込む。
彼は大事そうに、腕に抱えていた食べ物を撫でた後、まるで宝物のように口に運び、必死に食べ始めた――。
「これが……お金持ちの食べるお菓子……?」
少年は目の前の美味に目を見張った。
今まで、彼はショーウィンドウ越しにしか――棚に並べられたそれらの菓子を見たことがなかった。
「誕生日には……こんなのを食べるんだな……」
そう呟いた彼の瞳に、ぽろぽろと涙が浮かぶ。
それは、苦しさと悔しさ、そして心からの喜びが入り混じった涙だった。
「ダメだ……姉ちゃんが言ってた……誕生日には泣いちゃダメって……」
「こんなに美味しいのに……泣いてたらもったいないよな……!」
少年は手の甲で涙を拭うと、手に持っていた食べ物を最後まで大切そうに食べ、
その残りを丁寧に包み直して、街の中心部へと駆け出した。
◆ ◆ ◆
金髪の少年は、混み合う市街地を抜けていく。
そしてたどり着いたのは――ロンドンのスラム街。
さきほどまでいた街並みとは、まるで別世界のようだった。
色褪せ、崩れかけた建物。
壊れた窓は補修もされず、壁には落書きとひび割れが無数に走っていた。
その全てが、この地に根付いた貧困と苦悩を物語っているようだった。
汚れた路地には、ゴミが散乱し、路上生活者や行き場のない人々の姿がそこかしこにある。
市場に並ぶ食べ物は、さきほど少年が見た富裕層の菓子とは比べものにならないほど、質素で粗末だった。
スラムで生きる人々の顔には、生活に削られた年輪と痛みが刻まれていた。
――ここは十九世紀末のロンドン。
その東に位置する貧民街。
ジャックは、その光景をただ静かに見つめていた。
何かに触れようと手を伸ばすが――彼の掌は、掴もうとした物をすり抜けてしまった。
「どうやら……ここが“接続”の場なんだな。じゃあ今、俺が見ているのは……あの男の記憶?」
ジャックは思案する。
目の前に現れている金髪の少年――
彼は、先ほど自分と戦ったあの狂気じみた男とはまるで別人だった。
(いや……まったくの別人だ。何か……引っかかる)
ジャックが思考を巡らせていると、目の前の建物の扉が静かに開いた。
そこから現れたのは、一人の質素な服を身にまとった少女だった。
「姉ちゃん!」
金髪の少年は、その少女に向かって嬉しそうに駆け出す。
少女も少年を見つけると、膝をつき――二人はしっかりと抱きしめ合った。
時を超えるこの奇妙な体験に、ジャックは心の奥底でなにかに共鳴していた。
まるで自分自身がその少年の感情を追体験しているような……
温もり、安堵、愛情――
そのすべてが一瞬にして胸に流れ込んでくる。
少女はそっと少年の金髪を撫でた。
その瞳には、限りない優しさと慈愛が宿っていた。
少年はその懐に抱かれたまま、
まるでそこが世界で一番安心できる場所であるかのように目を閉じていた。
やがて、少女が静かに語りかける。
「ジャック……今日もまた盗みを働いたの?」
彼女の声には、叱責ではなく深い心配と優しさがこもっていた。
「それが……良くないことだって、分かってるよね?」
ジャックは気まずそうにうつむいたが、それでも微笑みながら小さな声で答えた。
「ごめん、姉ちゃん……でも、今回は本当に食べてない。ただ……見てただけ、ホントに。」
少女は心配そうにジャックの顔を見つめ、彼の頬についた汚れをそっと拭いながら言った。
「もう……ダメだって言ってるでしょ、盗みに行っちゃ。前に、あの人たちに何されたか……忘れたの?」
「平気だよ、姉ちゃん!」
少年は胸をどんと叩き、自信満々に言い返した。
彼にとって、どんな痛みも、どんな悲しみも――
姉の笑顔があれば癒える。
その笑顔は、この世界で彼が見た中で一番美しいものだった。
――視界が再び広がる。
ジャックは、少年と姉がスラム街で苦しい生活を送っている様子を見た。
食べ物に困り、日々を必死に生き抜いている――
だが、その中には、たしかに「絆」があった。
お互いを思いやり、支え合う、その揺るぎない情。
それは、どれほど環境が残酷でも消えることのない、
人間の奥深くにある「温もり」だった。
少年は、今、ベッドの上で穏やかな寝息を立てていた。
その枕元には、姉の姿があった。
姉は窓から差し込む月明かりに照らされながら、
静かに弟の頬を撫でていた。
その温もりが夢の中にまで届いたのか、
少年の口元には微かな笑みが浮かぶ。
――まるで時間が止まったかのような、あまりにも美しい光景だった。
姉の深い愛情と優しさが、この狭く貧しい部屋を包み込み、
温もりに満ちた世界へと変えていた。
やがて、姉は静かに立ち上がり、自室へと戻っていった。
鏡の前で身なりを整えると、
薄手のワンピースを身に纏い、そっと扉を開けた。
「……こんな夜更けに、どこへ……?」
ジャックは戸惑いながらも、その後を追った。
少女は人気のない夜道を一人で歩き、
やがて一軒の酒場の前に立ち止まる。
扉を開ける前に、彼女は服の裾を微かに直した。
必要以上に肌を見せないよう、慎重に――
「まさか……」
ジャックの胸中に、得体の知れぬ不安がよぎる。
少女はそのまま、酒場の中央にある小さな舞台へと上がり、
観客の視線を集めながら、踊り始めた。
「な……なんてことを……」
ジャックは思わず叫びそうになる。
だが、少女の踊りは派手でありながらも、
その表情には決して笑みはなかった。
――苦しみ、哀しみ、そして……諦め。
舞うたびに、心の一部が削れていく。
華やかな音楽と男たちの笑い声は、
彼女にとって耳障りな嘲笑でしかない。
だが、それでも彼女は舞う。
弟のために。
家族のために。
生きるために。
彼女の中には、まだ帰る場所がある。
眠る弟の笑顔――
それだけが、彼女の誇りであり、支えだった。
たとえ弟の前では、いつもの「優しいお姉ちゃん」でいられても、
現実は、尊厳を捨てた「名もなき犠牲者」――
それが、彼女の選んだ運命だった。
舞台の上で涙は見せずとも、
心の中ではずっと泣いていた。
それでも、彼女は止まらない。
この家を守れるのは、彼女ただ一人なのだから――




