第十二章:初戦
ジャックはその男の言葉を聞いた瞬間、背筋を冷たいものが這い上がるような感覚に襲われた。彼は何とか平静を装いながら、こう返した。
「……そうみたいだ。ここは、俺の知っているロンドンとは少し違う気がする。」
男は微笑んだ。しかしその微笑みには、どこか不穏な気配が漂っていた。
「ここは古く、そして神秘に満ちたロンドンだ。お前のような迷い人を、魅了してやまない。……だが、俺が導いてやろう。もし、お前がそれを望むのなら。」
その言葉にジャックの胸はざわついた。男の言葉には、何か引き込まれるような力がある。しかし同時に、それが奈落へと続く誘いのようにも思えた。
「……あんた、誰だ?」
男はさらに深く微笑みながら、帽子を軽く押さえた。
「俺は……答えを探し続ける者。迷宮を彷徨い続ける、探求者さ。そしてお前──」
男は手を広げ、血に濡れた街並みを指し示した。
「お前は、俺の傑作を目の当たりにした。……そして、その瞳に宿るものを見逃すほど、俺は愚かじゃない。お前は特別だ。この“逃れられぬ迷宮”に相応しい、至高の獲物となるだろう。」
男は静かに帽子を取り、優雅に一礼すると、次の瞬間、どこからともなく三本の短剣を放った。
「──ッ!」
ジャックは本能的に身を翻し、その刃を辛うじて避けた。だが、振り返ったその時には、男が既に目前に迫っていた。
「ぐっ……!」
咽喉を掴まれ、そのまま壁へと叩きつけられる。壁に激突した衝撃で、ジャックの口から鮮血が迸った。
男はゆっくりと歩み寄ってくる。その顔には、歪んだ愉悦の笑み。
「そうだ、それだ。その血しぶきを、もっと……もっと見せてくれ──!」
「──ああ!なんて素晴らしい!今の君は……とても美しい!」
男の瞳は狂気に染まり、ジャックを見つめながら陶酔したように続けた。
「混じり合った魂のその姿……実に魅力的だ!見せてくれ、君の内側を──!」
「味わわせてくれ、君の“恐怖”を……!」
その場の空気が冷たく、ねじれていく。男は両腕を広げ、まるで祈るかのように天を仰いだ。
「嗚呼……我が敬愛する聖母マリアよ……あなたの慈愛はすべての人々に降り注ぐ。こんな“罪人”の僕でさえ……あなたの加護を受けられるのだろうか……」
男は静かに微笑みながら、まるで呟くように囁いた。
「──My fair lady……」
男は狂ったように笑い声を上げながら、意味不明な言葉を口走っていた。
だが、ジャックにとってその意味はどうでもよかった。
──今は、考えている余裕なんてない。
このまま何もしなければ、ここで死ぬ。それだけは確かだった。
「……ああ、思い出した」
彼の脳裏に浮かぶのは、あの時の自分──
薇エルを軽く吹き飛ばし、法廷で即座に傷を癒したあの身体の異変。
(今の俺には……あの時とは違う“力”がある)
肩に刺さったままのナイフを思い切って引き抜いた。
血が勢いよく噴き出すが、彼の瞳に怯えはなかった。
ジャックはそのまま、自らの体を引き剥がすように敵の手から抜け出し──
「……ッ!」
渾身の力を込めて、肩に突き刺さっていたナイフを相手に向かって投げつけた。
だが──
「ふんっ」
男は、まるで踊るような優雅さで、わずかに身を翻しナイフを回避する。
「ダメだよ、そうじゃなきゃ……獲物は反撃しちゃ──」
その瞬間、彼の視界からジャックの姿が消えた。
「……ほぅ?」
男は少し目を見開き、愉悦の笑みを浮かべた。
(最初はただの臆病者かと思ったが……これは、俺を油断させるための“演技”だったか)
(ナイフも狙いは俺じゃない、視線を逸らさせて──その隙に逃げるため……)
男は口の端を歪め、ゆっくりと舌なめずりした。
「フフ……面白い獲物じゃないか」
「今頃、お前は俺が逃げたと思ってるんじゃないか!?」
男がくるりと振り返ったその瞬間──
「──っ!?」
ズドンッ!!
ジャックの渾身の一撃が、男の顎を正面から捉えた。鈍く響く衝突音。
その拳は確かな手応えをもたらし、男の身体を宙に浮かせ、石畳の路上へ叩きつけた。
「やった……!」
ジャックは心の中で小さくガッツポーズを決めた。
(成功した……この調子なら……俺は、勝てる!)
「クク……」
男はすぐに立ち上がった。
唇の端から血を垂らしながら、異様なほど楽しげな笑みを浮かべている。
「ハァ……ハァ……」
ジャックは肩で息をしながら、対峙する。
男の視線は、まるで獲物を狩る獣のように鋭く、異様な興奮に満ちていた。
「……こんな面白い獲物、初めてだよ」
次の瞬間、男が地を蹴った。
風を裂くようなスピードで、ジャックの懐に入り込む。
(くそっ、速い……!)
拳が稲妻のように迫る。
ジャックは本能的に身を逸らし、かろうじてかわす。だが相手は止まらない。
視界が大きく揺れ、霧の中、攻防が繰り広げられる。
ジャックはまだ戦いの素人。だが、その身体には確かな「変化」が宿っていた。
「……はっ!」
渾身のカウンターを狙って拳を繰り出すジャック。
だが──
「甘いっ!」
男はまるで舞うような動きでジャックの拳を回避し──その腰元から、何かを抜き放つ!
「……ッ!?」
路地に設置されたランプが、一瞬だけその「刃」に反射した。
ジャックはその閃光を見逃さなかった。
(あれは──ナイフ!?)
男の両手に光る、2本の短剣。
その刃先が、ジャックへと狙いを定めてくる──!
彼の奇襲を、ジャックは何とか避けた──だが、次の瞬間。
「……っ、がっ!?」
ドスン──!!
視界がブラックアウトする。
「う……あ……」
胸に、鋭い痛みが走った。
下を向いたジャックの目に映ったのは、己の胸を貫く「手」。
その手は、先程の男の左手だった。
「がっ……ぁ……っ!」
呼吸ができない。空気が肺に入らず、目の前の景色がぐにゃりと歪んでいく。
苦痛と共に、意識が急速に遠のいていった。
男は冷酷な微笑を浮かべ、囁くように語り出す。
「君の感覚……非常に鋭いね。腰の光に気づいた時点で、私は確信したよ」
「君は普通じゃない──肉体も、感覚も」
「だが、残念だったね」
男の右手にあったのは──ただの“ガラス片”。
「ふふ、君が壁にぶつかったときに砕けた窓の破片さ。それで注意をそらし……君の意識を“右手”に集めた」
「そして──“何も持っていない左手”こそが、君の死因さ」
ギリ……ギリリ……。
男の左手が、今度はジャックの首を締め上げてきた。
痛み。呼吸困難。視界が赤黒く染まっていく──。
「くっ……ぅ……」
(ダメだ……息が、できない……っ!)
冷たく光る男の瞳。その右目から放たれる赤い光は、魂を見透かすようだった。
「美しい……なんて美しいんだ……」
「恐怖でも絶望でもない……その魂は、まるで──異質な、混沌の色だ」
その言葉が、遠くに聞こえ始めた。
意識が、消えかけている──。
(……こんなところで、終わるのか……?)
その時──
──英雄殿堂。
──カアルラ。
──降霊の儀式。
(そうか……ここは、“儀式”の中……)
「う、うぉおおおおおおおっ!!」
ジャックは、残された全力を振り絞り、手を伸ばした。
その手は、男の顔に触れる──!
「ッぐ、がああああああっ!?」
その瞬間、黒紫の魔力が男の身体に流れ込んだ。
「なっ、なんだこれはっ……があああっ!!」
苦悶の悲鳴と共に、男はジャックの首を放した。
「ッは……!はっ、はああっ!」
ジャックは激しく咳き込み、ようやく呼吸を取り戻した。
胸の傷はなおも痛む。だが、彼の眼差しは再び強さを宿していた。
「……“儀式”だ。ならば、俺は……」
「生きて、出るしかないだろ!!」




