バッドエンド回避計画
エリスはベッドに横たわりながら、ぼんやりと天井を見つめていた。夜の静けさが耳にしんと響き、外からは時折風に揺れる木々の葉擦れの音が聞こえる。
しかし、そんな穏やかな夜とは裏腹に、エリスの心は静まることなくざわついていた。
(結局今日も、あまり進展がなかった……)
胸の奥に湧き上がる不安を押し殺しながら、エリスは今日の出来事を思い返す。
セシルが攻略対象たち――ディランやルークと接する機会を何度か作ったものの、肝心の“特別な好意”の兆しは一向に見られなかった。
(普通に接してるだけじゃ意味がないのに……)
ゲームの中では、攻略対象たちはそろそろセシルに惹かれ、特別な感情を抱き始めるはずだった。しかし現実は思った以上にうまくいかず、彼らとの関係はただの友好的なものに留まっているように思える。
エリスが望んでいるのは、もっと特別で、もっと劇的な関係の変化だ。それがなければ、攻略対象たちもハッピーエンドを迎えることはできない。
(このままじゃ……何も変わらないまま終わってしまうかもしれない)
エリスは目を閉じて深く息を吐く。ディランもルークも、セシルを嫌っているわけではない。ただ、“特別な好意”に変わるきっかけがまだ訪れていないのだろう。
そう自分に言い聞かせるものの、不安は完全には拭い去れなかった。
(もっと何かできることがあるはず……何か、二人がセシルに惹かれるようなきっかけを……)
考え込むうちに、ますます眠気は遠のいていく。枕を抱え込むようにして、エリスは悶々とした思いを胸に抱きながら再び目を閉じる。
不安と焦燥に駆られながら、エリスは眠れぬ夜を過ごすことになるのだった。
エリスは嫌でも脳裏に浮かんでくる光景を振り払おうとした。しかし、その記憶は強烈で、追い払おうとすればするほど鮮明に蘇ってくる。
(……バッドエンドだけは、絶対に回避しないと……)
あの悲惨な結末は、エリスにとって悪夢そのものだった。攻略対象たちはセシルへの信頼を失い、それぞれが孤独な道を選ぶ。希望は砕け散り、残されるのは取り返しのつかない後悔と絶望だけ――。
その中でも、エリスの心に深く突き刺さっているのはディランの結末だった。
王族としての責務に縛られ、孤高の存在でありながら、彼は内心でその立場に疑問と葛藤を抱えていた。本来なら、セシルの存在がその孤独を和らげ、彼に前を向く力を与えるはずだった。しかし、バッドエンドではその救いの光すら失われる。
陰謀渦巻く王宮で誰にも助けを求めることなく孤立していくディラン。信じていたものに裏切られ、重圧と絶望に蝕まれながらも最後まで気高くあろうと抗い続けた。
しかしその努力も虚しく、権力争いの渦中で彼は粛清の対象とされ、密かに命を奪われる。
その死は公には「不慮の事故」として処理され、真実を知る者は口を閉ざしたまま歴史の闇に葬られていく。
誰にも看取られることなく、彼の存在は静かに消え去った。
そうしてディランという存在は、物語の中でただ静かに忘れ去られたのだ。
エリスはその結末を思い出すたびに胸が苦しくなる。
(そんな結末を迎えたら……ディラン様があまりにも可哀想すぎる……)
心の奥底で軋むような苦しみが広がる。その痛みは波紋のように広がり、ディランだけでなく、他の攻略対象たちの悲しい末路までも鮮明に呼び起こしていく。
「――悪いな、もう剣は握れそうにないや」
騎士としての未来を夢見ていたルーク。しかし、ある日行われた騎士訓練中の事故によって、その夢は一瞬で崩れ去った。 彼は致命的な重傷を負い、二度と剣を振るえない身体となったのだ。
表面上は変わらぬ軽口を叩き、飄々とした笑顔を浮かべていたルーク。
けれど、その瞳からは確かにかつての輝きが失われていた。
「……仕方ないよな。オレみたいな半端者には、こういう終わり方がお似合いだろ?」
そんな言葉を残し、ルークは静かに学園を去った。
そして、その後ヒロインとルークが再び巡り会うことは二度となかった。
ルイスのバッドエンドについては、実際に攻略したことがないため詳細は不明だ。ただ、他の攻略対象たちと同じように、彼もきっと例外なく悲惨な結末を迎えることだけは間違いないだろう。
そしてヒロイン――セシルでさえ、誰にも愛されず、誰も愛することができないまま取り残されてしまう。
いつも明るく、前向きだったあの子が、次第に笑顔を失い、心を蝕まれていく。
「……誰か、そばにいて……」
その切実な願いは虚しく夜空に消え、誰にも届かないまま物語は静かに幕を閉じる。ただ、救いのない余韻だけを残して。
エリスは目を見開き、拳をぎゅっと握りしめた。
(こんな結末、絶対に迎えさせない)
胸の奥に湧き上がる焦りを押し殺し、エリスは静かに決意を固める。
セシルも、ディランも、ルークも、ルイスも――誰一人として不幸になんてさせない。
きっとそれが、この世界にいる私の使命なのだ。
エリスは窓辺に立ち、淡い陽光が差し込む庭をぼんやりと見つめていた。澄んだ空気は心地よいはずなのに、胸の奥に澱のような重さが静かに沈んでいる。
(ディラン様……セシルと少しずつ距離を縮めているのは確か。でも……)
頬杖をつき、脳裏を過るのはこれまでの出来事。確かにディランは以前よりもセシルに心を開いている。だが――。
(本来なら、今頃もっと進展しているはずなのに)
記憶の奥底から浮かび上がるのは、ゲームで描かれていた数々の重要なイベント。セシルがディランに助けられるシーン、ルークと共に困難を乗り越える場面。けれど、この世界ではそのどれもが影を落とすことなく、ただ静かに時だけが流れていく。
(……どうして?)
答えのない問いが、心の中で何度も反響する。そして、ふとした瞬間、ある可能性が胸を貫いた。
(まさか……私が原因? 私がセシルに関わりすぎて、物語の流れを狂わせている?)
気づきたくなかった疑念が、じわりと心の奥に広がる。もしそれが真実なら、誰よりも守りたかった推しの未来を、自分自身が壊しているのかもしれない。
(……私がセシルの本来のルートを妨げているのなら)
思考が喉元でつかえ、苦しさが増していく。けれど、結論はひとつしかなかった。最悪の結末を回避するためには、自分が身を引くしかない――そう、確信にも似た答えが静かに胸に落ちた。
「……もう、これ以上セシルの邪魔はできない」
その言葉は誰に向けたものでもなく、ただ自分自身への宣告だった。これ以上そばにいれば、セシルが本来辿るべき物語を歪めてしまう。だからこそ、ここで線を引くべきだ。
(……みんなが幸せになれるなら、それでいい)
そう自分に言い聞かせながら、エリスは静かに拳を握りしめた。しかし、胸の奥底で燻る微かな不安――本当にこれが正しい選択なのかという問いだけは、心の隅で小さく残っていた。
エリスはそれから、己の決意に従い、意識的にセシルとの距離を取るよう努め始めた。
もっとも、その方法は実に不自然かつぎこちないものであった。
ある日のこと、廊下でセシルが屈託のない笑顔を浮かべながらエリスに駆け寄ってきた。
「エリス~!ねぇ、今日の授業、どうだった?一緒に――」
「……ごめん。私、忙しいの。これから授業があるから」
セシルは目を瞬かせる。
「え?でも今、授業終わったばっかりだよね?」
「そ、そうなんだけど!今、急に思い出したの、あれこれやらなきゃいけないことがあって……ほら、人生って色々あるじゃない?」
そう言いながら自分でも意味が分からなくなってくる。エリスはぎこちなく笑い、そっと後ずさりを始めた。
セシルはぽかんとした顔でエリスを見つめた後、首を傾げた。
「そっかぁ……人生って、確かに色々あるよね!」と納得した様子で頷く。
その反応に、エリスは思わず胸を押さえた。
(なんて純粋なの……!こんな嘘くさい言い訳でも信じてくれるなんて、セシル……罪悪感がすごい)
「じゃ、じゃあまた後でね!」と早口で言い残し、エリスはそそくさとその場を離れた。
その背中を見送りながら、セシルは首を傾げつつ小さく呟いた。
「……エリス、最近どうしたんだろう?」
その場に残されたセシルの純粋な眼差しを思い出すたび、エリスの胸の奥には後ろめたさと妙な焦りが絡まり合い、さらに距離を取るべきか、取らないべきかで頭を悩ませるのであった。
エリスが学園の庭を歩いていると、芝生に寝そべったルークが目に入った。腕を枕に空を眺めるその姿は、いかにも気楽な自由人そのものだ。
「おやおや、こんなところで何してんのさ、エリスちゃん?」
ルークは軽く片手を挙げ、ニヤリと笑う。
「もし暇なら、俺の退屈な午後に付き合ってくれるとうれしいんだけど?」
エリスは一瞬だけ足を止め、心の中で深いため息をついた。
(また始まった……)
「……今は、ちょっと忙しいので」
言葉少なにそう告げ、そそくさと通り過ぎようとする。しかし、相手はあのルークだ。そんな程度で引き下がるはずもない。
「へえ、忙しいんだ?でもただひたすら歩いてるだけに見えたけど、それも忙しさに含まれるのかな?」
ルークは寝そべったまま、無駄に爽やかな笑みを浮かべている。
「……心を落ち着けるために歩いているんです」
「ふむふむ、なるほどね。で、俺と話すと心が乱れちゃうってこと?」
冗談めかして肩をすくめるルーク。エリスは言葉に詰まるが、冷静を装ってさらりと言い返す。
「……そうですね。おかげで余計に忙しくなりそうなので、失礼します」
淡々と言い放ち、その場を離れようとするエリス。しかし、ルークはすかさず追撃する。
「まてまて、『忙しい』って言葉、便利に使いすぎじゃない?俺の心も忙しいよ。君を見てるとドキドキしてさ」
「……それなら、心を落ち着けるために歩いてみてはいかがですか?」
今度こそ完璧な返し――と胸を張りながら歩き去ろうとするエリス。だが、背後からのルークの一言で、全てが台無しになる。
「……じゃあ一緒に歩く?」
振り返ることなく早足で去るエリスの背中に、軽薄な遊び人の声がいつまでも響き渡っていた。
(……なんで毎回こうなるんだろう)
エリスは心の中でぐるぐると巡る思考を振り払い、さらに足を速めた。
「エリス~、最近なんだか忙しそうだよね?」
廊下を歩くエリスに向かって、セシルは何の気なしに声をかけた。その表情はいつもと変わらず明るく、無邪気そのものだ。
「えっ?忙しい……?いや、別に……」
思わず言葉を濁すエリス。だが、セシルはそんなことにはお構いなしに、にこにこと笑みを浮かべながら続けた。
「そっか~、でも最近あんまり一緒に話せてない気がして……なんでかな?私、なんかした?」
その言葉にエリスは一瞬息を呑むが、必死に笑顔を作って応える。
「そ、そんなことないわよ。ほら、ちょっと忙しかっただけ」
「へえ~、そっかぁ。でも、忙しいって……何してたの?」
軽い調子でそう尋ねるセシル。その純粋さに、エリスは内心で頭を抱えた。嘘をつこうにも、この無垢な目の前ではなかなか難しい。
「……えっと、読書とか、掃除とか?」
「へえ~、掃除かぁ。私、今度一緒に掃除しよっか?」
エリスは瞬時に思考をフル回転させた。
(まずい、余計なことを言ったせいで妙な方向に話が転がり始めてる……!)
「い、いや、それは……ほら、私、一人で黙々とやる方が集中できるから……」
必死に笑顔を作りながら、何とかセシルの提案を回避しようとするエリス。しかし、その答えにセシルはますます目を輝かせる。
「へえ~、エリスって黙々と作業するタイプなんだ!すごいね、私、一人だとすぐ飽きちゃうから見習いたいなぁ。じゃあさ、今度私に黙々と掃除するコツを教えてよ!」
その無邪気すぎる提案に、エリスの思考は完全に停止した。
(え、え?なんでそうなるの?)
「いや、だから、その……私、結構独特なやり方だから、セシルには合わないと思うのよ……!」
何とか言い訳を捻り出すエリス。しかし、セシルは一切悪気のない瞳でさらに追撃してくる。
「大丈夫だよ!私、エリスと一緒ならどんなやり方でも楽しいから!」
(楽しいとか言われると断りづらいじゃない……!)
エリスは内心で頭を抱える。しかし、ここで焦っては負けだ。彼女は深呼吸をし、微笑みを浮かべて言った。
「わ、わかったわ。でも、私が忙しくない時にね!」
セシルは満面の笑顔で頷いた。
「うん!約束だからね!」
こうして、エリスは一時的にこの場を乗り切ることに成功したものの、胸の奥にじわじわと広がる不安を拭い去ることはできなかった。
そんなエリスの苦悩をよそに、セシルは「掃除楽しみだなぁ」と上機嫌で歩き去っていった。
エリスは静かにため息をつくと、次はどうやって距離を取るべきかを真剣に考え始めるのだった。




