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イベント未発生

エリスはいつも通り学園の廊下を歩きながら周囲に目を光らせていた。表向きは平静を装っているものの、心の中は常に忙しい。

(よし、あれから一週間経ったし、今日こそは進展があるかもしれない。セシルといるときにディラン様が来たら、なるべく私はいなくなるようにしていたし…ディラン様とのイベントが起きるかどうか、しっかり見届けないと)


セシルと並んで歩き始めたエリスだったが、視線は周囲をさりげなく探っていた。

(さて、攻略対象たちは……)


ルークは遠くから女子生徒に囲まれ、軽薄な笑みを浮かべながら何かを話している。普段通りの姿だ。


一方、ディランはというと、廊下の先をクラスメイトと歩いているのが見えた。ふとセシルに気づいたようで、軽く視線を向けるものの、特に何をするわけでもなくそのまま通り過ぎていった。

(あれ?これだけ? もっと、こう……優しく微笑むとか、声をかけるとかあるでしょ!?)


「エリス?どうしたの?」

セシルが不思議そうに首をかしげる。

「ううん、なんでもないよ。ただ……ディラン様と最近どう?」

「んー?普通だよ?すれ違ったら挨拶するくらいかなぁ」

「…喋ったりとかは?」

エリスは探るようにセシルに問いかけた。

セシルは少し考える素振りを見せた後「うーん、あんまり話せてないなあ」とぽつりと言った。


「ないって……どうして?」

エリスは思わず身を乗り出す。

「だってディラン様、いつも忙しそうなんだもん。たまにすれ違うけど、すぐ誰かに呼ばれて行っちゃうし……」


(ええ…何も進展してないなんてありえない!)


さらに観察を続けるエリスだったが、その後も特に進展は見られなかった。ディランとセシルはすれ違うたびに軽く言葉を交わすものの、そこに特別な雰囲気は一切ない。

(いや、ここは普通に挨拶するだけじゃなくて、照れたり、何かしら特別な反応を見せるところでしょ!?このままじゃフラグが折れる!)


一日が終わる頃には、エリスの心は疲労でいっぱいだった。攻略対象たちはセシルと普通に接しているものの、乙女ゲームなら起こるはずのイベントがまるで発生しない。

(…おかしい。まさか私が原因なわけないよね…?)


放課後の中庭。セシルが花壇の手入れをしていると、どこからともなく軽やかな声が響いた。


「やあ、セシルちゃん。今日もマメに頑張ってるね」

振り向くと、そこにはルークがいつもの笑みを浮かべて立っていた。

「こんにちは、ルーク様!」

セシルは手を止めて無邪気に笑顔を返す。

「この花、すごく綺麗ですよね!エリスにも見せてあげたいな~」

「そうだね、セシルちゃんによく似合う花だよ。いや、それよりも君自身が花みたいかな?」

さらりと甘い言葉を口にするルーク。しかし、セシルは特に気にする様子もなく、

「え?私、お花みたいですか?雑草じゃなくて良かったです!」とルークのセリフがまるで効いてない笑みで答えた。

「それにしてもルーク様って、誰にでも優しいですよね」と、セシルは何気なく言う。

「ん?まぁ、適度に優しくしておくとトラブルが減るからね」

さらっとそんなことを言い放つルーク。

「えっ、優しさってそういうものなんですか?」

セシルは首をかしげて目をぱちくりさせる。

「まぁ、人によっていろいろだよ。でも、君みたいに可愛い子には特に優しくしちゃうかな」

「なるほど!じゃあ、私もみんなに優しくしておきます!」

(……なにこの会話)と、エリスは呆れつつも二人を見守る。


「ところでエリスは?一緒じゃないの?」

「エリスはさっきまで一緒にいたんですけど、急に用ができたってさっきどこかに行っちゃいました!」

「そっか、それは残念だな」とルークは肩をすくめ、少し寂しげな顔をしてみせた。


エリスは少し離れた場所から、二人のやり取りを見守っていた。もちろん「どこかに行っちゃった」なんて事実はなく、最初からここにいる。

セシルとルークの二人きりにした方が、ルークの興味はセシルに向くのではないかと思ったのだ。


(そのまま話が盛り上がればいいけど……)


しかし、その淡い期待は見事に裏切られた。


「じゃあ、エリスによろしく言っといてくれないかな?ちょっと話したかったけど、いないなら仕方ないしさ」

ルークは片手をひらひらと振り、軽く踵を返す。


「はーい!ちゃんと伝えておきますね!」

セシルは明るく元気な声で返事をする。


(……セシル。そこは引き止めてほしい)


「おっ、サンキュー。それじゃまたな、セシルちゃん」

ルークは満足げに軽く手を振ると、そのまま軽い足取りで歩き出した。


セシルは笑顔のまま手を振り返し、ルークを見送る。


エリスは隠れたままため息をつきつつ、ルークの背中を見送った。彼が完全に視界から消えたのを見届けてから、ようやくセシルの方へ歩み寄る。


「ねぇ、セシル。ルーク様のこと引き留めなくてよかったの?」

「え?引き止める?」

セシルはきょとんとした顔でエリスを見つめる。

「だってルーク様、私じゃなくてエリスに用があったみたいだし。…あ!エリスが戻ってきた今、ルーク様を呼び戻した方がいいよね!」


「……はい?」


エリスの脳内で一瞬、思考が停止する。だが、そんなことお構いなしにセシルは「よーし!」と元気よく声を上げようとする。

「ちょ、ちょっと待って!」

エリスは慌ててセシルの腕を掴んだ。「呼ばなくていいから!」

「え?でもエリスに用があるって言ってましたよね?それなら今すぐ呼んだ方が──」

「いいのいいの!どうせ大したことじゃないと思うし…」


エリスの胸の内に、じわじわと不安が広がっていく。ルークの軽薄な態度の裏には、どこか掴みきれないものが潜んでおり、その本心は読み取れない。このまま放っておけば、セシルとルークの距離は縮まるどころか、むしろ遠ざかってしまうかもしれない。


(ルイスは最低限の好感度さえ維持できれば問題ない。でも……ディラン様をハッピーエンドに導くには、ルークの好感度も一定以上は確保しておかないといけないのに……!)


ディランが孤高の貴族であるならば、ルークはその冷たさを中和する、周囲との関係を繋ぐ潤滑油のような存在だ。彼の協力を得ることができなければ、ディランは本当の意味で幸せな未来を掴むことができない。


エリスは次々と浮かんでくる不安を振り払うように、ぎゅっと拳を握りしめ、首を軽く振った。しかし、焦燥感は拭いきれない。物語という大きな歯車が、気づかないうちにわずかに狂い始めている。そんな予感が、重く胸にのしかかっていた。



エリスは静かな庭のベンチに腰掛けていた。そよ風に揺れる木々の音が耳に心地よく響くものの、胸の奥にある重い不安は消えない。セシルを支え、ディランとセシル、それからルークの関係をうまく取り持つにはどうしたらいいのか──そのことばかりが頭を占めていた。


「はーっ……」


自分でも思わず出てしまったため息に気づき、エリスは慌てて姿勢を正す。


「おやおや、ため息なんて珍しいじゃん?」

不意に聞こえた声に驚き、エリスが振り向くと、そこにはルークが立っていた。いつもの軽い笑みを浮かべながら、彼は気だるそうに片手をポケットに突っ込んでいる。


「…ちょっと考えごとをしていただけですよ」

エリスは努めて平静を装いながら答えた。しかし、心の中は先ほどまでの悩みで渦巻いたままだ。


「考え事ねぇ。まぁ、エリスが一人で座ってる時点で、なんか真面目なこと考えてるんだろうな~とは思ったけどさ」

ルークは気だるげに肩をすくめると、まるで当然のようにエリスの隣に腰を下ろした。

「ルーク様、何か御用でしょうか?」

少しだけ警戒しつつ、エリスは冷静な声で尋ねる。

「ん?いや、たまたま通りかかっただけ」

そう言いながらルークは膝に片肘を乗せ、ちらりと横目でエリスを盗み見る。

「それにしても、エリスっていつも大変そうだよな。周りに気を遣いすぎて、疲れないの?」

「……そう見えますか?」

エリスは穏やかに答えるが、その視線はわずかにルークから逸れていた。

「見えるよ。少なくとも俺には、無理してるようにしか見えない」

ルークの言葉は軽い口調のままなのに、どこか鋭さを帯びている。その無遠慮な指摘に、エリスは一瞬だけ眉をひそめたが、反論する気にはなれなかった。

「……確かに、気を遣うことは多いかもしれません。でも、必要なことですから」

エリスは努めて淡々とした口調で答える。

「必要なこと? それ、本当に?」

ルークは小さく鼻で笑い、気怠そうに視線を空へ向けた後、再びエリスに目を向ける。

「必要だからっていうより、ただそう思い込んでるだけなんじゃない?それとも、誰かに頼まれてやっているの?」

「いえ、自分の意志でやっていることです」

エリスの静かな答えに、ルークは一瞬驚いたように目を細めた。しかしすぐに、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべる。

「へぇ、なるほどね。自分で決めてるなら……余計に厄介だな」

「……どういう意味ですか?」

エリスは眉をひそめ、戸惑いながらも問い返す。


ルークは軽く肩をすくめ、気怠そうに頭を傾けた。

「いやさ、自分で『これは自分がやるべきことだ』って思い込んでる人間って、誰が何を言おうが聞く耳持たないだろ?止めても無駄ってやつ」

その言葉に、エリスは思わず口を閉ざす。ルークはさらに軽く首を振り、今度は真っ直ぐにエリスを見据えた。

「でもさ、本当にそれってやらなきゃいけないこと?それ、もしかすると……ただの余計なお節介かもしれないよ?」

その一言が、まるで心の奥に投げ込まれた小石のように、静かに波紋を広げる。エリスは言葉を失い、視線を少しだけ逸らした。

「……ルーク様には、そう見えるのかもしれません。でも、私にとっては違うんです」

エリスは小さく息を吸い、胸の奥で燻る感情を抑えるように言葉を紡ぐ。

「放っておけないんです。見過ごしたら、誰かが傷つくってわかっているのに、何もせずにいることなんてできませんから」

その真剣な表情に、ルークはしばし黙ったまま視線を落とし、ふっと小さく笑った。

「……そっか。まぁ、らしいっちゃらしいよな。でもさ、エリス」

ルークは再びエリスを見つめ、今度は少しだけ真剣さを滲ませた声で続けた。

「誰かを守るために頑張ってる間に、肝心の自分自身が無理して傷ついたり、壊れたりすることだってあるんだぜ?その可能性、考えたことある?」

その問いかけに、エリスは少しだけ目を伏せ、僅かに拳を握る。

「……私は大丈夫です。無理しているつもりはありませんし、今までずっとこうやってきましたから」

「ほら、またそれだよ」

ルークは肩を落とし、苦笑する。

「そうやって自分は平気だって言い張る奴が、一番危ういんだって。でも……」

ルークは少しだけ目を細め、柔らかな笑みを浮かべた。

「そういう頑固なところ、俺は嫌いじゃないけどね」


エリスはルークの言葉に少し戸惑いながらも、静かに口を開いた。

「私の考えを曲げるのは、ルーク様でも難しいと思いますよ?」

その言葉にルークは肩をすくめ、気怠げに笑った。

「はは、だろうな。なんとなくわかるよ」

そして、ふと真顔に戻ると、軽く指先を振りながら続ける。

「でもさ、支えすぎて自分が潰れないように気をつけなよ。どんなに頑張ったって、限界を超えたらあっけなく崩れるもんだからさ」

「……潰れる、ですか?」

エリスはわずかに眉をひそめて問い返した。

「そう。エリスは『良かれ』と思ってやってるんだろうけど、相手からすれば『そこまでしなくてもいい』って思われてるかもしれないじゃん?自分は満足してても、相手はありがた迷惑かもって話」

その軽薄な口調に反してどこか核心を突かれたような気がして、エリスは少しだけ息を詰まらせた。しかし、すぐに冷静さを取り戻し、静かに答える。

「……それでも、長い目で見れば良い結果が得られるなら、私はやるべきだと思います」

「でもさ、結果なんてコントロールできないもんだろ?どんなに頑張っても、報われないことだってあるんだよ?」

ルークはからかうように笑いながらも、その瞳は妙に冷静だった。

「もし結果が思い通りにならなかったら?そのとき、やっぱり無駄だったって後悔しない?」

エリスは一瞬沈黙したが、ゆっくりと視線を上げ、真っ直ぐにルークを見つめた。

「……後悔することも、きっとあると思います。でも、何もしないで見過ごす方が、私はもっと後悔します」

ルークはその答えに小さく目を細め、やれやれといった様子で軽く手を叩いた。

「なるほどね。ま、エリスらしい返事だ」

そして、わざと軽い口調で続ける。

「でもさ、その覚悟って意外と重いもんだよ?潰れそうになったら、さっさと諦めるのもひとつの手だってこと、頭の片隅にでも入れておきなよ」

「……諦めることが正しいとお思いですか?」

エリスの声は、どこか挑むような響きを帯びていた。

ルークは少しだけ驚いたような表情を見せるも、すぐに柔らかな笑みを浮かべる。

「正しいかどうかなんて、俺は興味ないよ。ただ、無理して泣くくらいなら、途中でやめて笑ってた方が楽だと思うだけ。ま、エリスは最後までやり切るタイプっぽいけどね」

「その通りです。最後までやり遂げることが、私にとっての正しい選択ですから」

エリスは毅然とした態度で答えた。

ルークは面白そうに頭を掻きながら、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「だろうと思った。ま、俺が何を言ったって、君は自分の信じた道を行くだろうし、それでいいんじゃない?潰れない覚悟があるなら、好きにやれば」


(……ルークはどうしてこんなことを言ってくるんだろう?私がそんなに無理しているように見えるの?)


そんな疑問が心に残る中、ルークは立ち上がり、ひらひらと軽く手を振る。

「じゃ、俺はそろそろ行くわ。頑張り屋のエリス、潰れない程度に頑張ってね」


エリスはルークの背中が視界から消えるまで静かに見送り、ふっと小さく息を吐いた。

(……あの人、本気で何かに気づいてる?それとも、ただの気まぐれ?)


肌寒い風が頬を撫で、冷えた空気が心の奥まで入り込むような気がした。それでもエリスは胸の奥に残るわずかなざわめきを押し込めるように、ゆっくりと目を閉じる。

(今は余計なことを考えている場合じゃない。私がやるべきことは一つ、ディラン様とセシルのために――自分の役割を果たすだけ)


そう心に言い聞かせても、ルークの言葉はまるで小さな棘のように心のどこかに引っかかったまま、簡単には消えてくれなかった。

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