気付いた違和感
舞踏会の一件からしばらく時間が経った。あれ以来、ディランやルーク、そして他の攻略対象キャラたちは相変わらずセシルに優しく接している。だが、エリスはどうにも腑に落ちないものを感じていた。
(おかしい……絶対おかしい……!)
寮の自室で、エリスは机に突っ伏しながら頭を抱える。何がおかしいのかと言うと、そろそろ特定の好感度を超えたキャラとの個別イベントが発生するはずのタイミングなのに、まったくその兆候が見られないのだ。
「この時期なら、ディラン様との個別イベントが発生して、夜の庭園でしっとり語り合う展開になるはずなのに!」
エリスは顔を上げ、部屋の中をうろうろ歩き回る。
(……このままだとイベントどころか、普通の学園生活が延々と続くだけじゃない?そんなの私の知ってる乙女ゲームじゃない!)
その時、部屋の扉がノックされ、セシルがひょこっと顔を出した。
「エリス~、お菓子食べない?いいチョコが手に入ったんだよ!」
「今それどころじゃないの!」
エリスは手を上げてセシルを制する。
「こっちは乙女ゲームの進行が完全にバグってるかもしれないのよ!」
「え?乙女ゲーム?」
セシルは不思議そうに首をかしげる。
「いや、なんでもない!」
エリスは慌てて言葉を飲み込む。
(……乙女ゲームとか言っちゃったけど、こっちではそんな概念ないんだった)
放課後、セシルが手に入れたという珍しい紅茶が、湯気とともに芳醇な香りを漂わせていた。
エリスはカップを手に取り、一口含む。その豊かな味わいが舌の上に広がるはずだった。けれど、心の片隅にこびりついた悩みが、静かに思考を曇らせていた。
香り高い紅茶の余韻に浸る余裕もなく、彼女の胸に重くのしかかるのは、解決すべき問題の存在だった。どれだけ温かな味わいでも、その苦味は消えない。
そんなエリスの隣で、セシルはティーカップを手ににこやかに微笑む。
「エリス、紅茶もう少し入れる?」
「……うん、お願い」
(舞踏会の後、ディラン様とセシルの親密度がぐんと上がったはずなのに……あれ以来なんのイベントも発生してない。どうして?)
ティーカップを差し出しながらセシルが言った。
「最近は平和だね~」
「平和……それが問題なんだよ!」
エリスはつい声を荒げてしまう。
「普通なら、舞踏会後の余韻でロマンチックな雰囲気になって、個別イベントに突入するべき時期なのに!」
セシルはぽかんとした表情を浮かべ、「え?個別イベント?」と首をかしげる。
エリスは慌てて咳払いをして話題を変えようとする。
「い、いや、つまり……そろそろ何かドラマチックな出来事が起こるべきだってこと!」
「そっか~。でも、平和が一番だよ?」
セシルはのほほんとした様子で紅茶を飲む。
(そう……その平和が今は困るのよ!ここで進行が止まると、ゲームのエンディングに行けないじゃない!)
それだけではない。近頃、エリスは言葉にしがたい奇妙な違和感を抱いていた。
本来ならルークやディランの関心は、ヒロインであるセシルに向けられるべきはずだ。それなのに――どういうわけか、やたらとエリスばかりが注目されている気がするのだ。
特に分かりやすいのはルークだった。何かとエリスに話しかけてくるのだが、そのタイミングが妙に絶妙……いや、むしろ悪すぎると言うべきか。
(なんでセシルと一緒にいるときじゃなくて、私が一人のときを狙って話しかけてくるの? 普通、ヒロインにアプローチするのが乙女ゲームの王道でしょ!?)
内心で不満を爆発させながらも、それを察する気配すらなく、今日もルークは抜群のタイミングで姿を現した。
「やあ、エリス。今日は一人なの?」
(ほら来た!だから、なんでこうもピンポイントで私が一人のときを狙ってくるんですか!?)
エリスは表情に出さず、にこやかに対応する。
「ルーク様、ご機嫌麗しゅうございます」
表面上は丁寧な挨拶。しかし内心ではセシルがいるときに話しかけてくださいよ!と叫びたくて仕方がない。
「ご機嫌麗しいよ。君の顔を見て、さらにね」
さらりとそんな台詞を投げかけてくるルークに、エリスは一瞬固まりそうになるものの、すぐに作り笑いで誤魔化す。
「……あの、ルーク様。お忙しいところを恐れ入りますが、何かご用でしょうか?」
どうにか話を切り上げようと、できる限り穏やかに声をかける。しかし、ルークはその言葉にもどこか楽しげな笑みを崩さなかった。
「特に用事はないよ。ただ君に会えたから声をかけただけさ」
(そういうことはセシルに会ったときにやってよ。どうして私なの!?)
しかし、そんな心の叫びなどお構いなしに、ルークはニッといたずらっぽく笑いながらエリスに一歩近づいた。
「それに、君と話すとなんだか面白いんだよね」
「そ、それは光栄です。でも、ルーク様はセシルとお話しされた方が……きっともっと楽しいと思いますよ?」
必死に話題をセシルへと誘導しようとするが、ルークは軽く肩をすくめて首を傾げた。
「いや、セシルちゃんは可愛いけど、あの子は天然すぎて話が噛み合わないことが多いんだよね。君みたいに反応が面白い方が好きだな」
さらりと放たれたその言葉に、エリスは心の中でさらに激しくツッコミを入れる。
(いやいや、天然でもセシルがヒロインだから! 攻略対象はそっちを狙うべきでしょ!)
それでも表情を崩さず「それはそれは……恐縮です」と曖昧に返す。
だが、ルークの攻勢は止まらない。
「そうだ、今度一緒にお茶でもどう? 君と話してると退屈しなさそうだし」
(いや、なんで私を誘うの? セシルを誘ってよ!)
心の中では全力で拒否しながらも、エリスは冷静さを保ち「それは光栄ですが、セシルも一緒にいかがですか?」と再び誘導を試みる。
しかし、ルークは悪戯っぽい笑みを浮かべながらあっさりとかわした。
「ん~、それもいいけど、まずは君と二人でゆっくり話したいかな」
(まずって何!? 何の順番!?)
それに、ルークの言葉を真に受けてはいけない。そもそも、ゲーム内での彼は典型的な遊び人キャラだった。
甘い笑顔と軽快なトークで数多の女性たちを惹きつけ、優しい言葉で心を揺さぶったかと思えば、あっさりと別のターゲットへ乗り換える――そんな軽薄さを絵に描いたような男。
それでも彼の周囲には常に女性たちが群がり、そのたびにいくつもの涙がこぼれる…というのが彼の設定だった。しかし、物語が進むにつれてルークは少しずつ変わっていく。次第に本当の気持ちに向き合うようになり、最終的には乙女ゲームらしく一途な愛をヒロインに誓う――それがルークのルートの王道展開だった。
(だから、今の段階で浮かれてはいけない。どうせこれも、ただの軽口に過ぎない……はず)
「ルーク様、そういうのはヒロインに――いえ、セシルに対してやった方が……」
エリスが言いかけたその瞬間、背後から明るく元気な声が響いた。
「エリース!お待たせ~!」
振り向くと、セシルがにこにこと満面の笑みを浮かべながら駆け寄ってくる。
(ああ、やっと来た!)
内心で安堵の溜息をついたエリスだったが、その思いとは裏腹に、ルークはお構いなしに口元を緩めて言った。
「じゃあ、今度セシルちゃんがいないときに誘うよ」
ニヤリと悪戯っぽく笑い、軽やかな足取りで立ち去っていくルーク。
(だから、なんでわざわざセシルがいないときを狙うの!? )
エリスは心の中で全力でツッコミを入れながら、ぐったりと肩を落とす。その姿はまるで体力を吸い取られたかのようだった。
そんなエリスの疲労感にまるで気づかず、セシルは首をかしげながら無邪気に尋ねる。
「エリス、どうしたの?なんか疲れてない?」
エリスは苦笑いを浮かべつつ、かろうじて平静を装う。
「いや、なんでもないわ……」
そして最近、妙にディランを見かけることが増えた。授業はもちろん別だし、基本的に廊下で出会うこともないはずなのに、なぜかこのところよくすれ違う。
例えば、ある日の昼休み。エリスが寮に戻るため中庭を通り抜けようとしていた時、ふとディランと目が合った。彼はベンチに腰掛けながら書物を読んでいたが、エリスに気づくと視線をこちらに向け、ほんの一瞬だけ何か考えるような表情を浮かべる。しかし、結局何も言わずにそのまま視線を戻す。
(…私を見てる?…いやいやまさかね…)
次の日も同じような場面があった。廊下を歩いていると曲がり角からディランが現れ、一瞬だけ視線を合わせて無言で立ち去る。わざわざ話しかけてくるわけではないが、どう見ても気にしている様子だ。
というようなことが立て続けに起きているのだ。最早一日に一回はディランを目撃している。
(…話しかけないのに気にしてる素振りを見せるって、逆に意識しちゃうよ…推しの相手はセシルなのに、なんで私に向けられてるんですか、その視線…)
自意識過剰な気もするので冷静になろうとするエリスだが、それでもこうも頻繁に出会うと疑念が拭えない。
(もしかして、これってイベントフラグ!?いや、違う違う!私とのルートはないから!)
エリスの中で、正規ルートが遠ざかっていく不安が日に日に募っていく。そんな中、ディランは相変わらず距離を保ちながらも、まるでこちらを観察しているような態度を崩さない。
(発生するはずのイベントは起きないし、セシルよりも私に意識が向いている気がするし…このままだとシナリオはどうなるの…?)
「セシル、最近…ディラン様とどう? 何かあった?」
エリスは机に肘をつきながら、さりげなく質問を切り出した。ここでセシルが「実は…」なんて答えてくれれば、話が進むのに違いない。
しかし、返ってきた答えは相変わらずだった。
「何もないよ?…あ、そういえば昨日エリスと一緒に食べたお菓子、美味しかったよね!」
「お菓子じゃなくて!ディラン様よ、ディラン様!」
エリスは思わず身を乗り出し、強調するように言い直した。
「え?ディラン様とお菓子を食べればよかったの?」
セシルは首をかしげる。
(違う、違うから!お菓子なんてどうでもいい!)
「そうじゃなくて、もっとこう、接触!交流!距離を縮める的なことよ」
慌てて補足するエリスに、セシルは興味なさげに頷く。
「でも、この前ディラン様に『私たちに構わないでください』って言ってなかった?」
セシルの鋭い指摘に、エリスは思わずう、と言葉を詰まらせる。
(あれはゲームのシナリオ通りに言っただけで…あの選択肢を選べば親密度が上がって、自動的に次のイベントに入れるはずだったのよ……)
エリスは咄嗟に頭を働かせ、なんとか言い訳を捻り出した。
「あ、あれはね……あのとき、あの人たちの仲間とかが私たちの会話を聞いていたかもしれないから、とりあえずディラン様とは関わらないふりをしたのよ!ほら、牽制ってやつ!」
「牽制?」
セシルはさらに首をかしげる。
「そんなことしなくても、普通にお礼を言って帰ればよかったんじゃないの?」
(その通りなんだけど、それを言われたら話が進まない!)
エリスは内心で焦りながらも、笑顔を浮かべてなんとか話を続ける。
「だ、だからこそ!今は逆に積極的に行動するべきなの!もうあの人たちも警戒を解いてるだろうし、ここからが勝負ってこと!」
「勝負……?」
セシルはぽかんとした顔でエリスを見つめる。
「なんの?」
「そ、それはもちろん、ディラン様との距離を縮める勝負よ!」
エリスは勢いに任せて適当に答えたものの、セシルの反応は鈍い。
「距離を縮める……でも、ディラン様は別に遠くにいないよ?同じ学園に通っているんだし」
(ああ、もう!この子、本当に鈍感なんだから…!)
「違うの、物理的な距離じゃなくて、心の距離をだよ!ほら、もっと親しくなるとか、特別な存在になるとか……!」
「私がディラン様の特別な存在に、エリスはなってほしいの?」
エリスは思わず目を丸くした。
(なってほしいかって言われたら、そりゃ…)
「まあ、特別な存在というか」
エリスは言葉を慎重に選びながら続ける。
「ディラン様みたいな素敵な人と仲良くなれば、セシルも学園生活がもっと楽しくなる…と思ったのよ。ほら、学園を卒業したら王族の方と接する機会なんてもうなくなるだろうし…」
セシルはぽん、と手を打った。
「なるほど、つまり今のうちにディラン様とたくさんお話しておけば、後々良い思い出になるってことだね!」
「そ、そうそう!そういうこと!」(そういうことじゃないんだけど、まあ近いからいいか!)
セシルはエリスの言葉を受けて満面の笑みを浮かべた。
「それなら、今度会ったときに聞きたいこといっぱいあるな~!好きな魔法術の話とか、好きな色とか、勉強の仕方とか!」
「おお、いいじゃない!積極的に質問するのは悪くないわ!」とエリスも勢いに乗って同意する。
だが、次の瞬間、セシルが口にした言葉にエリスは凍りついた。
「それと、ディラン様はエリスのことが好きなのかどうかも聞きたいな!」
――時が止まった。
「……はい?」
エリスは固まったままセシルを見つめた。
「ちょ、ちょっと待ってセシル、今なんて言った?」
「え?だからディラン様がエリスのこと好きなのかどうか聞きたいなって」セシルは悪びれもせず無邪気に繰り返す。
エリスは勢いよく立ち上がり「な、なんでそうなるの!?ディラン様が好きなのはセシルでしょ!?私なんかじゃないよ!」と声を上げる。
セシルはポカンとした表情でエリスを見つめる。
「え?だってこの前もディラン様、エリスのことじーっと見てたし、この間も廊下ですれ違ったとき、じーーーっと見てたし?」
「いやいやいや、そんなのただの偶然!たまたまタイミングが合っただけだから!」
「そうかな~?それにルーク様もエリスと話すとき、すごく楽しそうだよね?」
セシルの天然な追撃に、エリスは内心で頭を抱える。
(なんでこの子、無意識でこんな爆弾を投げ込んでくるの!?しかも笑顔で!)
「と、とにかく!」
エリスは気を取り直して話を戻そうとする。
「そういうことは聞かなくていいから!ディラン様には、もっと普通のことを聞くの!好きな魔法術とか、嫌いな魔法術とか、魔法術の今後についてとか!」
「え~、でもディラン様がエリスをどう思ってるか、ちょっと気になるよ?」
「気にしなくていいから!!」
エリスの必死な態度に、セシルは「そっか~」とあっさり引き下がった。
「じゃあ、今度会ったらちゃんと魔法術の話とか聞いてみるね!」
「それでいいの!それで!」
エリスはようやく安堵し、ほっと息をついた。
セシルは「よーし、ディラン様にいっぱい質問するぞー!」と楽しげに決意を固めている。
エリスは心の中で深い溜息をつきながらも、(とりあえず、頑張る方向性は間違ってない…はず…)と無理やり自分を納得させたのだった。




