根回し
エリスがディランに根回しをしようと決意したのは、舞踏会が始まるおおよそ一週間前のことだった。
(さて……どうやってディラン様に接触するか)
頭を抱えながら、エリスは作戦を練っていた。ディランは舞踏会の準備で多忙を極め、エリス自身も日々のダンス特訓に追われているせいで、ここ最近はろくに言葉を交わす機会すらない。
普段であれば廊下や中庭など、偶然を装って出会える場所もあるはずだった。しかし、ディランは王族であり、こちらから会いに行かない限り、庶民も自由に使えるような場所で偶然鉢合わせる確率は限りなく低い。
ゲームの知識を頼りに記憶をたどると、彼が庭園に姿を見せるのは春か秋の心地よい季節に限られていた。この世界でも同じ傾向があると考えるのが自然だろう。
(となると……今はどこにいる?)
過去の情報と今の状況を総合的に分析した結果、エリスが導き出した答えはひとつだった。
――学園の塔の最上階にある書斎。
そこは、王族と一部の上級貴族しか立ち入ることが許されない特別な場所。ディランが静かに物思いにふけるには最適な場所であり、彼がこの時期に滞在している可能性は高い。
だが当然、庶民のエリスが堂々と足を踏み入れられる場所ではなかった。
「確か、ゲームのイベントではディラン様がこの時間帯に書斎に籠もっていたはず……」
エリスは誰にも聞こえないように小さく呟き、辺りを見回した。問題は――どうやってその書斎までたどり着くかだ。
正面から堂々と入ろうものなら、厳しい警備の目に留まるのは間違いない。見つかれば即退学、なんて生易しいものでは済まないかもしれない。
エリスは必死に記憶をたどる。
(確か、塔の裏手に古い階段があって、そこから上階へ繋がる非常口みたいな裏通路があったはず……)
意を決して塔の裏手へ回り込み、茂みをかき分けながら慎重に進んでいく。そして、目の前に現れたのはまさしくゲームで見た通りの古びた階段だった。
「本当にあった……!」
思わず感激の声が漏れる。しかし、喜びも束の間、階段の先にある鉄製の重厚な扉は固く閉ざされていた。錆びついた取っ手を引いてみるが、微動だにしない。しっかりと鍵がかかっている。
(やっぱり簡単にはいかないか……)
扉をじっと見つめ、冷や汗をかきながら必死に頭を働かせるエリス。再びゲームの記憶を呼び起こす。
(確か、ゲームでは掃除係の人が時々この塔に入っていたはず。攻略中にバケツの下に合鍵が隠されてたんだよね……)
その一筋の希望に賭け、エリスはすぐさま近くの掃除用具保管庫へと駆け出した。古びた木の扉をそっと開け、中へ潜り込む。
「ここにあるはず……」
埃を被ったモップやバケツ、雑然と積まれた掃除道具をかき分け、棚の奥を探ること数分――
「あった!」
バケツの底に小さな鍵がひっそりと隠されていた。エリスは思わず胸の奥に広がる達成感に浸る。
(そういえば、ゲームでこの合鍵の場所がわからなくて何度も詰みかけたんだっけ……懐かしいな)
合鍵を鍵穴に差し込み、慎重に回すと、重厚な鉄製の扉がわずかにきしむ音を立てて開いた。エリスは周囲を確認し、素早く中へ滑り込む。
そこは石造りの薄暗い階段が上へと続く、ひんやりとした細い通路だった。足音を立てないよう、一歩一歩慎重に進むエリス。しかし、油断した瞬間――顔にべったりと蜘蛛の巣が絡みつき、思わず小さく息を呑む。
(……ひぃ、こんなところで叫ぶわけにはいかない!)
心の中で絶叫しながらも、必死に冷静さを保ち、手で巣を払いながら進む。石段は思った以上に長く、息を潜めたまま登り続けること約10分。ようやく頂上にたどり着き、エリスは息を整える暇もなく、目の前の重厚な扉の前に立った。
扉の隙間から、かすかに柔らかな光が漏れている。中には誰かがいる――いや、間違いなくディランがいるはずだ。
(ここまで来たんだから、もう引き返せない……!)
意を決して、エリスは震える手で扉をノックする。
「誰だ?」
聞き慣れたディランの低く鋭い声が扉越しに響いた瞬間、エリスの心臓はドクンと大きく跳ね上がる。
「え、エリスです! 少しだけ、お時間をいただけませんか……?」
自分でも驚くほど声が上ずってしまったが、何とか伝える。数秒の静寂の後、扉がゆっくりと開いた。
現れたのは、鋭い視線を向けるディランだった。彼の瞳がエリスを真っ直ぐに射抜く。
「お前、ここにどうやって入った?」
その言葉は冷静で淡々としていたが、声の奥には確かに怒りの気配が滲んでいた。扉の重さとは対照的に、静かに、しかし確実に空気が張り詰めていく。
(やばい……想像してたより険しい空気……!)
エリスは冷や汗をかきながら、必死に作り笑いを浮かべて頭の中で言い訳を探す。しかし、焦りのあまり思考は空回りするばかりだった。
「あ、あの、その……塔の裏に非常用の階段があったので、えっと……」
どこかで聞いたような言葉をつなぎ合わせているうちに、ディランが冷ややかな声で割り込む。
「裏の扉には鍵がかかっているはずだが?」
鋭い視線が突き刺さる。エリスはさらに動揺し、しどろもどろになりながら言葉を紡いだ。
「えっと……ドアをガチャガチャしたら、たまたま開いたっていうか……」
虚空を見つめながら必死に次の言葉を探すが、思いつくのはどう考えても苦しい言い訳ばかり。エリスの視線は宙を彷徨い、心の中では警報が鳴り響いていた。
ディランはさらに目を細め、冷淡な声で言い放つ。
「……お前、その言い訳が通用するとでも思っているのか?」
(ですよねー!!!)
心の中で盛大にツッコミを入れつつ、エリスはもはや投げやり気味に言葉を続ける。
「えっと……違います……! ほら、あの、ゲーム……いや違う、この学園には奇跡ってものがあるんですよ!」
自分でも何を言っているのか分からない。言葉は口から勝手に滑り出し、必死の弁解はもはや支離滅裂だった。
ディランはしばらくじっとエリスを見つめていたが、やがて小さくため息をついた。
「……もういい。どうせ俺に用があるから、ここまで来たんだろう?」
その言葉に救われるように、エリスは顔をパッと明るくし、勢いよく頷く。
「は、はい! その通りです! 実は――」
しかし、エリスが本題に入ろうとした瞬間、ディランはぼそりと呟いた。
「……後で警備体制の見直しをしておく必要があるな」
(まずい、本当に余計なことをしてしまったかも……でも、ここで退くわけにはいかない!)
エリスは意を決し、真剣な表情で口を開いた。
「ディラン様、お願いがあります! セシルを舞踏会でエスコートしていただきたいのです!」
その瞬間、ディランの眉間に深い皺が刻まれる。
「……は?」
短く鋭い声が響き、冷ややかな視線がエリスに向けられた。
「……また妙なことを言い出したな。わざわざそんなことを言いにここに来たのか? それに、なぜ俺がそんなことをしなければならない?」
ディランの冷たい視線に一瞬ひるむエリス。しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。ぐっと拳を握りしめ、必死に平静を装いながら続けた。
「えっと……ディラン様は、身分にこだわらず、誰にでも優しく接する“学園の王子”ですから! その寛大なお心をぜひ――見せつけていただければと!」
「……見せつけて?」
ディランの目がさらに鋭さを増す。
(あっ、この言い方はダメだった!?)
エリスは内心で青ざめながらも、慌てて言葉を選び直す。
「あ、あの……ディラン様の広い懐の深さをですね、皆さんに印象づける絶好の機会かなーって……!」
「広い懐?」
ディランの声が一段低くなり、冷たい空気が場を包む。エリスは焦りながらも、必死に話を続けた。
「いや、要するに! 庶民というだけで見下されがちな生徒もいるんです。今特に標的にされているのは、私とセシルでして……ディラン様がセシルをエスコートしてくだされば、そうした偏見も少しは和らぐんじゃないかと!」
「……なら、お前でもいいじゃないか」
あまりに直球な返答に、エリスは思わず顔を引きつらせた。
「それは絶対にダメです! 既にディラン様と私の間には妙な噂が広まっていて、二人で踊ったら確実に火に油を注ぐことになります! もはや消火不能です!」
ディランは腕を組み、少し考え込むように目を伏せた。
「……それも一理あるな」
短く呟いた後、ふっとため息をつく。
「俺は王族だ。王族には王族なりの立場と付き合いがある。そんなに暇じゃない」
「ですよねー! その通りです!わかります!」
思わず勢いよく相槌を打ちながら、エリスは深々と頭を下げた。
「でも、万が一……本当に少しでもお時間に余裕ができたなら、どうかセシルをお願いします!」
しばらく沈黙が流れた後、ディランは小さく息を吐き、淡々と告げる。
「……約束はできない。だが、余裕ができたら考えてやる」
「は、はい……」
ディランはエリスをじっと見つめ、低い声で問いかけた。
「他に用はあるのか?」
エリスは慌てて頭を下げる。
「い、いえ!もう用事は済んだので失礼します!」
エリスは踵を返し、そそくさと扉に向かう。しかし、扉に手をかけた瞬間、背後からディランの冷たい声が響いた。
「今回は特別に見逃すが……次に無断でここに侵入したら容赦はしない。俺はお前だからといって甘くするつもりはない」
エリスの手が扉の取っ手を握ったまま、固まる。
「こういうことを何度も許すと、つけあがるからな――覚えておけ」
「わ、わかりました!二度とこんな真似はしませんので……!」
エリスはやや上ずった声で答えた。
「いいだろう。それならもう行け」
ディランの冷たい言葉に背中を押されるように、エリスは慌てて部屋を出た。
部屋を出た瞬間、エリスは大きく息を吐く。
(はぁぁぁぁ……怖かった……成功確率は五分五分……いやもっと低いかも…お願いディラン様、当日来てください!)
エリスは当日までの不安を抱えたまま、書庫を後にした。




