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15. 並びたいと願った、その夜に

朝の空気は、思っていたよりも澄んでいた。


 星樹の葉を揺らす風は静かで、夜の名残をほんのわずかに含んでいる。目を覚ました私は、しばらく天井を見上げたまま、ぼんやりと自分の意識を確かめていた。


 夢は、覚えていない。これはもう、いつものことだ。


 なのに、胸の奥にだけ、よくわからない温度が残っている。なにか大事なものを見た気がするのに、それがなんだったのかは思い出せない――そんな、もどかしい後味。


「……まあ、いいか」


 小さく呟いて、身体を起こす。


 視界に入ったのは、毛に覆われた前足だった。狐の身体。獣霊の姿。


 朝だから、こっち。


 最近はもう驚かなくなった……と言いたいところだけど、正直に言えば、毎朝ほんの一瞬だけ「おっ?」とはなる。だって、昨日まで二本足で立っていたのに、起きたら四足歩行なのだから。

 慣れってすごい。


 ベッドから降りて床に足をついた瞬間、世界が少し低く感じられた。


「……あ」


 理由はわからない。

 でも、なんとなく、引っかかる。


 視界の高さ。床との距離。自分が立っている位置。

 昨日と何も変わっていないはずなのに、どこか違う気がして、その違和感を胸の奥にしまい込むようにして、私は部屋を出た。


     * * *


 朝食を終えると、案の定というか、予想どおりというか。


「本日は、軽めの稽古を行います」


 スミさんが、いつもの丁寧な口調でそう告げた。


 ――軽め。


 その言葉を、私は信じた。 信じてしまった。


 いや、待って?この人の言う「軽め」、前回も普通に息切れしたんだけど?? 基準どこ?? 獣霊基準??


 星樹の根が張り巡らされた訓練場は、朝の光を浴びて、土と木の匂いが濃く漂っている。獣霊のための場所だけあって、空気そのものが少し重く、身体を動かす前から「動け」と言われている気分になる。


 空気がもう圧かけてきてるんだけど。まだ何もしてないんですけど!?準備運動どこ行った!?


 私は狐の姿のまま、スミさんと向き合った。


「では、踏み込みから」

「はい……」


 はい、って言ったけどさ。 正直、狐の足の使い方まだ完全にはわかってないんだよね。 前世、四足歩行の経験ゼロなんですが??

わからないながらもとりあえず一歩、前へ出てみた。


「浅いですね」

「うっ」


 心にも刺さるタイプの指摘きた!! 浅いのは踏み込みだけじゃなくて私の理解もってことですよね!!?


「重心が後ろです。もう一度」


 無理無理無理!! 重心ってどこ!?今どこに置けば正解!? 狐用の取説ください!!


 淡々としている。優しいけど、甘くない。


 優しい顔で言うのが一番こわいって知ってます?スミさん、絶対分かっててやってるでしょこれ。


 私は地面を蹴り、もう一度前に出る。身体は動く。反応も悪くない。自分なりに、ちゃんと考えているつもりだ。


 考えてはいる!考えてはいるんだけど!!脳と身体の意思疎通が取れてない!!ラグがある!!


 ……つもり、なのがいけないのだろう。


「今度は、間合いを詰める意識を」

「はい……っ」


 間合いって!!人間のときの感覚でいいの!?狐基準!?それともスミさん基準!?ねえどれですか!?


 息が上がる。

 前足に、じわじわと疲労が溜まっていく。


 もうクタクタなんですが、、まだ朝だよ、?今日一日これで生きていけって言われたら無理だよ、、。


 地球にいたころ、射撃部で鍛えていたはずなのに、使う筋肉が違うと、こうも別物になるのかと感心する余裕も、もうあまりない。

 いや、なんちゃって運動部なりに鍛えてはいたんだけどさ、でもそれは二本足前提だったんだよ!!狐バージョン想定してなかったんだよ!!


「……悪くはありません」


 その一言で、胸の奥が少し沈んだ。


 出た!!褒めてるようで褒めてないやつ!!悪くはない=まだまだ、のやつ、!


 悪くはない。でも、足りない。それが伝わってくる。

 わかってるよ!!わかってるけど!!もうちょっと手加減って概念をさ!狐初心者にさ!!


 ふと、稽古の合間に顔を上げたときだった。

 少し離れた場所に、リリスが立っているのが見えた。獣人の姿で、腕を組み、こちらを見ている。

 

 え、見られてる……?いや、別に変なことしてないけど……してない、よね?必死に四足でジタバタしてるだけだけど……


 その視線は冷たいわけでも、試すようでもない。ただ、静かだった。けれど私は、その視線を正面から受け止めることができなかった。


 ――見上げることになる。


 あ。そうか。これ、いつもこうなんだ。同じ訓練場に立っているはずなのに、立っている“高さ”が違う。

 それを突きつけられるようで、視線を逸らしてしまう。

 別に責められてるわけじゃないのに。なのに、なんでこんなに意識しちゃうんだろ。


 なぜか、少しだけ――悔しかった。

 並びたい、って思うのは。そんなに欲張りなことなのかな。


     * * *


 稽古のあと、私はリリスと島の小道を歩いていた。

 ――歩いている、というより。


 正確には、**並んでいる“つもり”**で、実際は全然並べていない。

 狐の姿の私と、獣人の彼女では、そもそもの歩幅が違う。脚の長さも、体重のかけ方も、地面の捉え方も、なにもかも。

 私はちょこちょこと足を動かし、リリスの少し後ろを追いかける形になっていた。


 ……いや、これ完全に散歩中のペットポジションでは?


 自覚した瞬間、地味に心にダメージが入る。

 リリスは無意識のうちに歩調を落としてくれている。それが、わかる。

 わかるからこそ、胸の奥がむずっとする。


 ――気を遣わせてる。

 ――追いつけてない。


 その事実が、じわじわと染みてくる。


「……リリスは、歩くの速いね」


 ぽつりとこぼした言葉は、半分は感想で、半分は自分への言い訳だった。すると彼女は、前を向いたまま、あっさりと言う。


「普通。エトワが小さいだけ」


 ……あ、はい。


 否定も慰めもない、どこまでも素直な事実陳列。悪意はゼロ。むしろ清々しいくらい。

 わかってる。わかってるけどさ。


 その言葉は、胸の奥にすとんと落ちて、なぜかそのまま動かなかった。

 小さい。弱い。追いつけない。

 稽古のときに感じた感覚が、また静かに蘇る。


 丘の上に出ると、視界がひらけ、遠くに星樹の姿が見えた。

 白い幹は昼の光を受けて淡く輝き、その根元には、世界の中心みたいな静けさが漂っている。


 リリスは足を止め、その場に立って風を受けながら、黙って景色を見下ろしていた。

 私は、その横に立った。


 ――立った、つもりだった。


 視線の高さが、違う。

 同じ場所にいて、同じ星樹を見ているはずなのに、見えている世界の切り取り方が、少しだけ違う。

 リリスの目線は、遠くまで真っ直ぐに伸びている。私の目線は、どうしても地面や根の影に引き戻される。


 ……なんだこれ。


 さっきまで元気にツッコミ入れてたくせに、急にしんみりしてる自分に、内心でため息が出た。

 追いつきたい、わけじゃない。守られたい、でもない。


 ――ただ。


 並びたかった。

 同じ目線で、同じ景色を見て、「きれいだね」って言うタイミングまで、揃えたい。


 それだけなのに、それが今は、妙に遠い。私は無意識に、自分の前足を見下ろした。さっきまで酷使したせいで、まだじんわりと熱が残っている。


 ……狐の姿、嫌いじゃない。むしろ、動きやすいし、感覚も鋭いし、正直ちょっと楽しい。


 でも。


 この姿のままだと、どうしても「見上げる側」になってしまう。

 リリスの横に立つには、視線を合わせるには、


 ――もう少し、違う形が必要な気がした。


 その考えが胸に浮かんだ瞬間、なぜか少しだけ、心が前を向いた。

 焦りでも、劣等感でもなく、「なりたい姿」が、はっきりと輪郭を持った気がしたから。

 私は星樹を見つめながら、心の中で小さく呟く。


 ――いつか。

 ――ちゃんと。


 並んで歩けるようになりたい。

 その願いはまだ言葉にならず、ただ静かに、胸の奥で灯っていた。


 昼下がり、私はお母さんと星樹の内側へ向かった。


 外の光とは少し違う、夜ほど深くはないけれど、確かに「内側」だとわかるやわらかな明るさに満ちた空間。

 白い幹は淡く透けるように輝き、根元から枝へ、星の気配が静かに流れている。


 ……ここに来ると、時間の感覚が少しだけ狂う。

 さっきまで昼だったはずなのに、今はもう夕方みたいな、夢の中みたいな。


 私はそっと幹に手を伸ばした。


 触れた瞬間、星の文字が浮かび上がる。

 光の線は、規則正しく並ぶでもなく、かといって乱雑でもなく、まるで呼吸するみたいに、ゆっくりと明滅していた。


 ……相変わらず、読めるようで読めない。

 いや、読もうとすると、逃げていく。


「今日はね、読むというより、聴いてみましょうか♡」


 エマの声は、いつもより少し低く、柔らかかった。

 読む、じゃない。聴く。その言葉に、私は一瞬だけ戸惑ってから、言われるまま目を閉じる。


 ――聴くって、どういうこと?文字なのに?そもそも、音してないし?


 そんな現代人丸出しのツッコミが頭をよぎった、その直後。星の文字は、意味ではなくなった。

 音でも、形でもない。もっと曖昧で、あたたかくて、輪郭を持たないものが、胸の奥に、ふるりと触れた。


 ……あ。


 思わず、息を止める。


 なにかを「理解した」わけじゃない。言葉にできる情報が、頭に入ってきたわけでもない。

 ただ、知っている。懐かしい。そんな感覚だけが、静かに広がっていく。


 ――これ、覚えてる。


 理由はわからない。いつの記憶かも、誰のものかもわからない。それでも、確かに「知っている」と思えた。



 かつて、私は本を読むのが好きだった。

 教科書よりも、小説や図鑑や、知らない分野の専門書。ページをめくるたびに、知らない世界に触れられるのが嬉しくて、気づけば時間を忘れて没頭していた。


 ……ああ、そうだ。

 現実逃避でもあったし、純粋な好奇心でもあった。文字を追っている間だけは、どこへでも行けた。

 でも、今は違う。星の言葉は、私が追いかけて読むものじゃない。


 ――私が読む、のではなく。


 私の中にあるものを、星がそっとなぞっていく。忘れていた感情。名前をつける前の思い。

 まだ言葉になる前の、気配。それらが、静かに呼び覚まされていく。


 ……ずるい。

 こんなの、泣きそうになるじゃん。


「……読むっていうより、思い出す、って感じ」


 ぽつりとこぼれた自分の声は、思ったよりも素直だった。

 お母さんは、少しだけ目を細めて、嬉しそうに微笑う。


「ふふ♡ 素敵ね」


 その一言で、胸の奥がきゅっと温かくなる。


 本を読むことが好きだった自分が、知ることに、触れることに、心を躍らせていた自分が、

 形を変えて、ちゃんと、ここにいる。


 ……私は、全部を失ったわけじゃないんだ。


 むしろ、別のかたちで、続きを生きている。そう思えたことが、なぜかとても、嬉しかった。

 胸の奥に、静かな光が灯るのを感じながら、私はもう一度、星の気配に身を委ねた。



 星樹の内側を出るころには、外の光がゆっくりと傾き始めていた。


 昼の明るさが、少しずつ輪郭を失って、柔らかな金色に溶けていく。

 風は涼しくなり、木々のざわめきも、どこか音量を落としたみたいだった。


 ――あ、これ。


 来るな。私は無意識に、小さく息を吐いた。もう何度か経験しているから、わかる。


 夕方から夜へ。この星が、精霊の時間へと切り替わる、その境目。


「そろそろね♡」


 お母さんのその一言に、私は小さくうなずいた。夜の準備。

 つまり――私の準備でもある。


 胸の奥に、いつもの感覚が広がっていく。熱が引いて、静けさが満ちる。身体の輪郭が、少しだけ内側に寄っていくような感覚。


 ……はいはい、知ってます。

 この感じ。


 前足――いや、もうすぐ手になるそれを、私は何気なく見下ろす。


 毛並みの感触が、少し薄れる。地面との距離感が、ゆっくり変わる。


 驚きはない。怖さも、もうない。ただ、毎回思う。


 ――相変わらず、静かすぎない?


 変身って、もっとこう……光るとか、風が吹き荒れるとか、あるでしょ普通。

 この星、演出控えめすぎでは?そんなことを考えている間に、身体はもう勝手に移ろっていく。


 視線が上がる。世界の見え方が、少しだけ変わる。昼間、遠く感じていた星の気配が、すっと近づく。


 精霊の姿。


 知っている。もう、ちゃんと知っている。私はゆっくりと立ち上がり、自分の手を軽く握って、開いた。

 指がある。服の感触も、呼吸の深さも、もう違和感はない。


 ……慣れって、怖いな。

 地球では考えられなかったことが、ここでは「いつものこと」になりつつある。


「問題なさそうね♡」


 エマの声に、私は肩をすくめる。


「まあ……もう慣れました」


 本当は、慣れたくない部分もあるけど。でも、慣れないとやっていけないのも、わかっている。

 夜の空に、星がひとつ、またひとつと浮かび上がる。昼のあいだは、ただの景色だったそれが、今ははっきりと「存在」として感じられた。胸の奥が、静かに共鳴する。


 ――呼ばれてるな、これ。


 理由はわからない。でも、行かない選択肢は、最初からなかった。私は、自然と星樹のほうへ視線を向ける。

 夜の闇の中で、白い幹が、変わらずそこにあった。


 派手でも、劇的でもない。でも、確かに、私を待っている。


 ……よし。


 今日も、ちょっと寄っていこう。私はそう心の中で呟いて、誰もいない夜の星樹へと、静かに歩き出した。



  * * *



 夜の星樹は、昼とはまるで別の存在だった。闇に溶け込むはずの白い幹は、月明かりもないのに、淡く発光している。光っている、というより――そこに在ることを、拒否できないほど主張している、という感じだ。

 私はその根元まで来て、そっと立ち止まった。


 ……誰もいない。


 お母さんもいない。スミさんもいない。リリスの気配も、今日は感じない。

 完全に、一人。


 ――いや、一人と呼んでいいのか、これ。


 星樹の前に立つと、どうしてもそう思ってしまう。見られている気がするし、聞かれている気もする。

 でも、それが怖いかと言われると……。


「……まあ、今さらだよね」


 私は小さく息を吐き、星樹の幹に手を伸ばした。ひんやりしている。でも、冷たいわけじゃない。

 木肌に触れた瞬間、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。さっき昼間に感じた「星の言葉」と、同じ感覚。


 ――あー、はいはい。


 来ました来ました。私はその場に腰を下ろし、星樹に背中を預けた。精霊の姿のまま、膝を抱えて、夜空を見上げると星が多い。地球で見ていた星空より、ずっと近くて、ずっと多い。


 昼間のことが、自然と頭に浮かぶ。スミさんの稽古。鬼。ほんと鬼。軽めって言葉、絶対辞書引き直した方がいい。

リリスの背中。獣人の姿で、あたりまえみたいに前を歩く彼女。


 追いつきたいわけじゃない。でも、置いていかれたくもない。


 並びたい。


 ただ、それだけ。


「……欲張り、かな」


 誰に聞くでもなく、呟く。守られて、導かれて、教えられて。それだけでも、十分すぎるくらいなのに。


 それでも私は、もう一歩先を欲しがっている。


 狐のままじゃなくて。精霊のままでもなくて。

 ちゃんと、自分の足で立ちたい。


 星樹は、何も答えない。 ただ、光が、ゆっくりと脈打つ。


 ……でも。


 昼間、文字に触れたときと同じだ。答えは言葉じゃない。正解も、不正解も、今はない。

 それでも、胸の奥に、確かな感覚だけが残る。


 ――続いていく、ってこと。


 私は、ここに来たばかりで。まだ何も成し遂げてなくて。正直、不安だらけで。


 でも。


 星樹の根元で、こうして一人で夜を迎えている今だけは。ちゃんと、この世界に立っている気がした。


「……明日も、がんばるか」


 小さく呟いて、私は目を閉じる。星の光が、木漏れ日のように降り注ぐ。

 派手な奇跡は起きない。劇的な変化も、まだない。


 それでも。


 この星の夜は、確かに私を受け入れていた。

 星樹に寄り添いながら、エトワは静かに息を整える。


 その胸に宿るのは、決意というほど強くはない、

 けれど確かに前を向いた、小さな覚悟だった。


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