王子に婚約破棄されたら国王陛下の後妻にされました。これは何の罠ですか?
19000字ほど。少々長めですが、お気に召しましたら一気にどうぞ。
#女性は一人しか出ないので、百合ではございません。
#ちゃんと恋愛してます。
今日も私は求められぬまま……夫は、眠りについた。
寝室を共にして、早十日。
彼は白い結婚のつもりのようですが、周りの目も合って同衾はしています。
ただ。
私は。
……。
首を振って雑念を払ってから、私は上体を起こし、そっと寝台から降りました。
部屋の隅まで行き、寝巻から隠してある衣服にさっと着替える。
肩から胸元までが大胆に出て、背中が開いています。
一見すると夜会用の派手なドレスのようでもありますが、スカートが極めて短い。
脚は黒く長く薄い下履きでのみ覆っており、ドレス用の下履きは履いておりません。
淑女にあるまじき、男の目を誘うような恰好。
(もう秋も深い。そろそろこの格好も、冷えますね)
少しのため息を飲み込みつつ、青と黒で彩った自身を鏡で確認し、最後に髪を結い上げて留めます。
足音のしにくい、かかとの低い靴に足を収め。
準備は、完了です。
暗い中、寝室のドアを開け。
身を滑り込ませて……閉めました。
さぁ、向かいましょう。
私の、戦場へ。
『ばけ、ものめぇ!』
くぐもった声を上げながら、私より上背のある覆面の男が腕を振りかぶりました。
その手には、闇の中でも少しの光沢を見せる、刃。
私が男の方を向き直ると……一瞬、その視線が私の体に吸い寄せられ、動きが止まりました。
ふふ。衣装の効果は抜群ですね。
――――では早速ですが、お別れです。
(位置よし! 今!)
私はそっと、水平に腕を振るう。
男の真横、20mほど壁が――――我が魔法によって入れ替わった。
獅子の口のような飾りの中から、弩に巻き取られた矢が放たれる。
そして男の脇腹に、見事に突き刺さった。
『ふぐぅ!?』
――――隙が、出来た。
私は床に向かって、右腕を振るう。
男の足元が、〝罠〟に入れ替わった。
種類は【跳ね床】。
それは男の正面から跳ね上がり。
『ぐわぁ!?』
その体を、奥の壁に向かって弾き飛ばした。
一瞬私の視界を遮っていた罠が戻り。
同時に、男が部屋の床に倒れ伏した。
(着地点よし! 今!)
私が上に向かって、右手を掲げると。
男の真上の天板が〝罠〟になった。
そして即座に、魔法が落ちてくる。
種類は……【花瓶】。
『ほごわぁ?』
倒れていた男に当たったにも関わらず、それはなぜか頭にすぽっと入った。
あの中には、混乱を促す魔法のガスが詰まっている。
吸った人間は起き上がり、真っ直ぐに数歩、ゆっくりと歩く。
『なんだこれぇ……いてぇ、いてぇよぉ』
私は両手で数度複雑な印を結び、急いで罠を組み替えた。
床・壁・天井に一種類ずつ。
持ち込める罠自体は、全部で九種類。
それが我が侯爵家に伝わる秘伝、罠の魔法。
非常に強力かつ、燃費がいい。
けれども、設置に時間がかかったり、制限があったりして使いにくい。
しかも見た目ほど威力がないため、「連鎖」させないと敵を始末できない。
意外に頭を使わされる戦闘魔法で、疲れます。
ですが。今晩はおそらくこいつで、最後。
そうですね……部屋の隅の、アレで〆にしましょうか。
(組み換え完了。まずは、壁!)
腕を振るう。
壁が〝罠〟と入れ替わった。
【押し壁】。壁がせり出してきて、人を押し出すというものだ。
壁が男を押し出す。花瓶が割れ、その体がよろめく。
続いて、床。
『なんだぁ!?』
【トラバサミ】。押し出され切った男の足を、ひざ下までがっちりと挟み込みました。
『いでぇ!? ちくしょう!』
男がもがきます。
その隙に私は位置を変え、男の側面に回り、また罠を組み替える。
(設置よし! 今!)
壁が入れ替わり、虎の口がごろりと鉄球のようなものを吐き出す。
これは文字通り【爆弾】。ごろごろと真っ直ぐ床を転がって。
【トラバサミ】に当たり、罠ごと男を吹っ飛ばした。
『ぎゃあ!?』
血潮を撒きながら、その体が吹っ飛ぶ。
だが、加減はしない。続いて私は天井の罠を起動。
同時に念のため、床の罠を組み替える。
大きな質量が、風を切って振るわれた。
それは……【振り子鎌】。
天井から下がった巨大な刃が、勢いよく揺れて。
空中の男を、そのまま切り裂きながら、跳ね飛ばす。
『ひぃやあああ!!』
(やはり飛距離が足りない! ならば、これで!)
私はしゃがみ、床に手を当て、最後の罠を起動した。
床に落ちた男が、突然現れた果物の皮にふれ、つるっと滑った。
【バナナの皮】。ほんの1mほどだが、敵を転倒させつつ移動させてくれる。
男が辿り着いた、先は。
部屋の隅にあった……暖炉の中。
『ヒッ! ここは、ここは嫌だぁ!!』
どこに叩きこまれたのか分かったのか、悲鳴が上がりました。
そういえば……先ほど一度、使いましたねあそこ。
便利なんですよ。
『や、まって、助け』
「国王陛下の寝所に侵入しようとして――――虫の良いことを」
あそこは、魔法の暖炉。
薪を投げ込むと勝手に火がつく。
『ぎゃあああああああああああああああ!!』
人が燃える。よく燃える。
(死体の始末が楽でいいのですが、こうも叫ばれると耳が痛いですね)
私はため息をつき、その大きな広間を見渡しました。
十人以上の……亡骸と血潮。
そして中央に、小さな部屋がある。
――――陛下の、寝室だ。
(防音は施されているとはいえ、少し心配になります)
あの方の眠りを守るのが、今の私の務め。
まぁ、頼まれたのは「国のために力を貸してほしい」だったので、私が勝手にやってるだけなのですが。
陛下の暗殺を防ぎ、その安眠を守るのも……力を貸すの一端でしょう。
しばらく待っても「次」が来ないので、今日は終わりのようです。
そろそろ夜も明ける時間ですし、私も休ませていただきましょうか。
広間の隅まで寄って、壁に手をかざします。
「済みました。広間の片づけを、お願いします」
『は、はい! 王妃様!』
そう、私はこの国の……王妃。
あの日、私は。
王妃に選ばれたのだ。
――――――――二月ほど前の、ことだった。
◇ ◇ ◇
緑の冷たい瞳が……バルコニーから王城外の広場を睥睨している。
その精悍な横顔は、自信と強さに満ち溢れていた。
『――――蛮族どもは押し返した。しかして、奴らを根絶やしにせねば、我が国の安寧はない。
私は再び戦地に舞い戻り、その責務を必ずや果たそう。
我が民よ、我が雷鳴の後に、続け!!』
空気を震わせるお声が、魔法によって広がっている。
万雷の如き声援が、彼を称える声が、沸き立つ。
(相変わらず、民の心を掴むのがお上手です)
『ムンストン王国の天雷』こと、アスター国王陛下。
自ら戦場に赴き敵を蹴散らす、神話に語られるような戦略魔法の担い手。
勇ましく、どう猛で、しかして冷たく……人の温かみに、縁遠い方。
種々の謀略、暗殺にも関わっているとのお噂もあり。
その身辺には、お味方が、少ない。
ですが国民からも軍人からも絶大な人気を誇り、王国の頂点に君臨し続けておられます。
民に手を振り、陛下がこちらに向き直られ、壇上からおさがりになられました。
私は顔を伏せ、膝を軽く曲げ、控えます。
そして少しだけ、肩の力を抜きました。
王族予定の者として、私もこのバルコニーに立ち入っていますが。
女に何かをお求めになることなど、ないでしょう。
「父上、さすがのご演説でした」
陛下を出迎えるのは……その息子。
私の婚約者にして、王太子殿下。
フェイオン様。
「お為ごかしは良い、フェイオン。
いつもは逃げ回っているお前が、何用で式典に参加した」
陛下の冷淡なお声に、私は思わず顔を上げそうになり、堪えました。
確かにフェイオン様は普段、ご公務から身を置いておられます。
しかし忙しい中、陛下の凱旋を祝うため、こうして時間を空けられたのです。
親子だというのに……なぜそのお心づかいが、伝わらないのでしょう。
私の隣のフェイオン様のお顔が、険しくなられました。
「陛下にご注進申し上げたく」
「言うてみよ」
「戦費が嵩み、民の生活を圧迫しているとのこと。新たな戦端を開くのは、お待ちいただきたい」
…………陛下のお答えが止まりました。
なんでしょう、私が見られている、ような?
お前の入れ知恵か?ということでしょうか。
確かに私は、たびたびこういった話を王太子殿下にしております。
ですがこのご諫言については私も初耳ですので、濡れ衣です。
「嵩むわけがなかろう。軍はほぼ動いておらん。
私が出向いて焼き払う。軍は国境防衛を務めているだけ。
新たな占領も最小限で、我が国の負担は軽い」
「しかし実際に! ――――ッ!?」
背筋がぞわり、としました。隣のフェイオン様は、慌てて頭を下げられました。
無意識に、視線を上げると。
陛下が……笑って、おられる。どう猛に、凶悪に。
「どこかが金を使っているのは、把握しておる。
問題は――――なぜそれを、お前が詳しく知っているか、だ」
「そ、それは!」
……その、フェイオン様。そこで私に視線を向けられ、ましても。
…………仕方、ありません。
この方をお支えするのが、私の務めです。
「発言をお許しいただきたく、陛下」
「許す。申せ、アメリア」
「はっ。市場の塩、麦の価格が上昇しており、需要のひっ迫が見て取れます。
ですが近年どの地域でも不作はなく、戦時調達が原因と考えるほかありません。
私からはそのように、王太子殿下に具申させていただきました」
――――嘘です。
価格上昇、需要の高まり、豊作、そして戦時調達。
それぞれの話を、ばらばらにフェイオン様にしたことはあります。
ですがこれらに懸念があると、一つにしてお伝えしたことはないのです。
……まったく筋違い、ですから。
塩はまだしも、麦そのものは調達対象ではない。
調達が原因で価格が上昇しているなどと、口が裂けても言えません。
「……………………そうか。物が先に消えているのだな」
「っ」
私は思わず息を呑み、それを見られないように深く頭を下げた。
陛下の仰る通り……この問題の核は、そちらです。
推移から見て、麦と塩が先に消え、その分のお金が動かされている兆候があるのです。
つまりこれは。
戦争による経済的負担の話、ではなく。
横領もしくは――――内応。
陛下がご懸念されているとおり、どこかが金や物を、勝手に動かしているのです。
……フェイオン様がそれに関わっているとは、私は思いませんが。
…………フェイオン様の横顔が、御緊張なさって、いる?
仕方ない。ダメ押しを、しておきましょう。
「左様にございます。フェイオン様は民の生活を慮っていらっしゃいます。
ご配慮、いただけますれば」
「在庫を放出すれば、思うつぼか。アメリア、どのように見る」
「…………」
私は、少しだけ隣に視線を向け。
複雑な顔でこちらの様子を伺う、フェイオン様を、見て。
口を、開いた。
「価格下落を抑えるため、生産調整を通達されているかと存じます。
上昇率から加味し、この再開でもって対策可能と愚考いたします」
「通達を出し、すぐ人が戻ってくるわけではない。その点はどうする」
「恐れながら、彼らは隠れているだけ、にございます」
「隠し村、か。ふむ、増産に応じて飴をくれてやれば、喜び勇んで陰から出てくるな。
考慮しよう」
「はっ。ありがたく存じます」
陛下が、畏まっている私とフェイオン様の間を、歩いて抜けていく。
一度、止まり。
「フェイオン。この娘を――――手放すなよ」
「…………はい」
私とフェイオン王子は、バルコニーを出て中庭にやってきました。
お疲れなのか、フェイオン様は椅子に少し乱暴に座られます。
「お疲れ様にございます、殿下」
「お前にしては、よくやってくれた。
しかし父上! あの戦闘狂め!」
…………そういえば陛下、私の話は「考慮する」とおっしゃってましたが。
戦については、何も言及されていませんでしたね。
「まぁいい。それで? お前は何の話だアメリア」
「お忙しいところ、申し訳ありません」
「いい、早く話せ」
そう、なかなかつかまらないこの方と話がしたくて、二人きりになれるところにお連れしたのです。
使用人も遠ざけてある。
内々に……おさめなくては。
「そろそろ、婚姻の日取りを具体的にしたく思います」
「あ、あー……そうか。そうだな」
…………王子の目が、泳がれています。
しかしここは、押し込まねば。
「はい。成婚の暁には、フェイオン様のご自由も広がるかと」
だらしなく腰掛け、椅子を揺らしていたフェイオン王子の動きが。
ぴたり、と止まった。
その横顔が、青い瞳が、ゆっくりと私を向いてから。
彼は椅子を蹴って、立ち上がった。
「――――見た、のか」
王子は、こういうときだけ……勘がとても、鋭い。
私は。平然とした顔を、していれば、よかったものを。
問い詰められ……思わず、目を背けて、しまいました。
「見たんだな……」
王子の声音が、静かに怒気を孕んでいきます。
「アメリア! お前の顔など見たくもない! 出ていけ!」
激昂した王子のお言葉に、私は慌てました。
違う、咎めているのでは、ないのです!
「そんな!? フェイオン王子!」
私は首を振りましたが……彼の眉の端は、さらに吊り上がりました。
私が偶然見てしまったのは……「浮気現場」。
行儀習いで王宮に詰めていた、貴族の子女。
彼女と庭の隅で唇を重ねていた、私の婚約者。
それを……遠回しに諫言したわけです。
元々、少々短慮なところが見える方では、ありましたが。
妾なりなんなり、筋さえ通してくれれば私は我慢するというのに……。
私は侯爵の娘で、彼は第一王子です。
個人の情だけで流されるのは、よろしくありません。
今一度、説得しようと口を開いて――――
「うるさい、うるさい!
婚約なんて、破棄だ!
お前だって、浮気ぐらいしてるんだろう!!」
――――私は思わず、席を立っていました。
「な、なんだよ」
「では破談の方向で、まずは陛下にご裁可いただかねば。
失礼いたします」
「おい、アメリア! 待て、彼女のことは言うなよ! おい!」
言うに決まっているでしょう馬鹿者。
頭から熱がすとん、と引いた思いがして。
今はまた、別の熱量が昇っています。
百年の恋も冷める、とは。このような感覚なのですかね……。
「陛下に面会を取り付けて。急いで」
私は東屋から出て、庭を小走りに抜け。
王宮侍女を捕まえて、言伝しました。
誰もいなくなったところで。
口元を引き結び……じっと、耐えました。
まだ彼が、追いかけてくるような気がして。
追いかけてきて、ほしかった、気がして。
でも、顔を見られるのが、嫌で。
これでも、私は。
幼い頃からの、想い人と結ばれるのを。
ずっとずっと――――楽しみに、していたのです。
改めて、別の侍女に案内され、通されたのは。
私がこれまで入ったことのない、場所でした。
(王宮に、こんなところが)
広い広い、部屋。
そこにたくさんの、鎧姿の騎士が……いえ、近衛兵でしょうか。
彼らは私たちに気づくと整列し、道を作ってくれました。
広間の入り口から……中央の、小屋のような部屋?までの道を。
先導する侍女に続き、私は足を進めました。
近づいてみると、その小屋は結構な大きさでした。
少なくとも、私が王宮でいただいている部屋よりは、広さがあるでしょう。
侍女が、扉を叩くと。
『…………入れ』
中から低く張りのある、聞き覚えのある声がしました。
昼間のご様子を思い出し……緊張、します。
聡明ですが情はなく、厳しい、お方。
勢いで来てしまいましたが、王子殿下のことを話した、として。
どうでしょう……私を止め置いた上で、仲裁なさる、でしょうか。
国のためを思えば、それが最良。
我慢は、せねば、なりませんが。
少なくとも……フェイオン殿下を私一人で説得せずに、済む。
私は覚悟を決め、顔を上げました。
扉が開き、私一人が入り。
そして後ろで、閉められました。
そこは……寝室、のようでした。
天蓋のついた寝台が置いてあるだけではなく、執務机なども見られる。
単に休むための場所ではなく、生活や執務ができるように整えられている、ようです。
「アメリア、こちらへ」
少し暗めの室内で、寝台の縁に腰かけている、のは。
(陛下……)
私の婚約……元婚約者と似た、男性。
お顔には少しのお年の跡が見えるものの、まだ壮年と言っていい精悍さ。
今は、昼間見た険しさがとれ。しかしその分……なんでしょう。
とても、お疲れが見えている。
…………実は。好みのお顔立ちの上、とてもお綺麗、なので。
私は陛下のお顔が、まともに見られたことが、ありません。
しかし……寝室。
息子の婚約者を、寝所に招く、とは。
無粋な発想では、ありますが……万が一の場合、私は自裁しなくては、なりませんね。
私は俯き加減に、数歩少しずつ、歩み寄り。
片膝を、つこうとして。
「よい。こちらへ」
陛下の声を受け、とどまりました。
何か、ご自身の隣を手で叩いて、示されています。
いえ、その。
正直、だいぶ……困るのですが。
どういう、ことでしょう。
まさか、本当に私を手籠めに、される?
しかしご命令に背くわけにもいかず、私はそろりそろりと大きな寝台まで進んで。
陛下から、人ひとり分空けて、腰を浅く降ろしました。
「…………国のために、力を貸してほしいのだ。アメリア」
迷われるような、陛下のお言葉の切り出しに。
あまりにも予想の外の、仰りように。
私は惑い……しかし納得した。
どうしてか、事情をご存知で。
その上で私を、王太子婚約者として慰留したい……そういうことでしょう。
しかし。
「このような弱音を、吐くべきではないが」
続く陛下のお言葉は……弱弱しく。
明らかに、ため息を飲み込んでおいででした。
「公式にお前を呼び、話をする勇気は、なかった」
よくはないと思いつつ、陛下のお顔を、そっと見てしまいました。
その、瞳を。緑のさした、目を。
(赤い……それに、今も、濡れてらして)
口元は何かに耐えるように引き結ばれていて。
眉根も寄っていらっしゃる。
(そこまでの、御心労を抱えて……)
けれど陛下は、急にふっと、顔の力を抜かれました。
「いや、最初に口にせねばならぬのはこちらだったか。『息子が、すまないことをした』」
「いえ、そのような!」
「本来は、表立って私が謝罪の意を示さねばならない一件だ。
王家側から持ち掛けた婚姻にも関わらず、私は……アレを、止められなかった」
私はその一言で、気づいて。
言葉を、飲み込んだ。
(やはり陛下は、王太子殿下の浮気を、知ってらした……)
その上で、ずっと慰留に動いてくださっていたの、だろう。
しかし今日、私が面会を取り付けにきたことで。
致命的な結末を、お悟りになったのだ。
王家側から進めた重要な婚姻を、王太子が情でもって破り捨てた。
上に立つ国王としても、御父上としても……そのご心労は、いかばかりか。
「政治的な話になってしまうが。
お前の父、ムスカリ侯爵は私の唯一の味方、だ。
ゆえにこその結びつき。支えてくれたことへの、誠意であった。
だがそれは、こちらから破る羽目になった」
陛下は明らかに、気落ちされたお顔です。
肩は落ち、頬が緩まれておいでです。
公務でお見かけするときは、覇気があり、威風堂々とされたお方なのに。
私は、胸が痛みました。
…………私がもう少し、我慢していれば。
そう思って見ていたら。
陛下のお顔に。
強い決意の色が、漲られました。
「だからこそ。まだ破るわけには、いかない」
「陛下、そうは言われますが、私は……」
途中まで呟き、私は口元を押さえました。
陛下がその緑の瞳を、少し大きくして、じっと私を見ておいでです。
思わず、顔を伏せました。
先の今でつい述べてしまいましたが、ここは言葉を飲み込まなければならなかった。
お疲れの陛下のご配慮を無にするような自分の身勝手さに、羞恥が顔に上がるのを感じます。
ですが。
「……で、あろうな。
奴の所業は、ある程度知れてしまっている。
本人も吹聴しているきらいがある。
一度、破談にするしかないだろう」
なんという、ことでしょう。
私には内密にと言っておきながら、どの口でそのような。
吹聴? 意味がわかりません。問題になるとは思わなかったのでしょうか、あの男は。
ですがここは――――我慢、せねば。
「では、日をおき、もう一度」
私が、今度こそは間違えぬと、口にすると。
陛下のお顔が上がり、こちらを向きました。
そこにあったのは、期待の表情……ではなく。
はっと、されたような。
そして、目元も、口元も、強く引き結ばれて。
「もしもお前がアレをまだ望むなら、その機会は与えよう。
そして同時に、もう一つの選択を、示したい」
そのお顔は、決意。あるいは――――覚悟。
自らが責任を果たす、という。
男性の見せる、強いお心の、現れ。
「――――拝聴、いたします」
意識せず、言葉を零していました。
…………フェイオン王子にも。
未練があった、はずなのに。
たぶん私は。
何かを。期待して、いたのです。
強さの裏で。
今にも崩れてしまいそうな。
この儚い、男に。
「私の後妻になれ、アメリア」
◇ ◇ ◇
(あれから、もう二月)
結局、私は陛下の示した「選択」を受け入れました。
元々私は王子の婚約者だった、こともあり。
内々に、陛下の妻とされました。いずれ、広く知らされることになるそうです。
先妻たるソニア王妃殿下はずいぶん前に亡くなっており、その後、国王陛下は妻を娶っておられませんでした。
聞くと陛下はフェイオン王子と違い、女にお手出しをされることもなく。
妾を持ったことも、ないそうで。
私が、陛下の二人目の女、ということになります。
しかし。物々しい警備の中、この寝室で迎えた初夜。
陛下は……私に手を、出されなかった。
子を作れば争いの元ともなり、私を守り切れない――――と。
あくまで私を慮った、そのご配慮に。
私は、枕を涙で濡らすことになりました。
悔しくて……たまりませんでした。
そして、決意したのです。
私が、陛下を守るのだ、と。
暗殺者をすべて片付け、一息ついた私は。
別室で身綺麗にしてから。
寝室に戻り、また寝巻に着替える。
戦闘衣装は替えもあるとはいえ、今日も返り血でひどく汚れました。
寝台に、そっと戻る。
そこには。
だらしなく眠る、中年の……しかし精悍なお顔が、あった。
(ふふ)
私を振った男の顔に、よく似ています。
『婚約なんて、破棄だ!
お前だって、浮気ぐらいしてるんだろう!!』
頭をよぎった、思い出したくもない台詞に……私は、考えを改めました。
この人は、あの愚かな息子とは、似ても似つかない。
そっと頬を撫でると、ざらりとした感触がありました。
この方は……名の知れぬ侍女に世話されるのを、好みません。
(また世話をお断りになったのですね。お目覚めになったら、お手伝いしなくては)
この感触は、好きです。
少し撫でまわしていると……頬を寄せられました。
起こしてしまったかと身構えましたが、寝息の続きが聞こえ、肩の力が抜けます。
刃を持った侍女が近づくのすら嫌がり。
寝室を大広間で囲って、暗殺者を遠ざけようとする、男。
我が夫たる国王陛下は……命を脅かされることに、疲れていました。
人を遠ざけている冷たい国王では、なかった。
ずっと人に、脅かされ続けて、いたのです。
(あの広間、最初は兵が詰めていたのですよね。
初めての夜は、たびたび聞こえる戦闘音に本当に怯えてらして。
私が防音処置も施して、今は……ずいぶん、安心なされている)
盟友たる侯爵との、信頼の証として……王家入りした、私。
当然に私は、すぐに陛下と寝所を共にすることになりました。
ですが私は、その最初の夜に初めて知ったのです。
この小屋の外の、厳重な警備の理由を。
昼夜を問わず……陛下の身の回りには、暗殺者が潜んでいました。
捕え、殺しても、次から次へと湧いてくるのです。
しかも拷問しても、何も喋りません。すぐ自害し、時に自爆します。
暗殺者を送り込む〝敵〟の存在は捜索されていますが。
「送り込んでいない」とはっきりしているのは……私の、ムスカリ侯爵家、ただ一つ。
他は国の内外問わず、どこの誰が陛下の敵なのか、わからない状態なのだそうです。
私は陛下を守ることを決意し、「侯爵家から手勢を呼んだ」と、信のおける者たちを紹介いたしました。
そして兵を遠ざけていただき、確かに一晩、この寝所を守り。
以来こうして、毎夜戦いを続けているのです。
先ほど、壁越しに魔法で通話した相手が、私が呼んだその一人です。
ですが陛下には、彼らがこの小屋の静かな夜を守っていると……そう告げています。
(こんな小娘がその大役を担っているなどと知られては、ご不安にさせてしまう)
今度は、髪を撫でる。
黒い御髪は……少し指通りが悪い。
脂が浮いていらっしゃる。
公務がお忙しいのも、あるでしょうが……きっと。
沐浴し、無防備な状態を作るのが、お嫌なのでしょう。
(恐れておいでなら、私がお世話してさしあげるのに……)
幸か不幸か、私相手にはご安心なされているご様子。
ですが、肌や髪のお世話は……断られてしまいました。
どうも、体の関係を築こうとしない、ことといい。
あくまで私を生娘のまま、留めて置かれるおつもりのようです。
髪から手を放し、私もお隣に潜り込みました。
私も、少し。少しだけ、休まないと。
穏やかな寝顔が、意外に近くにあって。
私の心も、落ち着く。
今日も陛下の安寧を……お守りすることが、できた。
(おやすみなさいませ、陛下)
◇ ◇ ◇
さらに月日が経ち。
私は……徐々に、陛下と共に公務の場に出ることになりました。
お手伝いは最初からしておりましたが、「王妃として」人目に触れるようになったのです。
表の場ではそれなりに変化があった、わけですが。
裏の……私たちの夜は、相変わらず、です。
暗殺者との毎夜の戦いは、続いています。
もちろん、寝所の防衛は完璧。
私は少しの睡眠不足を抱えてはいるものの、鍛えておりますので、問題ありません。
念のため、きちんと化粧をしているくらいでしょうか。
不明を悟られるわけには……いきませんので。
ただでさえ心労の嵩んでおられる陛下に。ご心配を、おかけしてしまう。
また、その。仲の方も、特に変わりはありません。
お手は出されず、沐浴のお手伝いもさせていただけていません。
あとは……そう。
公務がお忙しいせいか、最近陛下のお寝つきが悪いのが、気になるくらいでしょうか。
「――――聞いておるか、アメリア」
お隣の陛下から、言葉を掛けられました。
公務の場で、たびたび、このように水を向けられます。
「はい。では私からも?」
問い返すと、陛下は鷹揚に頷かれました。
意見を、求められている。私は会議に参加している、軍の重鎮たちの顔を一通り見て。
言葉を、紡ぎました。
「承知いたしました。王宮派遣の国境警備と連絡が途絶えがちな件についてですが――――」
王太子の婚約者として、かつては「準備」をみっちりしてきた私です。
陛下の妻として、その備えも万全なのです。
「――――と実際の連絡経路から見ますと、報告の敵襲対応との差異が見られます」
「な! 我が軍が陛下に背いていると申すか!」
将軍を任されている老齢の男が、吠えるように反論を……いえこれ反論になっていませんね。
ただ不備を指摘され、わめいているだけです。
彼は……私の実家とは別の侯爵家の者、でしたか。本人は貴族ではありません。
「『この資料からはそれが分かりません』という回答でございます、デリー将軍。
ですが陛下、これ以上子細なものを求めるのは、職務に携わる者の負担が大きいかと存じます」
「ふむ。ゲイル、対応可能か?」
「権限を頂けるのでしたら」
ジウム侯爵ゲイル閣下は、デリー将軍の実家の侯爵家の当主。
軍務を取り仕切っており、しかし軍人ではない。
「また口を挟もうと言うのか、甥っ子よ」
「伯父上、それは陛下にご裁可いただくこと。私の勝手ではないのですよ」
お二人は、あまりお仲がよろしくはありません。
…………もう少し手を取り合って、陛下をお支えしてくれないでしょうか。
そんなだからこの人たちは、私の父と違って陛下から「味方」だと思われないのです。
「仕組みを作り、徹底せよ。明らかに、国境の損耗が激しい。
蛮族どもとも小競り合いに、これ以上力を割いてはおれぬ」
陛下がそのように言うと。
場の……軍議の参加者たちが、色めき立ちました。
「陛下! ついにご決断なされるのか!」
誰かの声に。陛下は、鷹揚に頷かれました。
私には……あの始まり夜に勝るとも劣らない、苦悶の表情に見えましたが。
軍神と謡われる、陛下。王国の天雷。ですがご本人はどうも……あまり戦を好まないご様子なのです。
「まず蛮族を押し返す。取って返し、それから進軍。かの国を攻め落とす。
これ以上の横暴は看過できん」
歓声が、湧き上がりました。
…………戦争は、好きではありませんが。
敵がうっとおしい気持ちは、私もよくわかります。
◇ ◇ ◇
「これは如何なことか、父上!」
廊下を陛下や重鎮らと次の会議へ向かっていたら。
久方ぶりに聞く声に、止められました。
…………こうして改めて聞いて、目にすると、言うほど親子で似てはいませんね。
「何用か、フェイオン」
「ナニラ公国に攻め入るとは、どういう了見なのです!」
派手な身振り、芝居がかった姿。
彼のもの言いに……場に緊張が、走りました。
確かに陛下は、蛮族戦の後に取って返して戦端を開くことには言及されました。
しかし「どこか」は言っていません。
候補は、いくつかあるのです。
ですが、そのうちの一つ。ナニラ公国に王子が触れた、ということは。
彼はその国とつながった――――裏切者。
「陛下、これは」
私がそっと、声をかけると。
陛下は私を見て……目を、逸らされました。
…………あれ? どうされた、のでしょう。
息子ゆえ、即刻処刑とはしづらいのは、理解できます。
ですがその。そういう視線の動きでは、なかったような……。
何かフェイオン王子ではなく、私に意識が、向いた、ような。
「もしかして、その女、ですか」
…………え。
なぜ私に、王子の矛先が向いたのでしょう。
「この私を裏切っておきながら!
今度は父上を惑わそうとしているのか、魔女め!」
……いいたい放題、ですね。
私は、思わず前に出ようとして。
目の端に見えた陛下の横顔に、ぎょっとして足を止めてしまいました。
笑って、おられる。
それも、戦いで敵を前にしたときに見せるような、類の。
どう猛な、お顔。
少し記憶に遠くなった、あのバルコニーで見たお顔を、思い出す。
「そうか――――お前では、ないのだな」
その緑の瞳は、真っ直ぐに……フェイオン王子を向いていて。
そしてその端で少しだけ。
私を見た。
「くく。お前がそこまで言うのなら……ナニラにするとしよう」
陛下が呟きながら、フェイオン王子の脇を通り過ぎ、廊下を堂々と歩いて行かれる。
「な、父上!?」
私も陛下の後に続こうとして、驚く殿下の脇を抜けて。
「ぐっ」
肩を掴まれ、振り向かされた。
「お前が! 何かしたのか、アメリア!!」
間近から、唾が飛ばんばかりの勢いで言葉を吐かれる。
……ひどい、顔。保身に、歪んでいる。
私本当に……この男を、好いていたことがあるの?
「痛いの、ですが。殿下」
「とぼける気か! ッ!?」
急に。
掴まれていた手が。
私の肩から、離れた。
「私の妻に向かって、どういう了見だ? 息子よ」
「こ、これは! その」
陛下に捕まれた手を引き、フェイオン王子が、下がる。
陛下が、彼と私の間に、割り込んだ。
「ゆくぞ、アメリア」
「はっ」
私は今度こそ、陛下に続く。
すれ違いざまに。
義理の息子の。
舌打ちと。
「――――お前さえ、いなければ」
囁くような声が、聞こえた。
◇ ◇ ◇
「ぇ。いま、なんと」
礼に欠くことでは、ありますが、つい聞き返してしまいました。
寝室に入ったばかりの、私は。
「部屋を分ける。別の寝室で眠れ、アメリア」
繰り返される陛下のお言葉に――――目の前が、真っ暗になりました。
「それにその方が、夜な夜な出やすかろう」
そして、ぼそっと付け加えられた、呟きに。
打ちのめされ、頭から星が飛んだ思いがしました。
ようやく焦点があった瞳で、寝台の陛下を見ると。
陛下は……口元を手で押さえ、目を見開いておいででした。
思わず言ってしまった。そういう、お顔に見えます。
「ちが、陛下!?」
「…………なにがどう、違うと言うのだ。アメリア」
「それ、は」
私の頭の中で。
『お前では、ないのだな』
昼間の出来事、王子に対するあの不可解な陛下の呟きが、繋がる。
明らかに……私の浮気を、疑われて、いる。
……それは、そうです。無理もない。
毎夜陛下が寝静まってから、私はどこかに姿を消している。
それも、きわめて……煽情的な衣装に、着替えて。
見られて、いたのであれば。
言い訳、できない。
かといって。
私は、慄いた。
(言え、ない)
寝所を出て、夜な夜な広間で戦っているとは……ばらせない。
私が、暗殺者を皆殺しにしているなどと、知られたら。
今でも、兵士や侍女にすら、少しの怯えを見せる、この方に、知られたら。
――――――――嫌われて、しまう。
「…………一人に、なりたいのだ」
消え入りそうなお声に、私ははっとなった。
お一人になりたいのも、本当だろう。
心労がたまって、おられるのだろう。
でも、それだけでは、ない。
こんな状況でも、陛下は。
私を……お気遣い、くださっている。
「わかり、ました」
私の、返答に。
陛下のお顔が、一度上がって。
そして、沈んだ。
…………御年齢を感じさせる、疲れたお顔が、目に焼き付いて。
視界が、濡れて。
私はすぐ目の前すら見えず、手探りで……部屋を出た。
顔を、見られたくなくて。
そこに、いられなかった。
その夜は、ずいぶん多かった気がする。
熱された岩で。鉄の処女で。断頭台で。
侵入者を徹底的に……殺した。
そして今宵も。
最後の、一人。
やたら腰の引けている、男。
念入りに布で身を隠しているのは気になったが。
弱い。造作もない。
壁の罠を、起動する。回転のこぎりが、男の背後から飛び出して……
『ヒッ! 貴様の、せいで! アメリア!!』
――――覚えのある声に、私は無理やり、魔法を止めた。
ばきり、と音がして男のすぐ背後まで迫っていたのこぎりが、砕け散る。
(はっ、まずい! ついやってしまったが、壁の罠がしばらく使えない!)
強制停止には、再起動に時間をとられるという欠点がある。
戦いの最中に、やってはならない行為だ。
回転のこぎり一撃なら、人はすぐ死なない。そのまま、当てるべきだった。
(ぐ、どうすれば!)
壁・床・天井。三つの組み合わせて、いつも罠の発動は考えている。
そのうち一つが、使えないと、なると。
どう戦っていいか――――急に、わからなくなった。
頭を手で押さえ、ふらつく。
『は! 死ねぇ!』
男が……ナイフを握り締め、私に向かって走り込んできた。
青い瞳の暗殺者を――――よろけながらも、かわす。
少し腕をきられたが、咄嗟に床の罠を起動した。
【バナナの皮】が現れ。
『んなぁ!?』
男が勢いよく、すっころぶ。
時間が経ったからか、壁の罠が再利用可能になった。
すかさず印を組み、もっとも早く設置が済む壁と天井の罠を配置した。
まずは壁。
『ぶばぁ!?』
彼の正面の壁から飛来した物体が、起き上がったところの顔面に思いっきりぶつかった。
その顔が、脂っ気たっぷりの白で、染まる。
その罠は【パイクラッシュ】。魔法のパイで、濃い混乱を植え付ける。
さらに天井の罠を、起動。
飛来した巨大な金属の桶の底が、男の頭に命中し、ものすごい音をたてた。
『ほげぇ!?』
男が……倒れた。
この【オオダライ】は普通に当てると、相手の怒りを湧き立たせる。
ただ【バナナの皮】【パイクラッシュ】と組み合わせると、一撃で意識を刈り取るのだ。
よくわからないが……この魔法の組み合わせで、「オチがつく」らしい。
ふらつく体を奮い立たせ、広間の壁に手を付ける。
「至急、回収を。存命1。――――フェイオン王子です」
『わ、わかりました! アメリア様!』
返答を受け、広間の中央に向かって、歩く。
どうしても……近くに行きたくて。
どうしても――――お傍に寄りたくて。
今日は、お眠りになれているだろうか。
沐浴もできていないはず。御髪を整えて差し上げなくては。
お髭は、今朝剃らせていただいた。きっと今触ると、良い感触だろうに。
(陛下……)
私は、小屋の扉に手を付き。
倒れ。
意識を、失った。
◇ ◇ ◇
――――――――アメリア!!
◇ ◇ ◇
何度も、呼ばれたような、気がして。
目を、開きました。
(ああ、おかお、が)
焦点の合わぬ目でも、しかし見間違えたりはしません。
陛下が、私を覗き込んで、おられる。
(おひげが、のびていらっしゃる。
それに、お疲れが、おかおに。
眼が……え?)
ぽたり、と頬に落ちてきたものに、気づいて。
視界が、定まる。
「へい、か」
どこか、痛まれるのでしょうか。
なにか、苦しいのでしょうか。
力が入らぬ左腕を、上げて。
「あめ、りあ。目が覚めぬかと、思った」
掴まれ、ました。
「ずっと私を、守っていて、くれたのだな」
そして、陛下の濡れた頬に、当てられます。
「毒は、抜けたが……手が、細っている、な」
急に――――意識が、はっきりしてきました。
そう、そうです。
私が、寝所を抜け出していると、知られていたのなら。
陛下をお撫でしていたりしたことも、知られて――――!
「おっと」
私は手を引っ込め、布団を被り直し、寝返りを打って陛下に背を向けました。
自分でも、信じられぬほど素早い動きでした。
顔に熱があがって……おさまり、ません。
「くく……そのような可愛らしい顔も見せるのだな、妻よ」
……耳のあたりを、ご覧になられている。
きっと、真っ赤になっています。
恥ずかしい……。
「どうか……そのまま、聞いてほしい。
聞いて気分が悪くなるようであれば、言っておくれ。
口を閉ざそう」
何か決意の籠ったお言葉に。
私は振り返り。
身を起こし。
意外に近くにあった陛下のお顔を、じっと見つめました。
「――――拝聴いたします」
……期待が、あって。
私を妻にと求めてくださった、あの夜の、ような。
ですが……目を、逸らされてしまいました。
「…………せめて、顔を伏せっていてほしい。
堂々と言えることでは、ないのだ」
――――――――陛下が、照れていらっしゃる!?
こここ、これは! あ、血が上ってくらっときます!
ああああ見ていたい見ていたいです! ですが伏せろとご命令が!
赤みがさし、まだ目が潤まれた、そのお顔。
顔を、あげたい。みたい。ですが、我慢、せねば!
「……………………このような、疲れ、年老いた男が。
お前のように若く、未来のある娘に、いうことではないが」
「……はい」
内容には逐一反論したいところでしたが、傾聴します。
絞り出すようなお声でした。
私が話の腰を折ってしまったら、二度と……そのお言葉は聞けない、気がするのです。
これから紡がれるのは、きっと。
お弱りになった、男性の――――本音。
「お前が私の申し出を受けてくれた時、生きる気力が戻ったようであった。
お前が夜な夜な抜け出しているのに気づいたとき、深い絶望を、覚えた」
…………このように陛下のお心を乱していた、とは。
頭の芯にまで血が上って、どうにかなりそう、です。
「寝室の前で倒れたお前を見た時。
ソニアや、イアを失った時のことを思い出し……目の前が、暗くなった」
ソニア様は、前王妃様。
イア様は……陛下の妹君。
ナニラ公国に、嫁がれ。亡くなっています。
「しかし、その。恥ずかし、ながら」
…………陛下のお言葉に、間が空きました。
私はつい、目線を上げてしまい、ました。
顔を手で押さえていらっしゃる陛下は、私の視線には、気づいていません。
――――耳まで、真っ赤になっておいで、なのですが。
こ、これ。この次、私何を言われてしまうのです!?
動悸が、動悸が! おさまりません!
「アメリア」
「ひゃ、はい……!」
精一杯、声を抑えて応えると。
また、間が空いて。
「お前は……美しかった」
幾重にも、布に包まれたような、お言葉。
あの時の、私は。
淑女が見られたら、舌を噛みかえない……はしたない、恰好。
「……意識のないお前から、目が離せなかった。どうか、許してほしい」
そそそそそそれ言ってしまわれるのですか!?
わ、私を見て、情を、覚えられた、と!
「いつもの夜は。お前が隣にいて……心地よく、心が安らいで。
すぐ眠れたゆえ、我慢も効いた」
我慢してるって言った! 言ってしまわれた!?
あわわわ、今の私、簡素な麻服をずぼっと着させられてるだけ!?
だめ、今ダメです! これはやり直しをお願いしたい!
周りに人もおりませんし!
ここいつもの寝室ですし!
この流れはダメ、今はダメです陛下!!
「だが、私はお前を――――愛して、いるのだ」
…………頭の中が、真っ白になってしまいました。
興奮しているのに、穏やかで。
何も考えられないのに、思い通りに動いて。
腕が、勝手に伸びて。
彼の顎を、頬を、両の手が、撫でて。
髪に、差し入れて……そのお顔を、引き寄せる。
「アメリア!?」
お慌てになられている。
ふふ。お可愛、らしい。
「私も……お慕いしております。陛下」
彼の頭を、かき抱く。胸元に、押し付ける。
ふっと。
そのお顔の熱が……引いたような、気がした。
陛下の手が、私の背を、そっと撫でている。
大きな、手。
少しの、ざらつきを感じる。
「良いのだな、アメリア」
ああ――――本当に。
我慢して、おられたのですね。
病み上がりの女を、抱きたい、だなんて。
「はい。お待ちして、おりました」
胸元から、彼の顔が、離れ。
目線を、合わせてから。
ぐっと引き寄せられ。
唇を、はまれた。
…………ちくりとした感触と、柔らかさが。癖に、なりそうです。
「では、遠慮はせぬ」
――――――――はい?
私結局、浮気の疑いは晴れておらず、「未通ではない」と思われていた、らしいです。
後で、頭を下げては、いただきましたが。
…………アスター陛下の、ケダモノ。
◇ ◇ ◇
小高い丘の上、さらに馬に乗って眺めるは、遠く国境向こうに構えられた、砦。
私の背中には……愛しいアスター陛下。
結ばれて、さらに二月ほど。
私たちはナニラ公国と接する、国境付近まで来ていた。
我々は今、伝令を待っています。他の者は出払っていて、いません。
「ナニラの地を踏むのは、久方ぶりだ。
お前と初めて会った時、以来だ……アメリア」
「はじめて、と申されますと」
陛下の仰るところが頭の中で結びつかず、聞き返しました。
「妹の訃報を聞き、私はナニラに渡った。
そしてその忘れ形見を引き取り……ムスカリ公爵領に立ち寄った」
あれ? それ、は。
「お前と、フェイオンが……初めて会った時、でもあるな」
え。
「フェイオンは、ナニラ公爵との取引で、我が息子となった。
だがその時点から、奴の計略だったのであろうな。
暗殺の手引きを、長年息子にさせ続けていたとは。
もっと早くに気づいていれば……ソニアも亡くさずに、済んだものを」
や、その。
これ、聞いてよかった話なのでしょうか?
いや、今からナニラに攻め入るのであれば、別にどうとでもなるお話なの、でしょうけれども。
「ああ、感傷に浸っているわけではない。
ソニアやイアのこと、あまり振り返るのはアレらに却って申し訳がない。
私が今感じているのは……そうさな。
気持ちの悪いことをいうが、妻よ」
そう言われ、ちょっとの予測がついてしまいましたが。
野暮は……言いませんとも。
「拝聴いたしましょう」
「幼きお前を見て、私はきっと、運命のようなものを感じていた」
確かに、その時の私に好意を抱いたなら……いろいろとまずいものがありますね? 夫よ。
でも許してあげましょう。
確かに、私は長年……フェイオン王子を慕っていました。
ですが。
初恋は。
違うのです。
「私もです、アスター様。
――――ですが今、胸元に手を伸ばすのはおやめくださいませ。人が来ます」
「む、確かに」
この夫、少々お若々しすぎるのではないでしょうか。
私は望むところですが。
人目は気にしていただきたい。
『陛下。連れて来ました』
「御苦労」
丘を登ってきたのは、幾人かの騎士。馬に乗った伝令。
そして彼らに連れられてきた……罪人。
「ちち、上」
フェイオン。
かすれた声と、据わった目が、馬上に向けられてくる。
「お前に言いたいことは二つ。
私はお前の父では、ない」
…………フェイオンは当時それなりの年。
彼が驚愕の表情を浮かべたのは、真実を知ったからでは、ない。
「もう親子関係は解消する」という宣言を受けての、もの。
「ナニラ公爵に、お前を返す。
ああ、当人に引き渡すという意味ではないぞ?
心して……我が王国に仕えるが良い」
攻め滅ぼした上で属国化する、ということでしょう。
立地上、緩衝地帯となる国ですし。
王国が直接統治するより、縁者に代理統治させたほうが確かに手間が少ない。
そしてフェイオンを連れてきたのは、おそらく。
……逆らう気を、なくさせるため。
「…………母の仇の貴様の言うことなど、聞くわけがないだろう」
「お前の母イアは、私の妹だが。謀殺したのは、ナニラ公爵その人だ。
証拠もあるとも」
「なんだと!? 口から出まかせを!!」
証拠があると言ったのに、話聞いてないんでしょうかこの元王子。
母の仇だと実の父親……ナニラ公爵に教え込まれ。
敵地に送り込まれていたのは……まぁ同情の余地くらいはありますが。
短慮は相変わらず、ですね。
「しばらく轡をしておけ。うるさくされてもかなわん」
『はっ』
「おのれアスター! ふぐ」
王子は口元を覆う面を被せられた。
うめき声すら、聞こえなくなる。
「ああそう……もう一つあったな」
陛下のお声が、何か楽しげです。
少し私の耳に、囁くようでもありました。
その。人前です。あなたの低く張りのある声を、耳に響かせるのは、おやめいただきたい。
体の奥まで、染み込むようです。
屋外です。戦前です。ご自重ください。
私、あのような戦闘服をまとっては、いましたが。
これでも貞淑な方、なのです。恥ずかしい……。
私のそんな気も知らず、腰……下腹に、彼の両の手が、回る。
「アメリアは私のものだ。――――やっと手に入れた」
…………ぇ。
さっきのお話と、合わせると。
何か気になる、言い回し、なのですが。
「そこの岩陰に繋いでおけ」
『はっ。来い』
フェイオンが連れていかれる。
彼の視線は、ずっと私たちの方を向いていた。
「では始めるとしよう。【天よ】!!」
陛下の堂々たるお声が、響く。
快晴の空の下に。
幾重もの雷光が、閃いた。
砦を何度も直撃し、レンガを砕き、バラバラに解体していく。
慌てた様子で大量の人間が中から出てきて、幾人かは雷に打たれていた。
「追い出しはこれでよいな。アメリア」
陛下に再び耳元でささやかれ、ちょっと意識をもっていかれそうでしたが。
「はい」
気を、引き締めます。
遠く戦場を、改めて見据える。
魔法の防備を上に向かって張りながら、兵がまばらに、しかし多量に砦を飛び出していく。
向かう先は、国境。そこに構える、ムンストン王国軍。
互いに、弓が届く距離に入って……さらに、引き付けて。
(――――位置、よし)
私は大地に向かって、右手を振った。
(今!)
敵軍の先頭が、大地の爆発に巻き込まれ、吹き飛ぶ。
後続は巻き込まれたり、足を止めたり、恐慌状態に陥った。
ただの【地雷】です。
…………大量に、埋設してありますが。
我が侯爵家に伝わる罠の魔法には、いくつか制限がある。
ただその制限は。
部屋の中でのみ、かかる。
天の見える場所であれば、むしろ見渡す限り無制限に、罠を仕掛けられるのです。
燃費もよく、強力で。
凶悪な――――必殺の、罠を。
『ッ!? ――――!!』
目の端に映るフェイオンの顔に、慄きの色と涙が浮かんでいます。
まぁ敵からすれば……天雷に加えて、私の罠の魔法とくれば。
絶望しか、ないでしょうしね。
印をいくつか結んで。
敵軍の周囲を囲むように、大地を〝罠〟に変えてから。
「陛下。囲み、終わりました」
後ろの陛下に、告げる。
「よし。行け。次は矢の雨を降らし、大地を爆弾で耕すと伝えよ。
そやつももうよい。引け」
『『はっ』』
馬に乗った伝令が、急ぎ駆けていく。
徒歩の兵が、フェイオンを引っ立てて丘から降りて行った。
「くく。さすがの罠の名手といったところか。我が愛しき妻よ」
ちょっと陛下? 人がいなくなったからって、私のおなかを撫でまわすのが早すぎませんか?
しかし。
名手、というのであれば。
「あなたには敵いません。アスター」
見事にこの方の罠にはまり、虜にされてしまった私に。
反論など、できようはずもありません。
本当は、どれほど長く私に恋焦がれ、欲していたのでしょう。
本当は、どこまでが演技で、どれが策謀で、どれが本心だったのでしょう。
本当に……どこまでがあなたの、深謀遠慮だったのやら。
――――だからといってこの広々とした天の下で唇を奪って、その嘘偽りない欲望を私に注ぎ込むのは。
いささか、反則ではないでしょうか。
もう私は、あなたの罠の連鎖から。
抜け出せないというのに。
天に雷を、大地に罠を。
その後、後継者にも恵まれ。
かつて謀略と暴力の国と呼ばれたムンストン王国は。
長く静かな、繁栄を続けたという。